こんな人です

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沖縄に渡った理由

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何故沖縄にいったんですか?
よく聞かれる質問だ。
あまり信用されないため、自分から話しはしないが
聞かれれば 嘘はつかず、本当のことを話す。

21の時
昼夜働いて 当時すい臓を壊してしまった私は
派手な仕事をきっぱりやめ、福島県の温泉場にこもった。
そこで 住み込みでスキーのインストラクターをしながら
春を待っていた。

春になり 尾瀬の山小屋のオーナーに 尾瀬の小屋で働かないかと誘われた。
半年の夏の間 尾瀬の自然に癒されるのもいいかと承諾した。

尾瀬は雪とけが遅い。このオーナーのペンションで居候して
尾瀬に上るまで 遊んでいた。
そこは
山深い里で 奇妙なことがいっぱいあった。

奇妙なこととは 普通一般でいう 怖いことだが
私は 人生のほうが よほど恐ろしいと実感していた矢先だったので
別に問題なかった。

そして
10日立った日
私は 山で怪我をした。村の診療所は
「ダメだと思ってください。」とはっきり言った。
ヘリコプターが到着して 麓の病院に運ばれても先生は留守。
過疎の村は 病院より 運と 日頃の行いが 大切なのだ。

運よく ダメにならなかったが
眼を中心に怪我をしたので
すっかりメクラになった。
尾瀬はあきらめ 仙台にもどって 何もないアパートの1室でうずまっていた。

3ヶ月の間 何もせず ただうずまっていた。
歩くこともままならないが
それ以上に ずだずだになった顔や足を 包帯もせずにいて
外にさらす根性がなかったのだと思う。

食べ物は近くのコンビニにいって買い
それ以外 外にでることはなかった。
コンビニで買うときは 「お弁当ください。」
といって店員がランダムに選んだものを 受け取って買うだけ。

ある日 郵便受けに10万円 投函されていた。
名前はなかったが だれかわかった。
以前働いていた職場のお客さんだ。
私は 人前で話しをしたり うたったりする いわゆるMCの仕事をしていて
バブル全盛期、ディスコのDJもしていた。

コンビニで声をかけられたのだが、誰かわからないし
変わり果てた姿をさらす勇気もなかった。
そのお客さんが 見舞い金を投函してくれたのだ。

その封筒をにぎりしめて 涙がでた。
玄関に座って 怪我してから初めて泣いたそのときを 忘れない。

そして そのとき 頭にうかんだのが ○○島 という漢字だった。

そんな場所しらない。
でも そこに行かないと 治らないような気がした。
飛行機も乗ったことがなかったし 海が苦手なので島は脳にインプットされていない。

白い杖をついて JTBにいった。
なんだかわからないけど なんとなくJTBのカウンターにきけばいいとおもった。
そしてカウンターで
「○○島って何ですか?」と聞いた。
そこで 沖縄にある離島であること、新しくリゾートホテルができることを聞き
そこの開業準備室の電話番号を聞いて 帰った。

その開業準備室を聞いたのは その話がでた瞬間
「あ、結婚するんだ」と思ったからである。

その後 その準備室にいて 一番はじめにドアを開けてくれた人が
娘の父親になる。

とりあえず 連絡をして 3ヶ月アルバイトする約束をする。
今考えると 無茶だと思うが
眼がみえないことを 言わなかった。

1週間後 はじめて飛行機にのり、初めて沖縄に上陸した。
封筒のおかげで 仙台を離れることができた。
沖縄本島に滞在2日間。
観光バスにのって 2日すごした。

1日目は南部観光。
何も見えないが 戦争の傷跡と生ぬるい空気とコンクリートの焼けた匂い。
カルチャーショックの連続だった。

2日目 今帰仁城と首里城。
本当はもっと色々行ったんだとおもう。
それしか覚えていないから。

今帰仁グスクに入った瞬間
私は 急変した。この世のものではなくなった。
なにとも言い表せないのだが、身体のそこから べろんとめくりあがるような
裏返しにされたような 獣になった。

そして 気がつけば グスクの拝所の鉄格子にしがみついて
カナサヌヤーワラビ、ナチカサヌワラビ。
と騒いでいた。
何故それを覚えているかというと
バスガイドさんが しっかりみていて その後何年かしてから話ししてくれたのだ。

バスガイドさんは 目がみえない私を気遣って ずっと世話してくれていた。
そして 運転手さんはこういった。
「お客さん、沖縄では あなたのような人をシジダカサーといいますよ。」
今考えれば シジダカサーなのでなく フリムンだったに違いない。
(シジダカサー=霊力の高い人。フリムン=気違い)
 
次の目的地 首里城に行った。
そのころ首里城は まだ復元されていなくて 城壁がのこるだけであった。
運転手さんと ガイドさんにつれられていった場所で
また 私に変化があった。

固まったのだ。何も動かなくなった。
そして 頭を叩かれたような衝撃があって 目があいた。
勿論 視力がもどったわけではないが 両目が見える。
目をあけて すぐ飛び込んできたものは
四角い石。赤い木でできた扉。黒くなった石の門。

ソノヒヤンウタキである。
四角い石は ウタキの香炉。
ソノヒャンウタキは 首里城の前にある御願所で、世界遺産になっている。

私は ソノヒャンウタキに 案内され そこで生まれ変わった。
そして 眼が開き ガイドさんと運転手さんに
挨拶をして ウタキがなんなのか分からなかったけれど
やっと故郷に 帰って来たんだ と確信した。

そして 離島にわたり 14年 島ナイチャーになった。

 

方言保存会婦人部

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方言好きである。
普段は 沖縄方言風今言葉を使う。
沖縄方言ってのは 地域によってかなり異なるし、
例えば 同じ那覇市でも 西町と首里では全然ちがう。
那覇市の公設市場で 首里言葉を使っていたら これまた怒られる。

おそらく 今の50代と 80代では 方言が違うし、
戦後生まれの30〜40代は 首里クトゥバ(首里の王国の子孫が使う言葉)
は聞き慣れないかと思う。

まして子ども達の言葉は まったく新しい方言であり
「だーる」(そうそう)「ちげーら」(ってかんじ〜)「しに」(超)「ばーてー」(〜なので)
なんて使うのは ヤング(死語)なのである。
若者が使う言葉を イマクトゥバという。

学生達から方言を覚え、本当周辺離島語、古代首里言葉を覚え、那覇士族語を覚えたので
普通の順番と異なるが
子ども達の言葉は
共通語と 方言と 擬音をミックスさせて出来上がってる。
これまた 那覇市の子と 離島の子では 言葉が違い
八重山やサキシマになると も〜〜なんでよ〜ってほど違う。

私はこの 団体意識の強い方言がコヨナク好きである。
他のチーム?との差別化、暗号的仲間意識、
田舎と思われたくないけど田舎のどこがわるいか!的な意地。
方言は ドンドン使っていただきたい。

元は東北の仙台育ちで 大正女に育てられ 近所の婆さん達にもまれて成長した。
ちゃきちゃきの 東北弁も活用できる。 

私の東北弁は 伊達士族語というそうで
江戸中期に 武士が城下町に住み、町民と同じように 内職や人形つくりをしていた。
その人達の言葉だそうだ。
約30年前 東北大の教授が 学生達と民俗学の聞き取りに 家によく来ており
そのときに 教わった。
今残ってない言葉(単語)もあるんだそうな。
こちとりゃ、そんなことは しらないが 大正女のお婆ちゃん達の方言である。

3年前 そんな80〜90代のおじいさん&おばあさんと交わることがあった。
その年齢のお年寄りが こぞって集まるのは
お葬式である。
約150名の参列のお年寄りと交流した。
なにしろ 主催であるからして、皆々私と会話する。
「このたびは・・」と頭を下げて 私の顔をみて

「あら〜なんだべ〜ひさしぶりだごっちゃ〜35年ぶりだいっちゃな〜」
お年寄りは言う。
彼らが 「あら〜いや〜」とおったまげてる何秒かのうちに
私は 脳の隅にのこるかすかなデーターをかき集め
誰だったのか 判別する。
結局 最後まで わからずじまいだったりするのだが、

我ながら「偉い」と感心したのは
何十年もつかわない 方言が 自然に出てくることだ。

中には 私が古い言葉を使って話しをするので
「カナーちゃんは 東京さいっても 人と話しできんだべか?」
と心配してくれた 婆様もいた。

私の父親の年代の六十代の おじさんやおばさんが
横で私と おばあさん達の話しを聞いてて
「全くわかんね」とぼけっとしていた。
方言ベテラン勢は 口をほぼ開けず、早口で、ぼそっとしゃべる。
雰囲気で つかめないので 若手の六十代は参加不可能。

「ばんつあん、よめこど しゃべらんねすぺや」
(おばあちゃん、お嫁さんとお話できないんじゃないかい?)
と聞くと、
「んだーんだ。んだげっともっしゃ、テレビでタモリさんとしゃべられっからいいんだすと」
(そうなの、そうなの。でもテレビのタモリさんとお話するからいいの)
と答える お茶目な婆様であった。

語尾が「いいんだすと」で終わってるが
「いいのっしゃ」だったり「いいんでがす」だったりしても
直訳では 「いいんです」に表される。
しかし、言葉にひめられた 感受性はおのおの異なっていて
そこに 本音が濃縮されているのだ。

先日、お米を送ってくださった宮城のお客さんから メールでお孫さんの写真をもらった。
眼の中にいれても 痛くない とはこのことで
「だーれー。みだくね、わらしっこだがら 保育所さもいかせねで ばんちゃんみてんだ〜」
(おほほほ。不細工な子どもだから保育園にも行かさずにお婆ちゃんが面倒みてるんです)
と自慢げである。

私が「めんこい、おぼこだごど」(かわいい赤ちゃんだね)というと
「んだから 店さおいでもうらんねんだ〜」
(そうなので、店に並べても売ることはできないんです)と笑っていた。

その晩、この赤ちゃんのお母さんから電話がきて
「先生が おぼこ っていったから お父さんが 30年ぶりにきいた言葉だといって
 酒飲み始めた。お父さん(63さい)は機嫌よくて酒飲んでるけど
 お母さん(55歳)も私も(26歳)意味わかんないんだけど・・」という。

おぼこ とは小さい子どもという意味で 親しみをこめて使う。
この若いお母さんに おぼこ の意味をちゃんと教えてあげた。
「おぼこってのは マンジュウって意味だから、
 マンジュウ買いにいったら おぼこケサイ(ください) っていうんだよ。」

これで 東北に新しい言葉が 発生するかもしれない。
ともかく
私は 方言もなまりも 大好きで
東京には東京の 横浜には横浜の言葉がある。
それなのに
我が家は まだ 沖縄方言を使用していることをみれば
都会の暮らしに 慣れてない証拠なのかも
しれないジャン。

かなえちゃん

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小学校1年生の時は ほとんど学校に行きませんでした。
不登校なのではなく
家の手伝いが 忙しかったのと
学校に 行かなくちゃいけないんだ という認識が全くなかったためです。

当時 私を育てていた 婆様は 
学校に行きたくなったら 自然にいくだろう と開き直っていたそうですが
本人は 学校というのが 何なのか 情報もないので
わからなかった というのが 実情です。

さすがに 1年生の後半になると
先生がきたり、近所の子どもが学校に行こうと 声をかけるので
あ、私は 学校ってものに 行ってもいいんだ と知ります。

皆が持ってる ランドセルや パッチンってあける筆箱を
おじさんがどこからか 貰ってきて 一応 形になったのを覚えています。

2年生になってから 長い道のりを歩いて 学校にいくようになり
普通の子ども達の 生活を知るようになります。

それでも 
歯ブラシを もらえて 歯磨きがゆるされたのは
中学になってからです。
シャンプーも同じころです。

そういう意味でも 衛生的にも汚い子どもだったと 思いますが
身長も 一番低く 痩せていて 運動はまったくできないので
確かに 栄養状態は 悪かったんだろうと 思います。
牛乳は 給食で 初めて飲んだもので
赤いテトラパックに ストローを刺すのが ものすごく贅沢な気分でした。

小学2年のときに 近所に かなえちゃんが 引っ越してきました。
かなえちゃんの お母さんは 美容院をしていて
かなえちゃんは いつもクルクルパーマで キャンディーキャンディーみたいでした。

かなえちゃんのお母さんは 電話で私の家に電話をして 注文します。
私は 祖母と叔父が経営する 八百屋さんに住まわせてもらっていました。
かなえちゃんのお母さんは 野菜や果物を注文して
私が 学校からかえってきたら ダッシュで 配達するのが 日課でした。

ランドセルを置くと すぐに 配達をします。
かなえちゃんの家まで 10分です。
チャイムをおすと いつもイイ匂いがして
おやつを食べてる かなえちゃんがいました。
お母さんの 手作りの お菓子を食べて、お兄ちゃんがピアノを弾いていて
二階建ての かなえちゃんの家には かなえちゃんのお部屋があって
お人形が 窓の近くにおいてありました。

かなえちゃんのお母さんは 配達にいくたび
かなえちゃんの おやつの様子を教えてくれます。
今日は クッキーで お花の形だとか ココアにマシュマロを入れたとか。

かなえちゃんのお母さんは なにかと声をかけてくれました。
お母さんにあいたくない?
あなたのお父さんは 刑務所にいるのよ。
捨てられても 頑張って生きてね。
お母さんは 隣町の写真屋さんの旦那さんと暮らしてるそうね。

かなえちゃんのお母さんに 沢山教えてもらって
私は 私の家庭の事情を理解していきました。

かなえちゃんの部屋に 上げてもらったことがあります。
かなえちゃんのお母さんは 手編みのひざ掛けを編んでいました。
私が 家の中に はいると
かなえちゃんを呼んで、膝枕して 耳かきを始めました。
かなえちゃんは 気持ちよさそうでした。

その時 初めて 耳かきという事を 知りました。
それ以来、私は 恐ろしい程 耳かきが癖になります。
勿論、耳かきの道具は ありませんから 指を入れて耳をほじくるのです。
子どもの 指しゃぶりのように
気がつくと 耳に指を入れています。
実は この癖は 今でも治りません。

かなえちゃんが 膝の上で 気持ちよさそうだった顔を
今でも 忘れることができません。
私は まだ 人に耳かきをしてもらったことがなく
もし、だれかの膝の上に 頭を乗せることが許されるなら
それだけで かなえちゃんの事を 忘れられるのかな、とも思います。

学生との決別

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私の通っていた学校は 歴史の長い ミッションスクールで
赤いレンガの古い校舎が 有名だった。
中庭には 白鳥がいて
チャペルには パイプオルガンがあり
入り口には 警備員が配置され、周囲には電圧線がはられていた。
幼稚園から大学・短大まである 女子校だった。

私のような 貧乏人には 場違いな学校だったが、
キリスト教精神の女子教育として
私にとっては 一種のシェルターでもあった。

高校3年生の担任は
身体の大きな 定年間近の 牧師で
アイヌ系の ロシア人のクウォーターの彼は
日本人ばなれした体格と、美声で
牧師としても 巷では有名な 宗教家であった。

私は 彼の宗教学の授業が 好きだったので
担任になったとき ひどく喜んだものだった。
厳しく、怖いことでも有名だった変わり者の この教師を好む生徒はいなかったと思う。

私は彼のもとで
隠れキリシタン、近代キリスト教史、明治から大正の女性史
ヨーロッパのカトリックと日本の関係、からはじまり
柳田國男の東北民俗、民間宗教と地方文化、アイヌと琉球。
などなど キリスト教を越えた
宗教学、民俗学を学んだ。
フィールドワーク、レポート。

食いつくように 彼の知識にむさぼりつき
私は 大学に行かずとも なんとか 大学生並の勉強をさせて欲しいと 訴えた。

高校3年生にとって
宗教学の授業など 受験科目でもないのだから
遊びの授業である。
そんなものに 一生懸命になる必要もないのだが

いい教師から いい知識を学び取ろうとする あさましさで いっぱいだった。

おそらく 大学にいけないかもしれないから、
今のうちに 学問を得ようとしたのだろう。

彼の宗教学から 私は新島襄に 傾倒した。
内村鑑三も尊敬した。
札幌農学校のついて 沢山のレポートを提出して
休み時間に 職員室に行っては もっと課題をくれと 頼んだ。

もはや 病気である。
どんなにしても 進学はむりにちがいない。
その思いを 打ち消すように 宗教学も 他の勉強も戦うような勢いだった。

当時、昼間は 学校に行き、夜はバイトをして学費を稼いでいた。
成績も良かった。
それは バイト禁止の学校なのにバイトしてることを 先生達は皆 知っていた。
それの 償いのようなものである。

どんなに バイトを増やしても 大学の入学金が貯められない。
通常の学費すら 危ういので
昼飯は 国語の教師が ゴチソウしてくれていた。
そんな 思いだったから
勉強に餓えていたのに 進学を諦めなければならないと
言い聞かせていたのだと思う。

それでも 新島襄に あこがれていて
京都の新島襄の設立した 大学の神学部に 入って 牧師になろうと 思った。
推薦で入学の確約が できても
やっぱり 入学金は用意できなかった。

その一部始終を その牧師担任はみていて 私は特別に
彼が講師を務める 大学に潜らせてもらい、高校3年生をやりながら
大学に通った。

大学で 学ぶ 民俗学は 猛烈に面白く
今の自分の基礎を 作っている。

そんな高校3年生だったが、卒業して しぶしぶ就職せざるえなかった。
卒業式間近になって
その 牧師担任から 彼の16歳の娘が 自殺したことを聞いた。

それは ひどく 衝撃だったが、
私は冷静に 彼をなぐさめた。
彼は 自殺までのいきさつを語り、こうして語る事が 懺悔だといった。

自殺の理由は 近親相姦である。
家庭内性的虐待とは 違う。
虐待ではなく 親子間の愛情ゆえの 近親相姦であった。

そのころから 私は 世の中の不思議や 大人の世界の恐怖を感じ始めていた。
学生時代とは 違う、大人の闇の世界。
何故、これまで気がつかなかったのか、ドロドロの人間模様。

そういった 社会の汚さや 実情が 色々と多方面から見え出した頃であった。

卒業して 宝石会社の女社長秘書になった私は
2ヶ月もしないうちに 分裂症になった。
離人病、対人恐怖、うつ、統合失調症、になり

すっかり 物を言わないようになった。
感情を表さない、しゃべらない。
病院に行くお金も保険証もないので ただただ空を睨んでいる毎日だった。

5月いっぱいで 仕事をやめて
6月の初め頃 元担任のあの牧師にあった。
彼も 退職して、大きな教会の牧師になっていた。
牧師は 私を 美術館に連れて行った。
美術館に行くなどという 贅沢をしたのは 18歳のこのときが 初めてであった。

美術館に 何の絵があったかは 何も覚えていない。
ただ、白い壁に 絵があって、それを観てもいいのだ という許しのときを
ひたすら 味わっていた。

牧師は その間中、やさしく振る舞い、
私は 社会の人間模様の中で 頑なになった心を 懐かしい教師に癒されていた。

美術館から 出て 石段を 下っていた。
平日の 6月上旬。
人のいない 石段で

牧師は 私の身体を 抱いて 口づけした。

そのとき、私のすべてが 砕けたのだった。もう終わったのだ。
完全に 固まった、動きの一切止まった 私は

牧師によって 石段から 横の草むらに 引きずりだされ
私は 草むらで 暴行された。

草の隙間から見える 石段と
紫陽花の濡れた 葉。それだけを 眺めていた。
私の上に ある 牧師の大きな身体の 重みが 痛みを知らせなかった。

その間
私は 考えていた。
牧師が 生きた65年の歳月は キリスト教と ともにあったはずなのに
キリスト教は この牧師を 慰めることがなかったのだろうか。
私が 共に生きるのは キリスト教にあらず。

それだけを 確信した。
そして 学生時代の 楽しかったことも
チャペルのステンドグラスも
友人も クラブ活動も 練習してもうまくならなかったバイオリンも
すべて
忘れた。

学校の ぬるま湯のような 安らぎも 
すべて 捨てた。

やっぱり 一人なんだ。当たり前の事に 気がついて
逃げ去るように 消えていく牧師の背中を 見ていた。

島からでた決意

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沖縄の離島は空輸と船輸に頼っている。
天候しだいで 物資も不足する。
島にある診療所の医者は 軍配属の医療経験者で本格的な医者ではない。
最近、公立病院ができたのだが
医者がこないので、結局は那覇に渡って病院に行くことになる。

船や飛行機の便数も少なく、確実に乗れるとはわからない。
多額の経費がかかる。
残していく家族もいる。
それよりも、台風がくれば、どんなに急ぐ病気でも搬送されない。

私も2回ほど、自衛隊のヘリコプターで海をわたった。
そのときもなかなか出発できず、同じ機内で一人亡くなった。
病院さえあれば たいした病気でもなかった。

私は出産を期に 身体を壊し、歩けない身体になった。
おそらく病院さえあれば、ここまで悪化することはなかったと思う。
3年ほど車椅子だった。
今は歩けるが、それでも人よりは遅いし、仰向けにねることはできない。
階段は沢山は無理で、走ることはほぼ厳しい。

娘も何度も入院した。
百日咳も、肺炎の時も 薬がないから我慢してといわれ
きっと風邪だろう。と診断されて
娘の友達は二人死んだ。
私は私と車椅子に娘をしばりつけて、那覇の病院に連れて行き
病院の医者に「こんなになるまで ほっておいたのか!」と怒鳴られた。
放っておいたのではない。診療所に毎日通ってたのだから。

友人も妊娠中毒症で死に、
昨年も友達の旦那さんが 浅い海で溺れて亡くなった。
すぐ 病院さえあれば 助かるのに。
という病気で亡くなることは 当たり前のことで
ドクターコトー診療所のような
小さな島で あれだけの薬や設備投資する予算は確保できない。

教え子が事故で亡くなったとき
夜中で ヘリコプターが何時間も到着しなかった。
どんどん 弱っていく姿をみながら
早く死なしてあげて欲しいとさえ 思ったほどである。

娘は 出産のために 私が不随になったので
自分の責任だと思っている。
母の足腰をみるたび、ごめんねといい、自分が母さんに障害を負わせたと確信している。

そして 島で病気でなくなる人をみるたび
自分を責めてきた。
私は そんな小さな彼女を 黙ってみてきた。

小学4年になった頃
私達は 話し合い
彼女は 医者になって 島に恩返しするんだ と言った。
離島の教育事情は酷く、大学進学すら難しい。

それから だれにも頼らず、医者になることも誰にも言わず
彼女は自力で勉強した。
私も一切教えなかった。
そして 小学5年の夏 私と娘はすべてを捨て 島を出た。
電車もみたことのない彼女は 内地にでてきて 4日目に
1・5あった視力が 0・1になった。
今は 0・01。測定不可能。

私は14年で培った仕事も人脈も建てたばかりの家も捨て
離婚して 養育費も慰謝料もなく
二人は なんのあてもなく 少しだけの荷物だけで内地にきた。
彼女は 胃潰瘍になりながら
進学塾のテキストを買って、塾に行かず 自力で東京の中学受験にのぞんだ。
私に 一切 受験の相談もせず、合格書だけを持ってきた。

医者になって 島に恩返しするんだ。
その言葉は 母の身体の責任を背負ってしまった娘の痛みそのものである。

そうやって頑張ってしまった娘を
母は 奈落の底に突き落とす。
「お金ないから 医学部には行かせられない」

何のために 島の幸せを捨ててきたのか、
自分の罪悪感のやり場は ないのか。
彼女はこの2年間 足掻き苦しみ続けている。

それでも 母は 学費はない と言い放つ。

島の仲間達の応援とプレッシャーのなか
彼女は 納得するまで 島には帰らないと 言い切っていた。
島の居心地のよさが 彼女の張り詰めた糸を切ってしまうだろう。
そのとき 気がついてほしい
だれも まりんを 責めていないことに。

勉強ができなくても 医者にならなくても だれも助けられなくても
島は まりんが 笑っていてくれれば
それで 喜んでくれるってことに。

そのとき リセットして もう一度 やり直せればいい。
緊張がゆるんで ぬるま湯に 居場所をみいだしてもいい。
島に戻って 皆に愛されるのもいい。

暖かいバックボーンに後押しされて 奮起するだろう娘の性格をしっているので。


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