こんな人です

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体操着

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娘が産まれ まだ2歳だったろうか。
私は 子供をおぶりながら 授業をし、生徒の前で乳をあげながら
算数や 社会やらを 教えていた。

倒産して給料の不払いの続いたホテルを退社した主人も
隣の村で 塾をはじめた。

当時、私は事故の慰謝料がいくばかりかあり、
それは 本当は 医療費にあて 手術の予定のお金であった。

主人はそのお金を ホテルのオーナーに私に内緒で貸してしまい
案の定 そのままかえってこない。
300万ほどの手術費は 顔と目と鼻の手術であり
沖縄では 治療もできず、東京の大学病院での手術予定であった。

片目しか見えなくても 片方みえるから 別に問題はない。
鼻で呼吸できなくても
口で呼吸できるから 困るわけではない。

主人も 塾を開業できるように
私は 朝は民宿で手伝い、昼は弁当販売、夜は塾。土日はパーラーをした。
なんとか 働いて工面して
場所をかり、パソコンを5台購入して 主人は仕事をはじめた。

そのうち
良くできるいい子が 集まり
なかでも 主人によくなつく中学生の女の子がいた。

少し遠い山向こうから 通ってきていて
行きはバスで来るのだけれど、帰りはバスがないので
どうやら 家まで送ってくるようであった。
この子は 毎日通っていた。
決められた日は 週2回である。
それでも 毎日かよっていた。

土曜日も日曜日も。朝はやくから 夜遅くまで。

私は 何もいわない。
たとえ 村の噂は 沢山耳に入ってきても。
「生徒が熱心に勉強したいのだから」という主人を立てて、何もいわない。

ある日曜日、2歳の娘をつれて
突然 主人の塾の教室に行った。
ドアに鍵が かかっている。
中に人がいるのは よくわかる。

娘が「おとうさん。」とドアの前で呼んだ。

鍵があき、驚いた様子の主人がいた。
そして 
そこには 半そでの体操着に ブルマー姿の この中学生が
机に顔をふせて 肩をふるわせていた。

ちょうど この時期の 日曜日のことであった。

葬式の晩

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祖母の葬式の晩も 家は人が にぎわっていた。
御通夜も葬式も 自宅で行ったため 朝早くから遅くまで 参列者の応対に追われていた。

人の往来の激しい中
父から「ちょっと 相談があるんだ」と呼び出しを受けた。

長男でありながら じぶんの母親のセレモニーの手伝いもしない父に
腹ただしさを 口にだしながら
この人ごみを狙って相談したいのだと 察して 私は呼び出された居酒屋に向かった。

棺おけと3日間添い寝して ろうそくの番を独りで勤めていた私は
あまり 寝ていない 苛立ちもふくめて
父の道楽と 悪行の数々を恨みながら 亡くなって行った祖母に代わって
さて どう料理してやるか と考えながら暖簾をくぐった。

そこには 酒をちびちびやる 白髪の爺さんの姿があった。

私の顔をみるなり
「俺が 責任を追うからや」と言った。

父に育てられていない 私は
父とは 親子の関係ではなく
義理人情と 仁義の繋がりである。
この刺青ものの爺さんも 私に偉そうなことを言ったら 仕返しがこわいらしく
常に 私に怒られるのが 関の山である。

相談の要約は以下の通り。

父の姉妹の一人息子は 私から見ると従兄弟にあたり
私とひとつ違いの事もあって 小さい頃から何かと交流があった。
私は育てられた家を離れ 身内と全く交流がなくなっており
この 祖母の死を期に 久しぶりに対面した。
彼は 一人息子のぼんぼんで
一流大学を出、大手食品メーカーに就職。
10年後、うつ病で退社してから 自殺未遂を繰り返していた。

父は 彼の殺害方法に 悩んでいたのである。

トリカブトもある。
ユンボで 頭をなぐろうか。
山に行って 埋めてしまうか。

父に殺人を依頼したのは 彼の母親である。つまりは父の姉妹。
この母親は 彼に
「お母さん、僕を殺して」と毎日攻寄られ
ノイローゼになって 入院中であった。
自分に手に負えないと思った母親は 自分の入院中に
だれかに 迷惑をかけたらいけないと
父に 殺害を依頼したのである。

昔から兄弟姉妹に 恩義のある父は 断れず 1000万で請負い、
そのほうが 金目当ての犯行として 母親が逃れられる 罪を独りで負えると考えたようだ。
若い時から 親類縁者に迷惑ばかりかけてきた 父は
自分の立場を承知である。
祖母の死を前に 自分なりの オトシマエのつけかただった。

27年ぶりに この従兄弟にあって まさかそんなことになってるとは
私も驚いたのだが、
切羽詰まった 人間の脳は
当たり前の 判断力を奪うのだと つくづく感じる話だった。

白髪あたまの じいさんと 酒をのみながら
黙って 話を聞いた。
戸惑う隙間も ひるむ余裕もない。

すっかりじいさんになったなぁ。かわいいじいさんだな。
そう思って
「独りでやるってのに 私にしゃべったな。笑」と言うと
はっとした 顔をして
それを隠すように 「んで 半分(500万)やっから」と言って 父は苦笑した。


祖母の葬式のお経が 始まっても
私達は 居酒屋で ちびちび 酒を飲んでいた。

父も私も はみ出し者。
葬式で 涙流す立場でもない。

父は 私に 笑われ、怒られ、褒められ、おだてられ、叱られ
その後は 枝豆を運んできた バイトの女の子をからかい
「んだな、んだな、」しか言わなかった。
しかたがないから 少し甘えてあげて 有頂天にしたところで
解放してやった。

いいか、このことは 私が全責任を負うから 口をだすなよ。
私のいう事だけ きけよ。
二言したら 殺すからな。

このごろめっきり小さくなった 刺青の背中に捨て台詞して
私は 父と別れ
祖母の待つ 祖母の葬式に帰った。

その道すがら
さーて どうしよっかな〜と 一瞬考えもしたが
祖母の49日までには 問題解決して 私も横浜に帰ろうと思った。



その後、残念ながら 私に500万は入らなかった。
この従兄弟もその母親も 父も相変わらず 平和に生きている。
先日も私に3000円にぎらして
「あんだはすきなものくわいん」(あなたは好きなものを食べて)
と言って 元気そのものである。

自殺未遂を繰り返したとは 思えない幸せそうな従兄弟の姿に
婆さんも 無駄死にしなかったな と笑った。
49日まで
婆さんが 死んでくれてたおかげで なんとか話をつけた。
婆さんにも 死んでからなお ひと分張りさせたようなものである。

婆さんの死が なければ
私と父が 会うこともなかったし、この従兄弟と再会することもなかった。

平和が なによりである。



 

学生時代

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中高一貫のお嬢様学校に通った。
雪の日、家族に内緒で入試をうけ、面接もうけ
3日後の発表後、祖母にめちゃくちゃ怒られた。

地元の中学に行きたくないのには わけがあった。
家庭環境のことで 執拗にいじめられていたので
そのことは 誰にも話せなかった。
話したら いじめられている以上に傷つくのを知っていたから。
ただ、見つからないように勉強して、見つからないように中学受験をした。

合格の知らせの前に 卒業生から制服をもらう段取りもつけ
おおよその 授業料の計算もした。

よそ者の子を引き取って 育ててるのに
私立に行かすなんて なんて馬鹿げている!

叔父や叔母は 自分達が仕事をして養ってあげてるのに
そのお金の苦労も知らないで・・といい、
祖母は 年金暮らしの大変さ、女は学問はいらないということを怒鳴り散らした。

しばらく黙って聞いていたが
中学まででいいので 学校に行かせて欲しいこと。
必ず、学費は返金すること。
学校から帰ってきたら、働くこと。
それをやっとの思いで 伝えて しぶしぶ了解を得た。

祖母は亡くなるまで そのときのお金の恨みつらみを言ったし
叔父は いまだに 当時 夜遅くまで働かせたことの弁解を一所懸命する。
自分の子どもには 同じように働かせられなかったという。
弁解されれば そのたびに この家の子ではなかった事をかみしめる。

伝統あるお嬢様学校は厳粛なミッションスクールであった。
私の唯一 自慢は この学校の卒業生であることだ。
別に超有名でもなんでもない 学校なのだが
先生方の愛情にどれだけ救われたことか。
女子教育と情緒教育の溢れる理論。
今でも 私の教育理念にはこの母校でのキリスト教理論がある。

定期券が買えず、朝2時間歩いて通い、帰りは友達にお金を貰ってバスに乗った。
遅く帰れば その分 店の仕事が出来なくなる。
なんとかお金をチョロマカして 友達にバス代を返すのだが
かえせないことが多いので、そのうち友達が定期券を買ってくれたりした。

文房具はどんなことをしても買ってはいけなかった。
もし、新しいノートや鉛筆を持っていたら
祖母にどれだけ 罵倒されるかしれない。
一度、新品のノートをもったいるのが ばれて
「このお金は 大人が汗みずたらして働いた金で、お前が使うものではない」
ということを延々に説教され、ノートはやぶかれてしまった。

広告ちらしの裏紙をまとめて ガムテープでとめ(製本したつもり)
それを家では 使った。
学校では 先生に いらない紙をもらったり
友達が レポート用紙やルーズリーフをくれた。
それで、ノートは無かったが、穴をあけてファイリングして使っていた。

鉛筆や消しゴムは どこかに落ちてるものだし
なければ 友達に「カシテ」というだけである。

困ったのは 中学の時のお昼だった。
お弁当を持っていけない。
パンや学食を買うお金もない。
大抵、食べないでいることが多かった。

そのうち、朝 祖母の眼を盗んで おにぎりを作って持って行った。
おそらく、祖母は気がついていたのかもしれない。
それでも、食べられない日が多く、
6クラスある教室を回って、皆から少しずつ貰って食べていた。

恥ずかしさなど なかった。
こんなことで いじめるような学校では 無かったし、
そもそも 恥ずかしいなどと 思っていたら 生きていけないんだ。
先生から ご馳走してもらうこともあった。
何故か 後輩から もてもての女子校ライフだったので
高校の時は 後輩がお弁当を作ってくれた。

高校は他にも仕事をして 学費を捻出した。
足りない分は 先生から借りた。
いまだに返していないのだが。

体育や美術は 成績が悪かった。
体育着がない。他のクラスの人から 借りなければ授業にでられない。
水着もない。
夏は体育着が借りられないことが多く、いつも見学だった。

美術は絵の具や道具が買えない。
教材費を払えないので
あらかじめ、先生に払えない旨話す。
制作できないのだから 仕方ない。

よく 学校に行けたものだと思う。
学校生活は過酷だったが
唯一の逃げ場所でもあった。

パイプオルガンのあるチャペルで 独りで泣いてたこともあった。
中庭の 白鳥に 餌をやりながら 用務員さんと饅頭食べたこともあった。
毎日読む聖書が 支えだった。
朝の礼拝で 賛美歌を歌えることが 自分を保つ素であった。

女は 本を読んだり 字を書いてはいけない。
というのが 家の教えであり
確かにこの家出身の女は 義務教育までである。
本を読んでるところを見られたら どんなに怒られたものか。

私が6歳になって 叔父に子どもが生まれ
彼が保育園にいくと 保育園から絵本が毎月届いた。
私は中学生になって 初めて 絵本を読むことができた。
勿論 私の絵本ではないので
隠れてそっと読むのだ。

中学生になって 知る
アオちゃんキイロちゃん こぐまちゃん だるまちゃん ・・・

それから 隠れて本を読むことが続く。
図書室の本は 借りて持ち帰れない。
もし見つかって 破かれたら弁償できないから。
学校の本は 学校で。

家にある 活字のものは 皆が寝静まったあと 手当たりしだいに読んだ。
新聞は 女子どもが 見てはいけないものだったので
片付けるふりをして そっと服のしたに隠し、トイレでよんだ。

勉強しているところを見つかったら 学校に行かせてもらえない。
家の人が寝てから そっと小さく 灯りをつけ
短時間で勉強した。
夜に電気をつけてることは もっとも贅沢で 無駄なことだ。
暖房のない 冬の夜
外灯の灯りを得るために 窓を開けて勉強したこともあった。

学校生活は 辛いこともあった。
学校で 盗みがあれば すぐ疑われた。
それでも やっぱり 唯一の逃げ場所であり
人間としての 自分を キープできる場所であった。

いまだに 学校の校章を持っている。
お守りのようなものである。 

紙袋

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親がいない子になったのは 正式には4歳のときだった。
産まれてまもなく 親から離れ 祖母が育てた。
育ててくれた と書くべきだろうが、
あいにく 育ててくれたではなく 「育てた」 が適する。

父と母には 私の他にも 子がおり、私にとって妹である彼女は
父と母の認識が濃く 3歳からは母そばで 成長した。

私は 父と母と妹と
そういった 核の一部から はずれ 同じ家の中におりながらも
祖母の手の中にあった。

祖母は 大正の女で 私は幼稚園もろくにいかず
小学校1年生時も2回しか 学校に行かなかった。
祖母は よその子は 学校に通う資格なし。家の仕事をすべし。
そう言って、遊ぶことも許さず ただ店の中を うろうろさせたのだった。

当時、祖母は 八百屋を営んでいた。
戦後まもなく 若くして亭主を亡くし、5人の子供を育てた人である。

私の記憶には
父が 八百屋をしていた様子はみあたらないのだが、
写真や 近所のしゃべりたがりやの おばさんの話から 推測すると
私が歩くようになったそこいらまでは
父と母が 祖母の店を 一緒に営んでいたことがわかる。

私が産まれる前に 男の子が産まれていて
その子は1歳になる前 肺炎にかかり、母がおんぶする帯の中で
吹雪の中 亡くなったそうだ。
祖母は たとえ吹雪でも 肺炎でも 母が仕事を休むことを許さなかった。
働く母の背中で 1歳にならない子供は 横たわることもなく 冷えていったのだ。

そのせいであろうか。
私は生後2ヶ月で 親から取り上げられ 祖母の腕に抱えられた。
隣の部屋には 妹が 母と寝ている。
時折 聞こえる母と妹の声を ふすまに耳を押し付けて 聞いたことを思い出す。

4歳の時だった。
母は 紙袋を2つ持って 妹に靴を履かせていた。
その時、妹は 白い帽子をかぶっていて
その白をみた瞬間 別れを察知した。

「おばあちゃんの いう事をきいてね」

母はそれだけを 言って 私を抱きしめることも無く
出て行った。

その頃には すでに 父もこの家にはおらず
八百屋は 父の弟が継いでいた。

この叔父が 私にとっては 父同様である。
いまだに 父には
「お父さんの 葬式はやってやらないけど、オンちゃん(おじさん)の葬式は私がやる」
と言っているし、父も この叔父に通さずに 私に話しはできない。
かといって 叔父も父を通さずには 私に話できないので
結局、私は どちらにも 縁遠い 存在である。

母が出て行った 夜。
祖母は 布団の中でいった。

「これで あんだは一人なんだから。だれもあんだは いらないんだから」
(あんだ=御前)

そのときの 天井のシミが 人の顔に見えて
いつも その言葉と一緒に 天井にうかぶ 横顔のシミが 脳裏によぎる。

祖母も死んでしまったが
立派な人だったと 尊敬する大正女であった。

 

 

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遠方からたずねてきた お客様に
(これまた すごく 遠いところからで 普通料金の飛行機できちゃったそうです)

「どんな 生き方を 心がけていますか?」

と、聞かれましたので、とっさに

「いなくてもいても どうでもいいような 生き方です」
と答えました。

そしたら、ものすごーくショックを受けられて、眼を赤くして
「折角、東京まで 来たのに そんなこといわないでください」
と 怒られてしまいました。
そりゃ、そうだ。

なので 言いかたを変えまして
「お茶 になりたいと思っています」
と答えなおしました。


まぁ 一服しますべ。


お茶は お茶でも 濃い渋茶なんで、お気をつけあそばせ。


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