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白洲次郎

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    白洲 次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は、日本の実業家。


終戦直後GHQ支配下の日本で吉田茂の側近として活躍し、貿易庁(通産省)長官等をつとめる。独立復興後は、東北電力会長等を歴任した・・・

白洲次郎さんのプロフィール、エピソード等・・・書ききれませんね・・・

車好きでも有名・・・車歴も書ききれません・・・

晩年、最後の愛車はSWBナローです。

68Y、911S、そしてエンジンは2.4LのSに換装されてたようです・・・今考えてもこのパッケージングは究極のナローポルシェだと私は思います・・・ (たしかちょっとした漫画に書かれていたのを思いたします・・・その時は73Y、911RSに乗っていたような? エンジンは2.8RSRに換装? 峠に現れるばかっ速いポルシェ?) 実際峠を走られていたものと思います。

73Y、911RSが究極だと言われる方が多々おられますが・・・

そう思われる方はSWBナローに又は2.4Sナローに乗られた事はあるのでしょうか・・・?

個人的な好き嫌いはあると思いますが・・・この二つの組み合わせ・・・いいですねぇ〜(笑)


・・・写真の1924年式ベントレーは、故白洲次郎氏がケンブリッジ留学当時、英国で愛用した車です。

1925年冬、次郎氏と親友ストラッフォード伯爵ロビン氏とヨーロッパ大陸12日間の旅行の話は、かずかずの逸話、写真が本などで紹介されているので、御存知の方も多いと思います・・・その時の 「シャーシー番号 653」 「登録番号XT7471」 が今でもそのまま付いているそうです・・・

その後この車はレースに使用され、3リッター(2966cc)のエンジンを 4.1/2リッター(4398cc)に載せ替えてあり、高速走行に対応したオーバー・ドライブも装着されています。

・・・車に対しても精通し・・・全てにおいて素晴らしく&気持ちいいですね。。



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     生い立ち

1902年(明治35年)2月17日兵庫県武庫郡精道村(現、兵庫県芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。(別邸は兵庫県伊丹市)白洲家は、摂津国三田藩の儒学者の家柄で祖父・白洲退蔵は、三田藩儒。明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた。また、神戸ホーム(神戸女学院の前身)の創立にも携わる。父文平は、ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績を経て綿貿易で巨万の富を築いた。

1919年(大正8年)旧制第一神戸中学校(現、兵庫県立神戸高校)を卒業。神戸一中時代は、サッカー部・野球部に所属し、手のつけられない乱暴者として知られ、当時、既にペイジ・グレンブルックなどの高級外国車を乗り回し、後のカーマニア・「オイリー・ボーイ」の片鱗を見せていた。同級生には、後に作家で文化庁長官となった今日出海、中国文学者で文化功労者となった吉川幸次郎がいる。妻、白洲正子は随筆家、長男(第一子)白洲春正は元東宝東和社長、次男(第二子)白洲兼正、長女(第三子)白洲(現姓:牧山)桂子は旧白洲邸・武相荘館長。1942年東京都町田市鶴川へ転居し、農業に従事した。

    イギリス留学

神戸一中を卒業しイギリスに留学。ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学し、西洋中世史、人類学などを学ぶ。自動車に耽溺し、ブガッティやベントレーを乗り回す。ストラトフォード伯ロビン・ビングと終生の友となる。ロビン・ビングとは、ベントレーを駆ってジブラルタルまでの欧州大陸旅行を実行している。1925年(大正14年)ケンブリッジ大学を卒業。1928年(昭和3年)父の経営していた白洲商店が倒産したため、帰国を余儀なくされる。

     帰国

1929年(昭和4年)英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」に就職し記者となる。友人樺山丑二の紹介で妹の正子と知り合い、結婚する。樺山正子との婚姻届は兵庫縣川邉郡伊丹町役場(現兵庫県伊丹市)、に提出されています。
その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役を歴任する。この間、海外に赴くことが多く、駐イギリス大使であった吉田茂の面識を得、英国大使館を自らの定宿とするまでになった。また、この頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動すると宣伝されているが当代の碩学の揃った「朝飯会」では無論、端っこにいる存在である。

     ヨハンセン・グループ

1940年(昭和15年)来るべき日米戦争を予感し(夫人の白洲正子によれば、臆病なので空襲をおそれて)、事業から手を引き、鶴川村・武相荘(ぶあいそう)に隠棲。カントリー・ジェントルマンを自称する。食糧不足に対処して農業に励む日々を送る一方で、吉田茂を中心とする「ヨハンセン・グループ」(宮中反戦グループ)に加わり、終戦工作に奔走し、ここから白洲の「昭和の鞍馬天狗」としての活動が始まる。

     終戦連絡中央事務局

1945年(昭和20年)東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣に就任した吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。ここから、白洲次郎の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を向こうに回した戦いの火ぶたが切られる。白洲はGHQ/SCAPに対して当時の日本政府及び日本人がとった従順過ぎる姿勢とは一線を画し、英国仕込みの流暢な英語(白洲は日本語を話す方が訥弁になった)とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さとプリンシプル(原則)を重視する性格から、主張すべきところは頑強に主張し、GHQ/SCAP要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わせしめた。

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に、ぞんざいに扱われたために憤激して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置いてくれとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが、白洲次郎に申し訳ないと謝った。 GHQ/SCAP民政局長のホイットニー准将に英語が上手いと言われ「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」と逆襲した、などGHQ/SCAPとの交渉の間に生まれたエピソードは数多い・・・・・

     貿易庁初代長官

1948年(昭和23年)商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。経済復興には輸出振興が必要であるとし、通商政策の強化を目的とし、商工省を改組し、通商産業省設立の中心的役割を果たした。これはGHQの圧力を利用した通産省の池田派占有のロビー活動でしかなかったと批判されつづけている。1950年(昭和25年)講和問題で、池田勇人蔵相、宮沢喜一蔵相秘書官とともにアメリカに渡り、ジョン・フォスター・ダレスと会談し、平和条約の準備を開始した。

1951年(昭和26年)9月サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ、英語から日本語に直し、沖縄の施政権返還を内容に入れさせた。吉田退陣後は、政治から縁を切り、実業界に戻る。

     実業界へ復帰

既に吉田側近であったころから電力事業再編に取り組んでいた白洲は1951年5月に東北電力会長に就任する。昭和34年(1959年)に退任するまで、精力的に動き福島県奥只見ダムなどの建設を推進した。東北電力退任後は、荒川水力発電会長、大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任した。

     ゴルフ

白洲は、日本ゴルフ界を語るには欠かせない人物でもある。白洲がゴルフを始めたのは本人によると14、5歳の時からで英国留学中はゴルフはしなかったが、帰国してから熱中した。昭和51年(1976年)軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事に就任。メンバーは皆平等、ビジターを制限し、マナーにことのほか厳しく、「プレイ・ファスト」を徹底させた。1982年(昭和57年)同倶楽部理事長に就任する。

田中角栄に対しては、クラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した一方で、田中が手ぬぐいを腰に差すのは、合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。白洲は田中に対しては、人物を認めつつも、余りに金銭的に苦労したことを惜しんでいた。晩年の白洲が政治家として最も評価していたのは宮澤喜一であったが、白洲正子は、これを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している。

     親友との再会

親友ロビン・ビングとは、互いに祖国が戦争状態に入るという不幸な時期を経て、1952年(昭和27年)ロンドンで再会を果たした。最後にロビンと会ったのは昭和55年(1980年)のことであった。

     死去

80歳までポルシェを乗り回し、ゴルフに興じていたが、1985年(昭和60年)11月に正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し、胃潰瘍と内臓疾患で入院。同年11月18日死去。83歳。墓所は兵庫県三田市。正子夫人並びに御子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。 三田市にある心月院には三田藩主九鬼家の墓所があります。ここに次郎の母が県下に分散していた墓を一つにまとめ改葬したという白洲家の墓地もあります。

     エピソード

日本人で初めてジーンズを穿いた人といわれている。長い足に映えた。ラッパズボンも愛用しこれも似合った。戦後の日本でGHQに対してプリンシプルを貫き「従順ならざる日本人」といわれた本当の意味でnoblesse oblidge (高い身分の者に伴う義務。)という言葉が彼ほど似合う人物はいない生き方である。時代の激しい変化の時代にこのような人物がいたことは幸運。。

また昭和26年9月号の文芸春秋に白洲次郎が寄せた一文「日曜日の食卓にて」で父親白洲文平(しらすふみひら)について語ったいます。 父親白洲文平氏もまたこのような豪快な人物であったことがうかがわれます。
 
僕はよく傍若無人だと言われるが、僕の死んだおやじに比べれば、傍若無人なんておよそ縁が遠いと思う。死んだ親父は、こういう人だった。
建築道楽で、家ばかり建てていた。道楽はたくさんあって、ほかの、あまり言いたくない道楽もあったが、そして、いつでも建てる家は日本館にきまっている。僕のおやじは外国育ちの男だ。そこで西洋館は靴を脱がないでもいいから西洋館がいいじゃないかと言ったら、外国じゃ道がとてもきれいだ。だから靴のまま上ったって汚くない。だけど日本みたいな、こんな汚い道を歩いて来て、そのまま上られたらたまらない、だから日本館がいいと、言う。ところが、そのおやじは靴履いて畳の上を歩くのだ。そして人が汚いじゃないですかと言うと、俺は別だと言って澄している。これがほんとの傍若無人というものだ。。

僕のおやじは、子供のときから外国育ちで、ほんとの意味のお洒落だった。晩年は九州の、大分と熊本との国境に、百姓をして独りで住んでいた。もっとも女中かなんかはいたけれども、東京に来るときは、木綿の刺子の紺の股引をはいて、上にはツイードの洋服を着て、荷物は全部猟に行くときの網に入れて、それで東京に来て平気で歩いている。そういう人だった。死んだという電報が来たので、妹が行ったら、ベッドに独り死んでいて、ベッドの下を見たら、棺桶が入っていた。それはほんとの田舎で、身体が大きいから、出来合いの棺桶ではあとの者が困るだろうというので、前からつくってあったのだ。こういうことも皆傍若無人の現われといえよう・・・・・ 

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白洲次郎さんとポルシェ素敵ですね。最高にかっこいいです。僕も白洲さんのようなポルシェ乗りを目指したいのですが、、、現実ちがい過ぎですが、、。また、人生の最後にナローのハンドルを握っていた事もポルシェ好きには嬉しい限りですね。・・・・頑張ろう。 百合野。

2007/8/28(火) 午前 0:44 [ ろんたん ] 返信する

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本当にかっこいい人だと思います。。

67Sは・・・おじいさんになっても乗ってくださいね・・・(笑)

2007/8/28(火) 午前 9:26 [ 元気 ] 返信する

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はじめまして。白洲次郎氏について随分詳しいのですね。良い勉強になりなした。有難うございました。三田には6年間通学しました。

2008/6/1(日) 午後 10:44 tueda67 返信する

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はじめまして、訪問ありがとうございます。

2008/6/3(火) 午前 8:36 [ 元気 ] 返信する

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