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  幸福とは何であろうか?

  その答えが、釈尊成道四十九日菩提樹の下で

  梵天との対話にあると感じます



  「わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、

  絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。

  ところがこの世の人々は、執著のこだわりを楽しみ、執著のこだ

  わりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。さて執著のこだわりを

  楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人びとには、

  (これを条件としてかれがあるということ)すなわち縁起という

   道理は見がたい。またすべての形成作用のしずまること、すべての執著

  を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やすらぎ

  (ニルバーナ)というこの道理もまた見がたい。だから、わたくしが理法

  (教へ)を説いたとしても、もしも他の人々がわたくしのいうことを理解し

  てくれなければ、わたくしには疲労が残るだけだ。わたくしには憂慮が

  あるだけだ。」



  「汝、明智ある者よ、あまねく見る者よ、憂いを離れた者よ、憂いに陥り生死

  の苦しみに悩む人々を観察せよ

  立て、勇者よ、戦勝者よ、世間を歩め。

  隊商主よ、負債なき者よ、法を説示せよ。

  世尊よ、人々は知者となろう」


   梵天の懇願を知り、かつ、生けるものたちへの
  
  慈しみによって、仏眼をもって世間を観察した・・・



  「梵天よ、耳ある人々に不死の門が開かれた

  人々は妄信を棄てよ

  梵天よ、わたくしは人々をそこなうであろうという想念のために

  賢くも精妙な法を人々に説かなかったのだ」
  


  

魂の洗濯

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   洗濯機で衣服を綺麗にする事は日常のことであります。

  山奥の我が宿舎にも30年程前の製造と思われる洗濯機が活躍しておりますが・・・

  渦の中でどんどんと洗い清められていく衣服

  反対に水は追加され増えつつもどんどんと濁っていきます

  最後は、排水され脱水され乾燥(そんな機能は我が宿舎にはありませんが)

  きれいな衣服となります。

  魂も似たようなものであると思うのです。

  宇宙という巨大な渦の中で回り続けている

  そして、水に値するものは「思考」

  渦のエネルギーは分離・選択の二元論思考

  生れ落ちてから死ぬまで休まることが無い思考

  五官からの情報に基づいて一瞬にして快・不快を基に条件反射し思考・選択していきます

  魂が綺麗になるためには、渦の中で回ることは大切なこと

  しかし、汚れた水の中でいつまでも回り続けていても意味も無いこと

  また、泥のついた衣服が一緒にあれば以前よりまして汚れてしまいます

  汚れた水を流し

  綺麗な水で洗い落とし

  それもまた排水し

  水を切って綺麗になることができる


  水とは思考

  思考の中では決して完成することはない

  すべての思考を捨ててこそ完成することができる

  必死に幸せだと掴んでいるもの、掴もうとしているものは泡のようなもの
 
  瞬時に変化し滅していくもの


  思考とは、過去の経験や知識のうえにたって連想するもの

  完成されていない過去からの記憶をいくら捏ね繰り回してもは決して完成はありえない

  すべて捨ててこそ完成を見ることができる

  そして、完成したいという思い思考もすべて捨て去らなくてはいけない

  
  渦の激流

  激流の流れを観察し

  流されること無くよく注意し

  激流からの解脱

  

  

  

  
                                                                                                
 多くのブログでのやり取り、それは、常に自身が思い描く幸福に向かっての書き込みである。

 ゆえに渇愛の状態であり成ろうとしている。だから、決して成らない。

 なぜなら発するエネルギーが帰ってくるからである。

 希望という光へのあこがれ、その思いは、どこから来るのか

 不安で孤独で欲求にみちた苦しみから、救いを求めている

 そのこころがあるから希望するのである

 不安だから希望するのである

 だから、思想・哲学をつくりあげ、それにすがりつく

 しかし、何かを信ずることは、他を否定することであり、二元論の輪廻の世界

 それは、人々を分離させるものであり争いの火種である。

 分離するから戦争がおこるのである。


 自身を縛る思想・枠・見を正しく見ることによってのみ、はじめて全体と成りえる。

 必死に幸福となりたいという思い・思想・哲学は、執着である

 必死にすがりついている思想を手放すことによって自由となる

 なぜ、執着し・分離するのか

 ありのままを見ることを恐れているからである

 見ることへの勇気を

 なにも恥じるものはない・・・


 真理は全体

 一つの思想、哲学、宗派という分離の中にあるはずがない

 ブログを盲目にさせるものであってはならない。

 同じ思想を持つ者の分離の集まりであってはならない。

 不幸の原因を、なんの見もない眼で見ることによってのみ解脱することができる。


 そして、これも、また、ひとつの思想ではあってはならない・・・

 自身の眼で考え見ること

                     愚か者のささやき・・・


 見るためにしばらくブログは、しばらくお休みいたします・・・

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 きび・ディングラカ・チーナカ豆・野菜・球根・蔓の実を善き人々から正しいかたちで得て食べながら、欲を貪らず、偽りを語らない。

よく炊かれ、よく調理されて、他人から与えられた純粋で美味な米飯のし食物を舌鼓うって食べる人は、なまぐさを食らうのである。カッサパよ。

梵天の親族(バラモン)であるあなたは、おいしく料理された鳥肉とともに米飯を味わって食べながら、しかも「わたしはなまぐさなものを許さない」と称している。カッサパよ、わたしはあなたにこの意味を尋ねます。あなたの言う「なまぐさ」とはどんなものなのですか。

「生物を殺すこと。打ち、切断し、縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、・・・これがなまぐさである。肉食することがなまぐさいのではない。

この世において欲望を制することなく、美味を貪り、不浄の邪悪な生活をまじえ、虚無論をいだき、不正な行いをなし、頑迷な人々、・・・これがなまぐさである。肉食することがなまぐさいのではない。

粗暴、残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、物惜しみする性で、なんびとにも与えない人々、・・・これがなまぐさである。肉食をすることがなまぐさいのではない。

怒り、驕り、強情、反抗心、偽り、嫉妬、ほら吹くこと、極端の高慢、不良の徒と交わること、・・・これがなまぐさである。肉食をすることがなまぐさいのではない。

この世でほしいままに生きものを殺し、他人のものを奪って、かえってかれらを害しようと努め、たちが悪く、残酷で、粗暴で無礼な人々、・・・これがなまぐさである。肉食をすることがなまぐさいのではない。

これら「生けるものものども」に対して貪り求め、敵対して殺し、常に害をなすことにつとめる人々は、死んでからは暗黒に入り、頭を逆さまにして地獄に落ちる。・・・これがなのぐさである。肉食をすることがなまぐさいのではない。

魚肉・獣肉を食わないことも、断食も、裸体も、剃髪も、結髪も、塵垢にまみれることも、粗い鹿の皮を着ることも、火神への献供につとめることも、あるいはまた世の中でなされるような、不死を得るための苦行も、ヴェーダの呪文も、供犠も、祭祀も、季節の荒行も、それらは、疑念を超えていなければ、その人を清めることができない。

通路「六つの器官」をまもり、器官にうち勝って行動せよ。理法のうちに安立し、まっすぐで柔和なことを楽しみ、執着を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は、見聞したことに汚されない。

以上のことがらを尊き師「仏陀」はくりかえし説きたもうた。ヴェーダの呪文に通じた人「バラモン」はそれを知った。なまぐさを離れて、何ものにもこだわることのない、跡を追いがたい聖者「仏陀」は、種々の詩句を以ってそれを説きたもうた。

目覚めた人「仏陀」のみごとに説きたもうた・・・なまぐさを離れ一切の苦しみを除き去る・・・ことばを聞いてそのバラモンは、謙虚なこころで、全き人「仏陀」を礼拝し、即座に出家することをねがった。

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食生活の二元論思考

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  先日、「菜食のすすめ」というHPを読みました。

 ただ、驚くばかりで、肉製品の実態を知りました。そして

 毎日、世界中で、食用に家畜された牛や豚・鳥などが殺戮され貪り食べられております。

 スーパーに陳列している肉、調理された肉、焼肉・しゃぶしゃぶ、焼き鳥、何気なく買って

 楽しく料理し美味しいと喜んで食べていた裏には、たくさんの悲しみがあったのです・・・(涙)

 それは・・・知っていたが、うん・・・正直、見たくなく避けていました。

 私の人生中で、この事実は、かなりの衝撃、一大ショックでありました。

今までの人生、どれだけの悲しみを食べてきたのだろうと・・・(涙)

 お釈迦様の教えでは、知っていて悪行をすることより、知らずに分からずに悪行をしている方が

 業は大きいのだと説かれております。

 現実を、知らない、見ようとしないことは、その人のために良くないことです。

 世の中には、まだまだ現実を実態を知らない人、私のように、見たくない、見ようとしない人が

 多くおられると存じます。ぜひ、このHPを見ていただきたく、また、広めていただきたいと思います。

     http://saisyoku.com/index.html


 さて、「菜食のすすめ」を読んで、どのように感じるかは、人それぞれでありますが、

 まぁ、多くの方が、食の安全性については考えるとは思います。

 普通、誰でも毒を食べて死にたくはないでしょうから・・・

 そして、実態・悲劇を知って菜食に移行する方もおられるはずです。

 死んでいく牛さん豚さん鳥さんの写真や映像を見て強烈に頭に残り、無意識に拒絶反応が起きて

 食べられなく人もいるかと思います。「肉食 = 悲しみ」「肉食 = 毒・危険・早死に」

 「肉食 = 惨殺・悪業」 「肉食 = 飢餓・人類滅亡」等など


 菜食者は、肉食はよくないものであると思い、肉や魚、卵、乳製品を否定し食べない。

 肉食者は、体には大切で必要なものであり、諸説多数でありますが栄養学に基づき食べる・・・

 また、何も考えず、食欲の赴くまま腹を満たし満足したいと食べる・・・等など

 普通、人は、これは良くて、これは悪いものという「正と悪の二元論」の思考、また、何も

 考えない愚かな無知もありますが、正悪を決めて選択し行動します。

 私は、二元論の思考で、考え方だけで、これは良いから食べる、悪いから食べないという食生活は

 間違った捉え方、食生活であると考えます。

 なぜ、間違っているのか?

 例えば、自分に都合が悪い、悪い社会に対して、激しく怒り、改革すべく闘志に燃え、理想の国家

 平和の世を築くため、デモ、革命・戦争を起す。自分は正義であると行動した結果、その為に、

 数十年も・・沢山の人の血が流れて苦しんでいる。こんな矛盾した行為は、現在も進行中であり

 過去歴史上の事実。また、人を幸せに導くはずの宗教においても、他宗教や同じ宗教内でも、

 教義・解釈の違いで、血みどろの争いを繰り返し悲惨な苦しみを生み出しています。

 戦争を否定し戦争を起こす愚行、ただ否定したからといって幸せにはならないのです。

 これが愚かな現実・歴史であります。そんな、愚かな人類に対し二千数百年も前に

 お釈迦様は「縁起の法」という教えを説かれました。人類は今だに理解できず、理解しようとしない

 難しいものですが、基本は、シンプルで、投げたものは帰ってくるということです。

 仏教の考え方は、なぜ、自分の目の前に、この顕現が生じたのか?

 それを、正しく見、考え、理解し、そして、同じ過ちを犯さない努力をしていきます。

 人は、現れた顕現に対して、自らの利欲の判断で、正・悪に分け、悪を排除しようとする。

 ただ、悪い顕現を排除したら幸せになれると考えるからです。

 しかし、それは、大きな誤りであります。

 実は、顕現には何も正も悪もなく問題は無いのです。

 すべての問題は、顕現に対する思考から始まるのです。

 ただ食べ物に毒が入っているだけであって、それ自体に問題は無く、それを、どの様に使うか

 思考が問題を起こします。毒入をもって憎い邪魔なあいつを殺してやろう・・

 殺して保険金をいただこう・・・毒入りカレー(過去にあった)

 そして、他者の思考・行動によって、目の前に出されたのが毒入りご飯。

 賢者は、知ったとしてこう考えます。なぜ、今、自分に毒の入った食べ物が出されたのか?

 それは、過去に自分が行った思考・行為が、今、帰って戻ってきたものだと。 (お帰り・・・)

 この顕現は、過去に、毒を与え、人を落としいれ苦しませ、自分が毒のような行為をしてきた、

 その放った行為・思考のエネルギーが「業」が帰ってきたのだと。

 そして、縁起の法の大切なところは、

 自殺をしたいと思わない限り、毒入りだと知って食べる人はいないと思いますが、

 業のある限り、眼の前の毒入りご飯を排除しても、業が消えるまで、その顕現は、再び何回も現れ、

 苦しむことになるという厳格なものなのです。「影がつき従うが如し」

 現在の食生活、放射能や企業の利益のため、体によくない食品が氾濫し、知らず知らずに口に入れ

 体を蝕み、寿命を縮めているのが現実。

 それは、過去に、知らず知らずに人や生き物を落としいれ苦しめてきた結果報いなのです・・・・・

 だから、大切なことは、悪いものだから食べないということだけではなく、過去の報いなのだと

 知ること。そして、これから、利益のため、欲のために生き物を家畜にして殺生はしない

 他の生き物と共存していく行動。過去の殺生を懺悔し、そして、慈しみの心を発し接していく、

 どんな小さな生き物でも一つの命、尊重し敬意を示し感謝する心を持つということ。


 「縁起の法を理解」 殺したら殺される、苦しめたら苦しめられる、貪ったら得られない、

 盗んだら無くす、嫉妬したらそのものは手に入らない、愛したら愛される、施しをしたら施される、

 ただ、行為や思考のエネルギーが直ぐに帰ってきたら分かりやすいことですが、例えば

 万引きをして現行犯で捕まる人もいれば、一生逃げ通す人もいる。縁に触れないと顕現してこない

 ので長い時間かかり、人は悪いことをしても報いはこないと錯覚しています。

 このまま知らん振りしていけば人類は大きなしっぺ返しを業を受けることになるでしょう・・・

 その一つの表れが、狂牛病等・・・数年後にいったいどの位の人が発病するのだろうか?


 賢者は、悪い顕現に対し、怒り、恨み、憎悪、利欲・・・不の心を出さず、現状を受け入れ

 耐え忍びます。不の心を放出すると更に大きくなって帰ってきてしまうことを知っているからです。

 では、悪い顕現に対してどの様に対処したらよいのか?

 自分が過去に犯した行為が帰ってきたもの考え、深く、自分のこころの中を除き、

 顕現を現した源、囚われた偏見に満ちた不の心、思考・反応パターンを、見つけ、反省・懺悔し

 そして、二度と過ちを犯さないという決意して、そして、心を清浄にしていく努力をします。

 努力とは、すべて注意して見ることから始まります。そして顕現を心を分析していくことが大切です。

 いつも注意して悪い思考がでそうになったら、気づいて、悪い方へ流されない努力。

 そして、悪い思考が始まらないよう、悪い友達とは付き合わない、そのような場所には

 行かない、思考を麻痺させる薬物や酒などを取らないなど・・抑止していくことです。

 

 帰ってきたエネルギーをさらに強くして打ち返さないということであり、

 放ってしまった悪いエネルギーに対しては、自業自得、受けるしかないわけですが、

 その苦を減らすためにプラスの思考・善行為を行い発していくことで、苦を緩和させていきます。

 それが、唯一幸せになる道、方法であります。

 単純な道理であります。

 
 

 


 

 
 

 

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