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御痩せになっていたので案じておりましたが・・・
残念です。
最近は人情噺も頻繁に掛けられていた・・・
「何だ?御前も、もぅ来たのか?!」
志ん朝さんも吃驚しているでしょうに・・・
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落語・演芸
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落語とは人間の業の肯定
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品川駅ってくらいだから品川区に在るのかと思いきや、此れが港区なんだな。 西口には、シティホテルが幾つも在って品川プリンスも其の一つ。隣接して、ザ・プリンスさくらタワー東京 、グランドプリンスホテル高輪 、グランドプリンスホテル新高輪と西武系のホテルが林立している。其のどれもが港区高輪に属しているのだから不思議な話だ。 兎も角も品川プリンスはエンタティメント性の高い施設で映画館・水族館・ボウリング場等を備えている。そして、吉本興業が東京進出の一環として「よしもとプリンスシアター」を此処にオープンさせた訳である。漫才・コント・吉本新喜劇の本公演の他、数々のイベントが行われるが、お正月は「落語」中心の「しながわ寄席」と云う訳だ。僕は毎年正月は国立に行くのが常なのだけれど今年はちょっと目先を変えてみました。 トリを務めるのが桂文珍で、今年は春先から多くの東京公演が予定されている。兄弟子の三枝や仁鶴、鶴瓶らと共に全国区の知名度を誇る上方の人気噺家である。「御神酒徳利」だったが、渋さを増して中々素晴らしい。僕は何だか往年の桂小南を思い出してしまった。また聴きたい噺家になりました。最近までニュースショーの司会もしてたくらいだからマクラは殆ど標準語で今更云うのもおかしいけれど、江戸でも容易に受け入れられるだろうね。タレントとしては既に著名な訳で噺家として、此れは或る意味脅威かもしれない。 上方の噺家がどんどん江戸にも出て来る・・・鶴光みたいな定着の仕方(江戸で弟子も獲っている)はしないだろうが、昇太が上方落語の薫陶を強く受けているのは周知の事実だ。江戸の噺家さん達もうかうか出来ませんぞ。(笑い) 其の他の出演者は下記 昇太については云わずもがなであるが、「短命」は初めて聴いたけれど相変わらず独自のテーストが非常に面白い。珍念(ネタは「十得」)は文珍のお弟子で元・漫才をやってた人だね。小染(「くっしゃみ講釈」)はとても達者な噺家だ。唯一の色物サカイストはいくよ・くるよの門下の若手漫才。 僕が今回、印象深かったのは文珍の弟弟子の文三だね。小柄な人なんだが高座じゃちっとも其れを感じさせない。出世する噺家ってのは何処か品格が在るもんなんだが、正に其れだ。でいて噺声は軽妙だから客受けも良く「ちりとてちん」はピッタリのネタだった。文三の名跡は昨年継いだばかりだが(其れまでは、つく枝)今後、江戸での活動機会も増えて来る筈だから要チェックですな。 さて、此処がはねた後、浅草に向かい初詣。其れはまた次回書きます。
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1980年の10月4日、4代目三遊亭小圓遊は公演の為山形に居た。 そして其の楽屋にて吐血、翌日帰らぬ人となった訳だが、数日前に笑点初のハワイ公演から帰国したばかりだった。旅客機から降り立った小圓遊が傍らの植え込みに力無くへたり込むのを目撃した親友である歌丸が其れをいたく危惧していたと謂う。死因は食道静脈瘤破裂。享年43。 奇しくも此日5日、件のハワイ公演の模様が放送され、画面上では「三遊亭小圓遊さんは本日亡くなりました。心よりご冥福をお祈りいたします」のテロップが流れた。 そもそも小圓遊が笑点に出る切っ掛けはと謂うと、司会の談志と圓楽他のメンバーとの確執に拠る回答者総とっかえ事件である。 どうも談志一流のブラックジョークに他のメンバーが附いていけなかったらしいのだが、善しにつけ悪しにつけアクの強い談志なら在り得ない話じゃ無かろう。 従って1969年3月に当時のメンバー、圓楽・歌丸・梅橋・小圓遊・こん平は一旦番組を降板するに至る。翌週からのメンバーは、柳家かゑる(現落語協会会長・鈴々舎馬風)・柳家さん吉・昨日触れた三遊亭好生と春風亭栄橋・三升家勝二(現三升家小勝)と謂う面子だった。 然しながら人気は下降し、談志自身も僅か数ヵ月後の11月には引責辞任の憂き目に遭うのである。此の際に前メンバーが梅橋を除いて時間差は在るものの何れも番組復帰、勝二とさん吉は残った。此の時から梅橋の転落は始まったと謂っても過言じゃない。先走って一人他局番組に出演してしまったのが原因なのだから運命とは恐ろしい。 さて、新司会者は誰かと謂うと・・・此の時は未だ三波伸介ではない、そぅ、あの「マエタケ」事、前田武彦であった。 続く・・・ かな?
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笑点の前身である金曜夜席の出演者の内3名、否圓楽を含めれば4名が既に亡き・・・そして談志がガンに見舞われ、こん平が闘病中。尤も半数は年齢的に、不思議とも思えない節も窺えるのだが笑点の長い歴史の中での度重なる出演者を襲う不運な出来事は果たして偶然と割り切って良いのだろうか・・・ まず夜席終了後の直後に柳家きん平の飛び込み自殺には触れたが、圓楽の弟弟子で圓生門下の問題児・現川柳川柳の三遊亭さん生が収録を失念、談志の怒りを買い即降板。ピンチヒッターの円弥がレギュラーとなった。落語界のアイ・ジョージと異彩を放っていたさん生だが、此の経緯さえなければ後の落語家人生は相当変化していたに相違無い。 さて梅橋の事、栄橋の事は僕はかつて書いた事が在るので其方を参照して戴きたい。 (悲劇の噺家) http://blogs.yahoo.co.jp/umaya_san/52889490.html (春風亭梅橋の事) http://umaya.no-blog.jp/umablo/2005/08/post_2252.html きん平の自殺は厳密に謂えば笑点放送開始直前の事なのであるが、実はもぅ一人笑点メンバーの自殺があった事はあまり知られて無いかもしれない。 三遊亭好生(後の春風亭一柳)は1969年に短期間ではあるが笑点メンバーに抜擢されている。此の人は立ち振る舞いが師匠の圓生に酷似していた人で「圓生の影法師」とさえ謂われた。却って其れが圓生の歓心を得ずに前述のさん生と共に破門され春風亭一柳を名乗るのだが、1981年に自宅の葛飾区金町の団地屋上から投身自殺。享年45であった。 此の好生の自殺の前年に、あの小圓遊の壮絶な死があったのだが其れは次回のお話・・・
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圓楽の逝去に拠り、益々注目を浴びている「笑点」 上記の動画は三波伸介司会時代のオープニング(好楽が林家九蔵と名乗っていた。そう!元は彦六さんのお弟子だったのだ)であるが、番組のスタートが1966年5月15日で其の3週前までは金曜日の夜10時半から「金曜夜席」と呼ばれる番組だったのだ。 当時の此の時間に日本テレビの4チャンネルは力道山亡き後の「日本プロレス」を隔週で放送していたものだ。子供の頃の僕は此れが楽しみだった。(勿論モノクロテレビで) 隔週って位だから毎週じゃない。従って非放送日の穴埋めが必要だった。プロ野球もまだまだ人気が在った時代だからナイターとプロレスが交互みたいな感じだったね。 しかし、ドーム球場なんてぇのは未だ無かった訳で降雨中止ともなれば此の「金曜夜席」の出番だった。当時の寄席小屋は今みたいに客も来ない。林家三平や三遊亭歌奴なんかはテレビで人気を博してたけど他の芸人は不遇極まりない。若き日の立川談志は此れを憂い「此れからの噺家はもっと顔を売らなきゃ」ってんでテレビで落語以外に大喜利をやったんだね。 其れが今の笑点の起源なんだから、なんだかんだ謂ってもやっぱり談志は凄いもんだ。 出演メンバーは当初、圓楽・歌丸・小痴楽・ 談志・円弥・きん平に座布団係りが漫才師の西〆子。円弥と小痴楽,きん平は既に故人だが円弥は直ぐにこん平に代わった。 円弥は生真面目な印象だけれど上手い噺家だったが大喜利には向かなかった。3年前に肝臓ガンで60代の若さで亡くなったばかりだ。 小痴楽は先だって亡くなった当代痴楽の兄弟子で、後に梅橋と名乗ったが酒が過ぎてあまり良い晩年は過ごせなかったねぇ・・・ きん平って人は林家じゃなく柳家で、元は三遊亭金馬のお弟子。喘息の持病を抱えていたから此の放送が終了して直ぐ2日後に当時の国鉄に飛び込み自殺したんだ。だから笑点は知らない・・・って謂う数奇な運命を背負った人だったんだよ。 圓楽は其処で既に司会を担当してたが、後期は自ら回答者に回って談志が司会もする事になる。其れが其のまま「笑点」へと続いて行くんだ。(敬称略) 此の稿続く・・・
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