--10 中国仏教史

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 北魏(ほくぎ 386〜534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑拓跋部によって華北に建てられた王朝。国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の曹魏と区別して、北魏と史上称される。五胡十六国時代に代を建国。拓跋什翼犍のとき、前秦に滅ぼされた。什翼犍の孫の拓跋珪(道武帝)は、前秦が淝水で敗戦して弱体化したことを期に386年代王を称して自立した。国号を魏と改め、398年に平城に遷都して、帝を称した。その後、南下して後燕を滅ぼすと、それまでの部族制を解体し、貴族制にもとづく中国的王朝に改編していった。

 北魏の第三代皇帝の太武帝(在位423〜452年)は、北涼を滅ぼして華北の統一を完成し(439年)、五胡十六国時代に終止符をうった。また鮮卑が華北に移動した後にモンゴル高原で強大となり、北魏の北辺を脅かしていた柔然(モンゴル系の遊牧民族)を討ち、南下して宋(南朝)を大破して打撃を与えた。

 彼は道士の寇謙之(363〜448年)を信任して道教を信じ、仏教を弾圧して廃仏を行った(446年)。これは中国史上「三武一宗の法難」といわれる仏教の四大弾圧の最初の弾圧となった。

 北魏の第六代皇帝が有名な孝文帝(在位471〜499年)である。五歳で即位したため、486年までは祖母の太皇太后が執政した。孝文帝は幼少の時から、読書を好み、儒教の教養を身につけ、中国文化にあこがれた。親政を始めると鮮卑族の徹底した中国化政策を進めた。平城から洛陽に遷都し(494年)、鮮卑人の胡服や胡語さらに胡姓を禁止してすべて中国風に改めさせた。さらに鮮卑と漢人の通婚を奨励した。また洛陽郊外の龍門に大石窟が開かれていくのも洛陽遷都以後である。

 孝文帝の徹底した鮮卑人の中国化政策は、北魏を急速に文化国家に変えていった。その一方で今までの素朴質実な鮮卑人の生活がぜいたくになり、それとともに軍事力が衰えていった。鮮卑族はその後、漢人に同化され、史上から姿を消していくこととなる。

 孝文帝の死後、三十数年で北魏は、東魏、西魏に分裂し(534年)、その後、東魏は550年に西魏は556年に、それぞれ北斉、北周によって滅ぼされた。577年に北周は北斉を滅ぼし、その後581年に隋が北周を乗っ取り、589年、隋は陳を滅ぼし、天下を統一する。

 北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝をまとめて北朝(439〜581年)という。

引用・参照
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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