--10 中国仏教史

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10-09:法難と末法思想


 北魏(398〜534年)の太武帝(在位 423〜452)は、426年に長安を占領し、さらに河西回廊にあった北涼を439年に滅ぼして涼州を占領し、五胡十六国の時代に終止符を打った。長安と涼州という二大仏教圏が北魏に組み入れられ、北魏仏教の活力を高めることとなった。五胡十六国時代にその基礎を築いていた仏教教団は、南北朝の時代に入って急速に発展した。だが、仏教教団の急速な拡大のために、教団に対する国家の統制の問題が起こった。

 出家者は本来出世間の存在であり、世俗の諸活動とは、政治的にも経済的にも無縁である。それゆえに、世俗の権力者たちも、政治的介入を控え、税金の免除などを行った。しかし、中国では、反乱・一揆に仏教が利用されたり、税を免れるために出家者の免税特権が利用されたりした。このため、仏教は国家の教団統制や廃仏を受けるようになったのである。

 太武帝は、道士の寇謙之(こうけんし)らを信任し、道教を重んじた。彼は、道教保護政策、北魏の漢化政策、仏教の急激な発展と堕落などを背景として、太平真君七年(446)、廃仏を断行した。この廃仏により、寺院の破壊、経典の焼却、僧尼の還俗などがなされた。これが中国仏教史における四回の仏教弾圧事件である「三武一宗の法難」の最初のものである。

 452年、文成帝は復仏の詔勅を下し、仏教の復興を進めた。僧を管轄する僧官である沙門統に就任した曇曜(どんよう)は、仏教復興事業の一環として、都・大同の近くに雲崗石窟を造営した。曇曜は、道武帝以下の北魏の五帝を五体の大仏で表し、「皇帝即如来」の思想を具体化して表現した。孝文帝(在位 471〜499)は、洛陽の南、伊河のほとりに、龍門石窟を造営した。龍門石窟は北魏から唐に至るまでの約400年間に渡って造営され、敦煌、雲崗とともに三大石窟と呼ばれる。

 このころ、太武帝の廃仏に対する反動や仏教保護政策のために、仏教勢力は再び盛んになっていた。地論宗の基となる典籍を翻訳するなど、とりわけ重要な翻訳を行った菩提流支(ぼだいるし)や、中国浄土教の祖の一人とされる曇鸞(どんらん)らが活躍している。

 北周の廃仏が、建徳三年(574)、北周の武帝(在位560〜578)によってなされた。この廃仏によって、仏教寺院が没収されて貴族の住宅に当てられ、経典は焼かれ、多数の僧尼が還俗させられた。この廃仏の背景には、仏教の堕落や道仏の対立、皇帝専制体制に都合のよい儒教が国家統治の原理として採用されたことなどがあった。

 武帝の廃仏のあとにも、その反省・反動や危機感情から護法の運動が起こっている。武帝の廃仏のあとの護法の運動には、末法思想もかかわっている。このころ釈迦と老子の生誕の前後があらそわれていため、552年頃から末法が始まるとされていた。また、この頃新たに翻訳された経典にも幾つか、末法思想について述べられたものがあった。そこへ、さらに北周の廃仏が起こった。北周の廃仏により仏法の瀕した惨状を目の当たりにした仏教徒は、急速に末法の到来を意識するようになった。


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