|
武寧王(在位501〜523年)は、百済中期の政権を安定させた名君である。その頃、中国の南朝では武帝(在位502〜549年)が斉を滅ぼし、梁を建国していた。武帝は仏教を深く信仰し、みずからを「三宝の奴」と称して盛んに仏寺を建立した。それまでにも、首都・建康には呉の孫権(在位 229〜252年)が建立した建初寺や東晋の簡文帝が建てた長干寺、宋の明帝が建てた湘高寺などがあったが、武帝は自宅を寄進して光宅寺を造り、また同泰寺を建て、たびたび捨身を行っている。さらに父母や皇后のためにも寺を建てたため、梁の諸王や貴族はこれにならって仏寺を営んだ。梁の最盛期には226の寺があったとされる。
梁の仏教界では、光宅寺法雲 (ほううん、467〜529)、荘厳寺僧旻 (そうみん、467〜527)、開善寺智蔵 (ちぞう、458〜522)が、梁の三大師として有名である。法雲は武帝の帰依を得て光宅寺に住し、『法華義記』8巻を著している。僧旻は、26才のとき興福寺で『成実論』を講じ、507年(天監6)に『般若経』を注釈し武帝を喜ばせている。また武帝の命で『勝鬘経』を講じたこともある。智蔵は、武帝の命により『成実論』『般若経』『金剛般若経』などを講じ、著作に『成実論大義記』『成実論義疏』がある。
武寧王は512年4月に朝貢の使者を梁に派遣し、9年後の521年11月にも再び朝貢の使者を派遣している。度重なる朝貢に対して、梁の武帝はその年の12月、「使持節都督百済諸軍事寧東大将軍」に武寧王を任じている。史書には、特に記載されていないが、武寧王はこうした朝貢を通して梁の仏教文化を積極的に導入したと思われる。その影響は、1971年7月に偶然発掘された武寧王陵の内部に見ることができる。現在の公州には、百済時代の創建とみられる寺院跡として大通寺、西穴寺、南穴寺の三カ所があるという。
武寧王のあとを継いだ聖王(在位523〜554)も仏教の導入に熱心だった。『梁書』は、541年に百済が梁に朝貢し、経疏(きょうしょ)・毛詩博士・工匠・画師などを請うたことを伝えている。聖王がそれまでの首都・熊津(現在の公州)から泗ビ(現在の扶余)に都邑を遷して3年後のことである。聖王の要請を受けた武帝は、これらを百済に送った。梁から招いた工匠などで、百済では多くの寺院が造営された。泗ビ時代の創建された寺院の址として現在確認されているものに、定林寺址・王興寺址・金剛寺址・軍守里寺址・弥勒寺址・帝釈寺址などがある。仏教建築文化の先進国となった百済は、新羅や日本の建築文化にも大きな影響をあたえた。
一方、聖王4年(526)、沙門謙益がインド求法の旅から帰ってきた。謙益は中インドの常伽那大律寺で梵文を学び、律部を研究してインド僧・倍達多三蔵とともに梵文の阿毘曇蔵、五部律文を持って帰国し、これを翻訳した。そのとき、曇旭、恵仁は律疏36巻を著した。これにより百済律宗が確立された。
引用・参照
・『朝鮮半島における仏教の展開』
http://bell.jp/pancho/hyper-history/siron_shotokutaisi/database/bukkyo/buddism-korea.htm
|