--31 大乗仏教の興起

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 前四世紀の初め、インドには、最初の統一国家であるマウリヤ王朝が出現(前317年)する。当時、ガンジス河中流から下流の地域に、最大の勢力を擁したマガダから興ったチャンドラグプタは、アレクサンドロスの軍の侵入後10年ほどのちに、同地を支配していたナンダ王朝を倒し、その勢いを駆って近隣諸国を併合し、さらに西北インドに根をはっていたギリシア軍を、また続いて侵入してきたシリア軍を撃退し、駆逐して、ほぼインド全域にまたがる大帝国を建設した。これをマウリヤ王朝と称する。

 アショーカ王の晩年のころから、マウリヤ王朝には衰退の兆しが見えはじめ、その政治勢力が没落して混迷が続くうちに、紀元前180年ごろには、新しいシュンガ王朝がマウリヤ王朝にとって替わる。だが、この王朝も勢力は弱く、以後の200年あまりのあいだ、諸王朝の交替はまことにめまぐるしく、インドは再び細分裂して、各地にさまざまな政治権力がうたかたの専横を振い、一時の専断を誇った。

 それらの政治権力の大部分は、とくに北インド一帯においては、実はインド人ではなくて、あるいはシリア人であり、あるいはギリシア人の末裔であり、あるいは、中央アジアの諸民族、たとえばスキタイ人の一種のサカ族ほかであり、それらの横暴のあとに、結局は、中央アジアの部族で、中国では大月氏と呼ばれたクシャーナ族によって、戦乱の終結を見る。とりわけ、その部族の長のカニシカ王(ほぼ132−152在位、別説78−103)は、中央アジアからイラン アフガニスタン、さらに北方インド全体を統一する大帝国を建設した。これをクシャーナ帝国(貴霜王朝)と称し、この帝国は三世紀半ばごろまで継続する。

 この統一までの問の絶えることのない、しかもきわめて血なまぐさい戦いにおいて、さまざまの内乱や反逆もさることながら、とくに外来民族の侵略と征圧とは、悪逆無道の暴戻や蛮行を伴なうことが多く、それを受けた地域は、しばしば甚大な被害を被り、その悲惨はまことに痛ましい。

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  ただし、これらの戦乱や暴虐は、北インドに限られていて、南インドには達せず、デカン高原以南には、アンドラ王朝がかなり長期間にわたり安泰であり、北インドを征服したクシャーナ王朝に対しても平安な均衡を保っていた。

  さらに、特記すべき一項がある。外来民族のうち、ギリシア人の中には、仏教に深い関心を寄せ、ときには帰依するものも出る。とくによく知られているのは、ギリシア人の王メナンドロス(インド名はミリンダ)であり、彼は紀元前一四○年ごろ北インドを統括しているあいだに 仏教僧ナーガセーナと対論して、仏教信者になったといわれ、この問答の一部始終をパーリ文『ミリンダ王の問』が今日に伝える。

引用・参照
・中村 元 三枝充よし 『バウッダ・仏教』 小学館 p170


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