--41 敦煌・莫高窟

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41-26 北朝期の敦煌


 敦煌を含む河西地方では、漢の武帝によって「河西四郡」が置かれて以来、漢族が確固たる経済的基盤のうえに支配権を打ち立てていた。とくに敦煌は西域との交易を通じて繁栄していたことは、よく知られている。そのため四、五世紀にかけて五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)とよばれる遊牧民族が相ついで華北に侵入しても、当初は中原よりも比較的に安定していた。

 しかし、やがて三七六年、漢族の前涼は氐族の建てた「前奏」によって滅ぼされた。その後、涼州で前奏の武将であった呂光(りょこう)が西域の亀茲(きじ)への遠征の帰途、姑滅(こぞう)にとどまって独立し、今の武威(ぶい)を拠点にして涼州地方に「後涼」を建国した。

 涼州仏教の形成に重要な役割を果たした鳩摩羅什は、このとき呂光が亀茲国から連れ帰ったものである。今の敦煌市の西郊にあたる沙州故城には白馬塔が立っているが、これは伝説によると亀弦国から羅什三蔵を乗せてきた白馬が敦煌まで来て病死したのを埋葬した地に建てたものといわれる。もっとも現存する塔は、清の道光二十五年(一八四五)に重修されたラマ塔である。

 やがて後涼は内部分裂によって衰え、四○一年には匂奴の沮渠氏が「北涼」を建国した。「後涼」の地姑滅にとらわれの身となっていた鳩摩羅什は、この年の暮に長安入りし、後秦の姚興(ようこう)に迎えられて本格的な仏典漢訳に乗り出していく。

 一方、敦煌では、漢の将軍李広の後裔といわれる李こう(三五七〜四一七)が四○○年に独立し、初めて敦煌都とする王国を樹立した。これが「西涼」である。その建国まもない四○一年に法顕ら求法僧の一行は、敦煌に一ヵ月余り滞在し、西域への出発に際しては李こうから物資の供給を受けている。もっとも西涼は四○五年、早くも都を敦煌の東方四百キロ余りの酒泉にうつしている。このとき戦乱を避けて流れて来た漢人のために、会稽・広夏の一郡を開設した。

 その後、西涼第二代の李欽(在位四一七〜四二○)は、沮渠氏の挑発にのって北涼を攻撃したが敗死、その一族は敦煌と晋昌に拠って抵抗を試みた。だが、四二一年に敦煌城は水攻めにあい、結局、漢人政権の西涼は滅亡した。このような事例からしても、敦煌の地における漢人豪族の勢力が、いかに根強く存在していたかを知ることができよう。五胡十六国の混乱期においても、敦煌は比較的に漢人の支配を保つことができた。したがって、その政治制度、伝統文化は中原とのつながりが強く、莫高窟の初期仏教美術を考えるうえでも、この特質を軽視することはできない。

参照・引用資料
・東山健吾『敦煌三大石窟』講談社選書メチエ


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