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■トランスパーソナル心理学=第4の勢力
 
 トランスパーソナル心理学は、一九六〇年代末、アメリカ西海岸に生まれた、心理学の新しい潮流で、第四の勢力といわれています。第一は実験・行動主義心理学、第二はフロイド派精神分析、第三は人間性心理学ですが、第三の勢力=人間性心理学の創始者であるエイブラハム・マズロー(一九〇八−一九七〇)が、晩年、賛同者をつのってさらに新たに創始し、「第四の勢力」と呼んだものです。大まかな言い方をすれば、第一は観察と行動修正、第二は自己治癒、第三は自己実現、第四は自己超越のレベルに焦点を当てています。トランスパーソナルの人間は(自己超越)という段階まで成長しうる存在だという捉え方は、心理学と東洋宗教の出会いから生まれているといっていいと思います。

■欲求の階層論

 人間性心理学・トランスパーソナル心理学の創始者マズローが唱えた「欲求の階層構造論」は、トランスパーソナルの流れの中で広く共有されているものですが、マズローは、まず人間は、食物や水や空気などが必要であり、フロイドのいうような性的な欲求もある。最も基本的で低次の欲求として、「生理的欲求」があるといいます。・・・(中略) 

 次に、「安定・安全への欲求」が出てくるわけです。 ・・・(中略) 次には、人から、特に親に愛されること、家族に属していて、自分の居場所があることへの欲求が出てくる。「愛と所属の欲求」といいます。さらに、「承認欲求」が出てきます。親や家族から愛され、家庭に所属していても、その上に自分に自信を持ちたい、人からも認められたいという欲求です。さらに、他の人間と取り替えのきかない自分独自の可能性を精一杯伸ばしていくことを人間は求めるものだと、「自己実現欲求」という概念を考えたわけです。 

■自己超越欲求

 自己実現まで到達してもさらに、有限の自己を超えて、永遠なものに向かいたいという「自己超越欲求」が出てくるのだと捉えました。つまり、人間の欲求は、ある種の階層構造をなしていて、特定の欲求には限度があって、それを適度に満たしていくと、より高次の欲求が出てくる。最終的には自己超越欲求まで出てくる、というのです。』

         岡野守也の著書「唯識のすすめ」(1998年、日本放送出版協会)から抜粋

欧米心理学と仏教

■1950年代後半の仏教、特に禅と精神分析の対話の第一の盛り上がり     

 仏教と精神分析の直接の対話は、一九五〇年代後半において最初の盛り上がりを見せた。これは、禅思想を英語で紹介し続けてきた鈴木大拙の存在と働きなしには考えられない。それゆえ、精神分析の対話の相手は、仏教でも特に禅となる。この時期に三つの重要な出来事が起こっている。

 一つは、1957年にエーリッヒ・フロムが、メキシコはクェルナヴァーカに鈴木大拙とリチャード・デ・マルティーノを招いてシンポジウム「禅と精神分析」を行い、その翌年にはこれが日米で書物として刊行されたことである。
 第二の重要な出来事は、1958年に久松真一がアメリカでの講演の帰途、ユングを訪問して会談を持ったことである。
 第三の重要な出来事は、京都大学教育学部の教授で、自ら禅を実践していた佐藤幸治が、東西の
心理学の交流を目指した『プシコロギア』という英文雑誌を、1957年に創刊したことである。

■人間性心理学からトランスパーソナル心理学へ

 1960年代後半から70年代前半にかけてのベトナム戦争、対抗文化運動を通じて、アメリカにおいて既成の価値観が問い直された。それは心理学の世界においては、ロジャーズやマズローに代表される人間性心理学、あるいは人間潜在能力運動として展開し、アメリカの市民生活にもかなりのインパクトを与えた。

 それは、従来アメリカで支配的だった行動主義と精神分析では覆い隠されてきた人間の主体性(主観性)、自由、成長、選択、本来の健康を心理学の理論と実践のテーマとして取り戻す運動であった。当然のことながら、東洋思想に対しても開かれていた。その心理学にとっては、東洋思想は克服すべき伝統的宗教ではなく、自分たちのアプローチの真実性を印象づけてくれる共鳴板であったのである。

 1970年代末から1980年代前半にかけて、内外から人間性心理学に対する批判が起こるとともに、人間性心理学は多様な展開を遂げるようになり、その新しい展開の一つとしてトランスパーソナル心理学が起こってきた。それは、言うならば、西洋心理学と東洋的霊性を創造的に融合し、あるいは心理学に霊性を回復させる運動である。

 これには、東洋の霊性(禅、チベット密教、テーラヴァーダ仏教の瞑想、特にヴィパッサナー、ヨーガ、太極拳、気功など)の指導者がアメリカに渡ってアメリカ人を指導したこと、アメリカ人が逆に東洋に来てそれらの修行をして、帰国後アメリカの風土と文脈にマッチした仕方でそれらを展開させたこと、といった宗教者側の事情が背景にある。しかし、霊性運動のアメリカ深層心理学と仏教的な特徴は、それが心理学と密接に連動していることである。

■深層心理学と仏教の対話の第二の盛り上がり
  
 1990年代になって、1950年代後半に蒔かれた種がようやく実を結びつつある。それは心理療法を受けるクライエントの臨床像の変化とそれに対応する治療目標と心理学理論の変化を背景にしている。
 今日の患者の主要な問題は、特殊な精神障害であるよりも、むしろ現在のような社会に住んでいる人間なら、程度の差はあれ誰でも抱えているという意味でありふれているが、人間の本質に関わる深刻な問題である。すなわち、空虚感、無意味感、生き甲斐の喪失、倦怠感、自意識過剰、他者からの評価への心配などである。そして、治療目標は社会適応や自我の強化よりも、むしろ意味の探求、自我へのとらわれからの自由、他者や自然との絆の回復などに変化しつつある。心理学の理論もそれに対応するものになろうとしている。

 ただし、その一方で特に90年代後半になると、人々の世俗的な自己利益の追求や、遺伝子の発見とその操作に見られるような決定論的な考え方の浸透、医療の合理化、宗教的右翼の巻き返しなどを背景にして、バックラッシュが起こり、一人の患者にじっくりと時間をかけるタイプのセラピーは次第に時代遅れのものとされつつある。ユング心理学やトランスパーソナル心理学はもちろんのこと、フロイト派の精神分析でさえそうなのである。

 仏教に対する心理療法家の関心の高まりは、心理学と精神医学において心理療法的なエートスが失われつつあることに関する危機意識を背景としているのかもしれない。いずれにせよ、90年代に入ってから、深層心理学と仏教の対話は第二の盛り上がりを見せている。その現れはもちろん出版に見られ、重要な書物が続々と出版されている。著者は、大ざっぱにいって研究者と臨床家に分かれる。
 臨床家はたいてい同時に仏教の瞑想をも長年実践している。今日ではもっともポピュラーな本(Epstein 1995)の著者である精神分析家のエプスタインは、ヴィパッサナを主として実践してきている。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~shojimur/depthpsychologybuddhism.htmlより、抜粋引用

エピクロスの快楽主義

 エピクロス (BC341-BC270) は、ストア派の創始者ゼノンとほぼ同じ時期に生まれ、アテナイを拠点に活動した。彼の創始した学説は、ストア派の説と並んでヘレニズム時代の思想を代表するものとなった。いずれも、世界帝国の中で相対的に地盤沈下した個人の生き方に焦点を当て、人間にとってよき生き方とは何か、個人の幸福とは何かについて考察した。ストア派が禁欲に重点を置いたのに対して、エピクロスの徒は快楽こそが幸福の源泉と考えたのであった。

 エピクロス主義はヘレニズム時代からローマ帝国の時代にかけて500年ばかりの命脈を保ったのであるが、その勢いはストア派には及ばなかった。こんなこともあって、エピクロスの快楽主義の思想は、その真意が正確に伝わらず、時にゆがんで受け取られ、攻撃の対象ともなった。こうした言いがかりは、エピクロスの快楽主義を極端にゆがんだ形で捉えているものだ。

 エピクロスが実際に唱えた快楽の思想とは、心の平静を成就しようとするものであった。彼はそれをアタラクシアと呼んだ。アタラクシアとは、文字通りにいえば無感覚という意味の言葉である。それは感覚のもたらすものに惑わされず、何事に接しても心の平静を保つという境地を表わした言葉なのである。

 ルクレティウスは自分の詩の中でエピクロスの思想を展開している。それを読むことを通じて、我々はエピクロスのいう快楽の意味を理解することができる。その快楽とは、アタラクシアのもたらす無我の境地だったのである。エピクロスの思想の骨格は一種の唯物論であり、そこにはデモクリトスの影が大きく作用していることが認められる
のである。

 快楽の追求に関してエピクロス自身がいったという言葉を、ディオゲネス・ラエルティオスが引用している。「我々は快楽を、至福な生の始めであり、また終わりでもあるといっている。というのは、我々は快楽を、我々が生まれるとともに持っている第一の善と認めているからであり、そしてこの快楽を出発点として、すべての選択と忌避を行なっているし,また快楽に立ち戻りながら、この感情を基準にして、すべての善を判定しているからである。」(岩波文庫)

 エピクロスにとって、快楽には能動的と受動的、あるいは動的と静的との2種類のものがある。動的な快楽とは、満たされていない状態を満たそうとすることから生まれる満足であり、がつがつ飲食したり、性交の快楽にふけることからもたらされる。熾烈な権力闘争から生まれる快楽もこの種のものである。それに対して静的な快楽とは、たとえば飢えが満たされたときにもたらされる平静な状態のようなものである。それは満たされぬものを満たそうとする希求ではなく、自分自身のうちに満たされていることといえる。

 こうした考えから、エピクロスにとって快楽とは、快楽の存在よりもむしろ苦痛や不足がないという充足感のようなものに近いのである。充足感の中でも胃や性器のような肉体にかかわるものより、心の平静が重視される。エピクロスが「アタラクシア」という言葉でさしたのは、この心の平静なのである。エピクロスは性交を避けるべきだといった。それは人間の肉体や心の状態を撹乱し、激しい情念を燃やし続けさせることによって、心の平静とは最も遠い状態に人間を置くからであった。

 エピクロスは徹底した唯物論者であったから、魂の不死も信じなかった。肉体が滅びれば、魂も同時に滅びてしまう。だからといって死ぬことを恐れる必要はない。死は正しく理解すれば決して恐ろしいことではない。それが恐ろしく思えるのは、死んだ後も魂は残って、あるいは地獄に落ち、生前の業に応じてさまざまな試練を課されるといった、誤った想念にとらわれているからだ。死についてエピクロスのいった言葉は、人間の長い歴史の中でも、もっとも崇高な言葉の中に数え入れられるべきである。

http://philosophy.hix05.com/Hellenism/hellenism04epicuros.htmlより、抜粋

 ショーペンハウアーが世界の根本的な実在だと考える意志は、世界の最初から続く目的も意味もない盲目的な実在である。個人は表象の一つだが、意志のみが本質で表象はすべて幻想である。意志には目的がないので、生は無意味な苦しみの連続である。神に救いを求めるのは、その苦しみを一時的に忘れるための自己欺瞞であり、宗教は自分の生に根拠がないという不安を忘れるための儀式に過ぎない。救いはキリスト教のような偽善的な価値を信じることではなく、仏教のように現世が苦であることを悟り、禁欲と苦行を通じて心の平安を得ることだ。
 
 ショーペンハウアーの意思の哲学を理解するためには、カントとの関係、あるいは同時代のヘーゲルとの関係を哲学史に調べても分かってはこない。理解の鍵はショーペンハウアーが目撃した近代社会の行動原理に着眼する必要がある。その時代は産業革命の間ただ中で、私利私欲にまみれた商業主義が跋扈していた時代である。その商業主義の跋扈を哲学的に「意志」と呼んでいたと考えることができないだろうか。悲惨な近代社会のその根本原因として盲目的な意志の動きが見つかったというわけである。

 「レ・ミゼラブル」はちょうどこの時代のフランスを描いている。1本のパンを盗んだために19年間もの監獄生活を送ることになったジャン・ヴァルジャンの生涯を描く。作品中ではナポレオン1世没落直後の1815年からルイ18世・シャルル10世の復古王政時代、七月革命後のルイ・フィリップ王の七月王政時代の最中の1833年までの18年間を描いている。当時のフランスを取り巻く社会情勢や民衆の生活も、物語の背景として詳しく記載されている。

 ジャンバルジャンは偉大なる聖人として生涯を終える。その底を流れているのは、永遠に変わることのない真実の『愛』である。ショーペンハウアーは、しかし、「神の愛」を見限ってインドの古代哲学に救いの道を求めていた。

 ショーペンハウアー(1788-1860年)は、ドイツの哲学者、主著は『意志と表象としての世界』(1819年)である。ナポレオン戦争や48年革命の時代のドイツ諸都市を舞台に独創的哲学は形成された。ショーペンハウアーが生きた時代は、「哲学の荒れ狂った時代」言い換えればドイツ哲学の全盛期であった。カント、ヘーゲル、ショーペンハウアー、ニーチェなどといった天才が出現した時代である。

 イエナ大学にいたときに、東洋学者マイヤーとの交友をとおして、インドの仏教哲学やウパニシャッド哲学と出会った。『意志と表象としての世界』にはこうした研究が反映されている。この著書において、彼の無神論的なペシミズムの哲学にもとづく倫理学と形而上学が展開された。『意志と表象としての世界』は当初ほとんど反響はなかった。

 ショーペンハウアーは、『意志と表象としての世界』の中で、「『世界はわたしの表象である。』 ― これは、生きて認識をいとなむものすべてに関して当てはまるひとつの真理である」と述べている。さらに、表象は、物自体としての意志が現象したものである、とも述べている。ここに出てくる「物自体」というのは、そもそもがカントの用語である。

 ショーペンハウアーによれば、生の悲劇は意志の本質に由来する。意志は、個人をその目標の実現にむけてかりたてるが、そのどれひとつとして、盲目的な生命衝動である意志の無限な活動を永続的に満足させることはできない。こうして、人生は苦悩の世界とならざるをえない。この苦悩の世界を脱却するただひとつの道は意志の否定であり、一種の諦観の態度である。
 


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