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■『遺教経(ゆいきょうぎょう)』
 
 少欲知足は『遺教経(ゆいきょうぎょう)』という経典に説かれています。『遺教経』はブッダが入滅に際して、弟子たちに与える最後の言葉を集めたものといわれています。禅宗では、枕経の一つとして大事にされているようです。

 多欲の人は利を求めること多きが故に、苦悩も亦多し。
 少欲の人は求なく欲なければ、則ち此の患いなし。

 不知足の者は富めりと雖も而も貧し。
 知足の人は貧しと雖も而も富めり。

■ 少欲と無欲

 ブッダの時代の出家者は全てを捨て去ったのではありません。無欲ではなく少欲だったと考えることができます。托鉢の「鉢」と身に纏う「糞掃衣」といわれる袈裟の所持は許されていました。托鉢で得たものは共同生活をしている出家者の間で平等に配分されました。出家者は少欲の生活をし、足を知っていたのです。無欲と少欲とはどのように異なるのか。少欲の意味をもう少し考えなければなりません。

■ 自然的欲求と社会的欲求

 欲は二つの種類に分けられます。自然的欲求(自然の生理に基づくもの)と社会的欲望(社会的に作られるもの)です。例えば幼子が母乳を求めるのは自然欲にあたります。成功者が豪邸を欲するのは社会欲にあたるということができるます。

 ブッダは自然的欲求を否定しません。否定したのは社会的欲求です。ブッダの時代は農業生産が拡大し、都市ができ商工業も発達し、遠隔地間の交易も急速に発達してゆこうとする時代でした。裕福な商人の富は国王やバラモンさへしのぐ勢いだった。彼らはより多くの富を求め、また豪邸に住み奢侈品を求めた。

■ 燃えている

 ブッダは欲の渦巻く当時の社会を見て「燃えている」と表現した。人々の社会的欲望は際限なく肥大し、求めても求めても満足の得られない呻きに満ちていた。このときブッダには欲の変質が見えたのだと思う。その時代新たに登場してきた社会的欲望の存在に気づいた。この社会手欲望に苛まされるのが苦である。

■ ブッダの悟り

 この社会的欲望に対処するにはどうしたらよいのか。単なる禅定だけでは足りなかった。苦行によって押さえ込むこともできない。社会的欲望の存在に気づいたときブッダの悟りは完成した。
 ブッダの悟りの基本には透徹がある。透徹したときブッダには涅槃寂静の世界が訪れた。少欲というのは欲の量の問題ではない。社会的欲望を放棄し、自然的欲求にのみで生きることに意義を見いだすことである。出家者の共同生活の意味はここにある。

チンパンジー レオ

 松沢哲朗先生の『想像するちから』(チンパンジーが教えてくれた人間の心)という本に次のような一節がある。途中を省略してあります。

 「2006年9月26日に、霊長類研究所にいるレオという当時24歳のチンパンジーが、突然、首から下が麻癖した。診断は急性脊髄炎だった。若人たちのボランティアのおかげで、かろうじてレオの命は支えられた。しかし、レオはぜんぜん動けない。ひどい床ずれになる。体重も減った。

 このチンパンジーは、私であれば生きる希望を失うというような状況のなかでも、まったく変わらなかった。めげた様子が全然ない。けつこういたずら好きな子で、人が来ると、口に含んでいた水をピュッと吹きかける、なんてこともする。キャッと言って逃げようものなら、すごくうれしそうだ。

 人間とは何か。「想像する」ということが人間の特徴だと思った。チンパンジーは、「今、ここの世界」に生きている。今ここの世界を生きているから、チンパンジーは絶望しない。「自分はどうなってしまうんだろう」とは考えない。

 それに対して人間は容易に絶望してしまう。でも、絶望するのと同じ能力、その未来を想像するという能力があるから、人間は希望をもてる。人間とは何か。それは想像するちからを駆使して、希望をもてるのが人間だと思う。」

 ブッダはしかし、この想像力の制御が不可能になってしまったところに「苦」の根源があるとみた。ブッダはこの想像力を一度キャンセルしようとした。

仏教と出家の生活

 ブッダの時代においては、出家者は共同生活を営んでいた。出家者の共同生活では朝の托鉢で得た食べ物を全員が平等で分け合って食べ、食べ物が残っても貯蔵はしない。私はこの共同生活がある時代の人間の生活に酷似しているのに気がついた。狩猟採集時代の村の生活である。

 農業や牧畜を始める前の人類は、狩猟採集で生活を支えていた。周りの森に定期的に狩猟に行き、獲物を得る。獲物は村人の間に常に平等に分けられる。いまでもアフリカや南米アマゾンの奥地には狩猟採集生活を営んでいる村がある。

 アマゾンの村の場合、言葉にその生活文化が反映しているのが分かる。先ず、二つ三つまでしか数えられない。つまり、数詞が未発達である。また、未来や過去を現す表現、つまり時制がない。

 しかし、これは彼らの能力が低いからではない。彼らは森の動植物を悉く知っている。数詞が未発達と言うことは、貯蓄をする習慣がないからである。また、時制の表現がないのは、「今に生きている」からである。周りの森林からの恵みが十分で季節の変動もほとんどないから貯蓄の必要も明日の生活の煩いもない。日々を自然の恵みに感謝しながら生きている。

 ブッダの悟りがなんであったかはこの狩猟採集生活にヒントがあると考える。

『再帰的近代化』とは

■はじめに

 現代は、フランス革命や産業革命以上に大きな革命がおきている。以前の「単純な近代化」の段階においては、近代は近代以前のもの、たとえば伝統的な社会制度や政治制度、あるいは自然を近代化していった。この近代化は市民社会、核家族、階級社会、国民国家を生み出していった。

■再帰的近代化

 ところが、1970年代ごろから、近代は今度は近代化自身が生み出した市民社会、核家族、階級社会、国民国家を近代化していったのである。こうして近代は自分自身を近代化していくことになった。「地域社会の崩壊」とか、「家族の崩壊」、「労働運動の終焉」、「グローバル化」というのは、正しくこの近代化における現象である。

■ゲゼルシャフト化

 近代化を二重の過程として捉えられる。第一がゲゼルシャフト化であるが、それは合理化、分化ー専門化、個人化、馴致化を主な特徴とし、それに伴って意味喪失、動機の不安定性、正統性・統合のメカニズムの欠如、無力ー孤立感、連帯ー共生感の希薄、自然破壊、心的・肉体的自然の人工的環境への従属などの問題が生じる。その意味でゲゼルシャフト化とは「悪夢」にほかならならず、それゆえに、このゲゼルシャフト化に対する抵抗運動やゲマインシャフト探求の運動が近代化過程において必然的に伴うことになる。こうして生み出されたゲマインシャフトを拙著は「近代的なゲマインシャフト」と名づけ、その典型として市民社会、家族、階級、ネイションを取り上げた。

■近代的なゲマインシャフトの生成

 それは、分化・専門化され、相互にしたがうべき道徳と連帯感を喪失(=アノミー)していく部分社会と個人化によってばらばらになった個人を統合し、世界の魔術化によって意味喪失した個人に自明のアイデンティティ――市民や父、母、夫、妻、労働者階級、ドイツ人など――と存在論的意味を付与する機能、すなわち、ゲゼルシャフト化に伴う問題――部分社会と個人の脱統合、アノミー、孤立―無力感、意味喪失――を相殺する機能をもった。それを可能にしたのは、「近代的なゲマインシャフト」が伝統と自然によって正統化された一元的な規範力を行使したからである。

■「近代的なゲマインシャフト」自身がゲゼルシャフト化と新たなゲマインシャフト

 ところが、70年代以降、「近代的なゲマインシャフト」自身がゲゼルシャフト化されることによって、それがもっていた一元的な規範力は失われ、アイデンティティと存在論的意味の創出が自己課題となっていく。他方で、性、地域、エスニシティなどの領域でゲマインシャフトが新たに探求され、新しい社会運動・緑の党や極右運動・政党のような新種の政党と運動が展開されていった。このように、「近代的なゲマインシャフト」自身がゲゼルシャフト化され、新たなゲマインシャフトが探求される近代化の段階を「再帰的近代化」と呼び、この歴史的な段階を、それ以前の近代と区別するために、「現代」と命名した。
 
以上は、同志社大学の高橋秀寿教授の文章を編集したものです。

『新視点の仏教史』2009年11月刊(績文堂)より

莫高窟の弥勒信仰

■千仏画と上生信仰(p239-240)

 西域の亀茲国(クチャ)の郊外にあるキジル石窟の中心柱窟では、弥勒仏は天井に描かれている。しかも入り口の上部で、内部に入ってから振り返らないと見ることができない位置にある。敦煌の莫高窟の場合は、正面の西壁に、多くの場合、主尊として塑像の形で安置されている。

 この違いは、中国の仏教が出家者と在家者の区別をすることなくスタートしたことによる。キジル石窟のある亀茲国(クチャ)の仏教は小乗(部派)仏教で、出家者と在家者は明確に区別されていた。釈迦はすでに入滅して、いわば過去の仏である。弥勒仏は未来仏であり、その下生は五十六億七千万年後の未来である。現在は無仏の時代である。未来仏である弥勒の下生に備えて禅定の修行をすることの重要性をキジル石窟は自覚させる構造になっている。

 しかし、莫高窟の石窟はこの無仏の時代の空白を埋めようとした当時の民衆の信仰心が反映している。禅定に励むことのできる出家者にとってはともかく、在家者にとっては「無仏の時代」に耐えることは容易ではない。そこで出てきたのが、弥勒仏を主尊とし、礼拝の対象とする莫高窟の石窟である。

 だからといって弥勒仏がそのまま現在仏になるわけではない。その謎を解く鍵は壁画に描かれた「千仏画」に隠されている。莫高窟の石窟には最初期のものから、壁画には千仏画が描かれている。一方、キジル石窟では唐の支配が及んだ七世紀以降の石窟に千仏画が描かれたにすぎない。

 「弥勒と千仏の造形も『上生経』はもとより、『法華経』と関係が深い。「普賢勧発品」には『法華経』を受持し読誦する人は臨終のとき、千仏が手を授けて兜率天上の弥勒菩薩のもとに生まれることができる、と説かれているのである。」
 この「普賢勧発品」の文章は次の通りである。

 もし人あって、受持し、読誦し、その意味を理解したとしましょう。
 この人は命が終わると、千人の仏が手をさし伸べて、怖れず、
 悪しきところに堕ちないようにして、兜率天の弥勒菩薩のところに
 行くでありましょう。
 弥勒菩薩は三十二相があり、大菩薩衆にとりかこまれており、
 百千万億の天女たちを従えていられますが、
 その中に生まれるでありましょう。

 弥勒仏の塑像と千仏画とが組み合わされることによって、在家者にも兜率天への道が開かれたのである。注目すべきは、『法華経』にも弥勒菩薩と兜率天の情景が描写されていることである。上生信仰は『弥勒上生経』が訳出される以前に、すでに『法華経』を通じて広がっていた。莫高窟の弥勒仏は、最初期から上生信仰を反映するものであった。


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