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$No.13 儒学から国学へ


『近代日本思想史』第一巻

<p12>
 徳川封建支配の世界観的支柱として、元禄・享保期までの、いわば、幕藩体制の成立期ないし安定期において一世に君臨したものは、「朱子学」の世界観であった。その担い手である「朱子学派」の中心人物は、林羅山(1583-1657)であり、かれは、家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、創設期の幕府支配に参画し、官学イデオローグとして重きをなした。

 ・・・徳川封建制の支配と封建的ヒエラルヒーを理論的に擁護し正当づけるという、「朱子学派」の負ったこの任務は、「五輪」道徳が、人間の社会的結合関係の一切を貫通 する永遠不易の原理であると主張することによって、現在の封建社会の人間関係および社会秩序を絶対化するという形で遂行された。具体的にいうならば、「五倫」道徳、とりわけ君臣、父子、夫婦の「上下貴賎」の不易性は、いわゆる「朱子学」の「理気の説」あるいは「天人相関」の原理によって、基礎づけられたのであった。

  すなわち、「朱子学」によれば、天地の万物はことごとく「理」と「気」よりなる。「理」は太極あるいは「誠」とよばれ、宇宙の究極の根拠であり、万物に内在する普遍的な原理であるが、それは「気」の作用によって万物として現象し、それそれ特殊的な具体的な形態をとる。「理」が人間に内在するときは、本然の性、すなわち先天的本性となり、 同時にそれは、人間の根本的な社会結合関係である「五倫」を律するところの「五常」となる。このように、「朱子学」において「五倫」道徳の不易性は、先天的本性として人間に内在している宇宙の究極的な普遍的な原理、すなわち「理」にもとめられていた。いいかえれば、人間の社会結合様式の一切を貫通する「五倫」道徳の不易性は、自然界の究極的な原理である「理」から引きだされたわけである。・・・

  「朱子学」は、「理」=「太極」の原理をもちいて、自然界と人間界を合一させ、そして自然界の秩序である天地の空間的な上下関係をもって、人間社会の価(直的な上下関係を 説明し、君臣、父子、夫婦の「上下貴賎」を理論的に正当化したのであった。・・・

  すでに考察したように「朱子学」的世界観は、「天人相関」「天人合一」の「自然法」的原理に立脚して、自然界の原理から人間界の現実的な秩序を引きだしたものであった。

<p15>
  元禄・享保期以降、幕藩体制が動揺と崩壊の過程にはいり、これにイデオギー的に対応して、「朱子学」の自然的秩序観を儒学の個別の立場から、すなわち人間的作為の立場から批判して、「古学」を形成したのが、萩生徂徠(1666-1728)あった。

  萩生徂徠によって試みられた「儒学」的世界観の転回とは、一言でいうならば、自然的秩序の論理を人間的作為の論理へ転回させたことにほかならない。・・・すでにのべたように、「朱子学」的な考え方、すなわち「自然的秩序」の論理の特質は、「宇宙的自然」と「人性的自然」とを直接に同一視する連続観ににたち、しかも前者をもって後者を基礎づけたところにあったが、徂徠学は、人間の現実的な秩序が「自然的秩序」によって基礎づけられるという考えを否定したのであった。

 すなわち「徂徠学」は、第一に「陰陽五行」のような儒教哲学の諸概念を「聖人」による「治国平天下」のための「術」、すなわち手段として把握し、第二に、こうすることによって、・・・「先王」という歴史的実在を設定し、この「先王」によって「道」すなわち「礼楽刑政」が創出されたと主張したのである。・・・「朱子学」では現実的な社会秩序が「自然法」によって基礎づけられているために絶対的であるとみなされたが、「徂徠学」では、それは「先王」「聖人」「君子」などの人間によって創出されたのであるから、相対的であり、したがって改変が可能であると考えられているのである。

<p23>
  「国学」は、折から封建経済を浸蝕しながらだい頭してきた商業資本家層を背景とし、 主として都市在住のインテリゲンツィアを担い手とする、封建制下の改良主義イデオロギ−の性格をもっていた。

 「国学」は、戸田茂睡、僧契沖、荷田春満らによって創始され、賀茂真淵(1697-1769)を通じて、本居宣長(1730-1801)によって大成され、さらに、平田篤胤、伴信友らによって、発展させられたものである。

 「国学」に共通した主張は、つぎの点にあった。すなわち、封建支配のイデオロギー的用具である儒仏思想によって中世以来著しく歪曲されてきた日本人の生活信情を、それへの批判を通じて、その束縛から解放し、人生の真実を明らかにしようとしたところにあった。そして、それは、儒仏思考によって歪められた中世以来の伝統的歌学を否定し、古典そのものまでにさかのぼり、それを純粋な文献学的な手法によって、あるがままの姿においてとらえるという学問的な操作を通じて遂行された。

 本居宣長による『古事記伝』(1778))の大成は、その代表的な所産である。国学者たちのこのようなわが国古典の文献学的な研究によって把握されたものこそ、「いつわり」の「からごこる」や「はとけどころ」に対置される「やまとごころ」であった。ここで「やまとごころ」というのは、春満の「人情の実意」であり、真淵の「わりなきねがひ」であり、そしてまた、宣長の「もののあはれ」であり、そうじて、生きとし生きるものの真実の情にほかならなかった。・・・

 しかしその反面、「国学」は、儒教の外面的な合理主義を批判しながら、主情的な人間の恢復をもっぱら主張したのであったが、これは主情的な非合理主義の弱さをもっていたために、儒教の合理主義の否定をこえて、合理主義一般を否定する結果を招き、さらに主情的な神秘主義におちいるという危険性をあわせもっていた。

 この傾向は、宣長の死後、その門人平田篤胤にいたっていっそう顕著となった。宣長は形式的な規範性を排除することによって、人間の内面にもとづく真実性をとりあげ、その点から「国学」に学問性をあたえたのに反し、篤胤は、古典を絶対視し、これによって積極的に規範性を回復して、「国学」に神学としての体系をあたえようとしたので、これをますます宗教的に神秘化してしまった。こうして篤胤の「古学」的国学は、国際問題が「外圧」という形で積極的な問題となってくると、日本は「万国の本つ国、祖国たる尊きお国」であるといってこれを形式的にたかめ、狂信的な排害的ナショナリズムのイデオロギーと化してしまった。こうして「国学」は、「尊王攘夷」思想の権化である、後期「水戸学」とともに、天皇制イデオロギーの重要な支柱として確立され、明治絶対主義の専制的反動イデオロギーの一環を形成していったのである。

 宣長「国学」の学問的な側面は、宣長から文献学的方法のみを忠実に継承した伴信友らによって発展させられた。


『日本と中国』小学館

 朱子学:北宋の程子川などの儒学(道学)を集大成して樹立した学問体系。形而上学としては程子」||の理気説にもとづいて、理気二元論に立つ。理は宇宙世界を生成する根本因、気はその材料となるもの。朱子は至高純一な理と、現象として多様な差別態として存在する気の両面を認め、この両者は不離一体としたが、生成論、価値論上からは理先気後説をとった。理は内容としては仁義礼智信の五常。ことに君臣父子の上下関係を重んじた。さらに、その中での節義、名分が尊ばれた。

 道家:老子を粗とし、政治、処生の術として無為自然を説く一派の称。人はむしろ無為を持することによって究極的な成功をうることができ、また心の安らぎをうることができるとする。日月星辰の運行、四季の推移など、何の作為もないのに存在する一つの秩序、理法を道と名づけ、人はこの道にしたがって無為自然を旨とすべきだという。

 道教:中国土着の宗教。現世利益と精霊崇拝を中心的教義とする。道教には開祖がない。体系化された教理・道義もない。中国人の間には自然発生的に生れた原始信仰、土着の宗教諸派を集大成した宗教である。中国古代では精霊を鬼神といい、それに天神・地祇・人鬼の三種があるとされた。天神とは天と日月星辰、寒暑、風雨の精霊も含む。地祇は大地の精霊、人鬼は死者の霊魂、魑魅魍魎、妖怪変化など。ある時期、不老不死を最高の目的とした。一般信徒は日常「積善」にはげみ、道士の発行する招福除災の御札をたよりに、現世的な福、禄、寿を神に祈った。

 陽明学:中国、明代中期の王陽明によって唱えられた、良知を基点とする学問をいう。陽明学は、朱子学と異なり、あらかじめ定められた理法に従うよりも、心の良知にもとづく是非判別の能力に絶対の信頼をおき、その本心のままに行動することを尊重する。聖人、凡人にともに良知を認め、良知を認め、良知を実現する方法として知行合一を説き、実践を重んじた。

 礼と戒律:礼は中国の社会を古くから秩序づけてきた伝統的規範の総称で、儒教倫理の徳目の一つともされる。礼とは豆、つまり器に肉を盛って、神に差し出すといった神聖観念から発生した。礼に関する多くの文献は前三世紀末ごろ編さんされたもので「儀礼」「礼記」「大戴礼」「礼」がそれである。
 戒はぼん語シーラの訳。仏教教団に入った者が守るぺき基本的な倫理をいう。律はぼん語ビナヤの訳。仏教では修行僧の遵守すべき規則の意味。戒が自発的な行為の基準であるのに対し、律は僧院生活者の拘束する法律にひとしい。


伊東俊太郎『比較文明』 UP選書


<p212>
 たとえばイスラム文明を取り入れても、西欧はデカルトの時代になりますと、機械論というような独自のパラダイム、あるいは自然把握の枠組でもいいが、そういうイデオロギーで、自分たちの科学をつかみますよね。そしてそれが、今度は世界的になります。機械論は、ぼくはやっぱりイスラムにはない統合原理だと思います。(伊藤)・・・

  デカルトの機械論、ベイコンの自然支配が近代科学をつくった二つのイデオロギーだと 思いますが、・・・(伊)


<p24>
 <オリエント文明−ギリシア文明−ローマ地中海文明−西欧文明−西欧文明の拡大>という世界史の単線的系譜は、今日ではすでに常識化した見解となっているが、しかしこれは19世紀におけるヨーロッパの世界支配という既成事実ができあがった時点で、西欧の歴史学者によってつくりあげられた、西欧中心のいわば身勝手な一面的世界史像なのである。

 こうした西欧中心的な世界史像の原型は、まずへーゲルの歴史哲学のなかにはっきりあらわれている。ヘーゲルにとって世界史とは、「普遍的な世界精神が民族精神をを媒介として、その本来の自由の意識を実現してゆく過程」にほかならないが、この世界精神の自己実現は具体的にはまずオリエン卜世界にはじまり、ギリシア世界、ローマ世界を経て、近代ゲルマン世界にいたる過程をとる。この最後のキリスト教ゲルマンの段階において自由な完全な自己意識に達するとされ、この「自由な完全な自己意識」とは「近代国民国 家」の成立にほかならないから、結局、近代西欧諸国の成立によって世界史は完結するという形をとっている。

 この場合、、中国やインドはもっぱら「静的」であり、理性がいまだ「自然性のなかに埋没して」いるとされて、こうした世界精神の展開に参加せず、その「前史」に追いやられてしまっている。・・・その後の西欧の世界史像は、本質的にこのへーゲル的立場を出ていないようにおもう。

 たとえば「哲学は歴史の敵である」と考えて、ヘーゲルとは反対に理念や普遍者から恣意的に歴史を構成するのではなく、かえって個体的なものから普遍的なものを導出することを主張した「経験歴史主義者」ランケの世界史も、人類史の総体を把握すると称しながら、依然として西欧中心主義に立脚して、オリエントにはじまり、ギリシアを経てローマに至り、このローマ的なるものと融和した「ローマ・ゲルマン的諸民族」の成立を世界史の骨組としている。ここでも中国やインドはあたかも、自然状態のままであるとして、彼の世界史の中に組み入れることが拒まれる。そして普遍的なキリスト教精神と個別的な国民国家の対立連関を軸としてできあがってゆく統一西ヨーロッパ世界の形式が、彼の言う”普遍的”な世界史であった。・・・

  ところで、ランケとほぼ同じ時代に、ヘーゲル、ランケを貫いて19世紀ヨーロッパ史学の共通の地盤となってい「国家」や「民族」に主体をおく歴史ではなく、かえって経済的な関係一つまり生産力と生産関係の矛盾に歴史の発展の原動力を認める考え方が、マルクスの唯物史観によって提出された。マルクスはへ一ゲルの普遍的精神の過程を経済社会 のメカニズムにおきかえ、国家や民族間のあつれきや闘争が歴史の発展を支えるのでなく 、社会的関係、階級闘争こそ歴史の主題であるとする。

 ランケがへ−ゲルの国家史観、民族史観をうけついだのに対し、マルクスがへーゲル批判から出発しながら、こうしたナショナリズム的「国家史観」をのり越えて新しいインターナショナルな「社会史観」ともいうべきものを打ち出したのは対蹠的である。しかし、ここに注目すべきことは、このマ ルクスの歴史観も依然として西欧中心主義の上にのっているものであるということである。

<p140>
 ヨーロッパでは「自然」はどのように考えられていたのであろうか。・・・古代ギリシアにおいては、・・・内に生成発展の原理をもった生命ある有機的自然が自然の原型であった。そこでは自然はなんら人間に対立するものではなく、人間はそのような生命的自然の一部に包みこまれていた。神ですら自然を超越するものてだはなく、それに内在的である。

 ・・・ところで中世キリスト教世界に入ると、神・人間・自然の一体性は破れて、代わって神一人間一自然というせつ然たる階層的秩序が現れてきたのである。そこでは人間も自然も神によって創造されたものであり、神はこれらのものからまったく超越している。人間も自然と同格ではなく、むしろ自然の上にあってこれを支配し利用する権利を神から授かったものとなる。こうしたキリスト教の自然観は12世紀のシャトル学派を通じ、ロジヤー・ベーコンを経て、17世紀のフランシス・ベーコンの自然支配の概念においてはっきりとした形をとる。

 近代西欧の自然観は本質的には、この中世キリスト教世界に含まれていた自然を継承し、いっそうこれを自覚発展させたものといえる。すなわち、自然を人間とは独立無縁の対立者として、これを客観化し、このまったくの他者に、外からさまざまな操作を加え、分析し利用しようとするものである。そこには自然から人間的要素としての色や匂いなどの「質」を追放し、生命や意識をとり除き、もっぱらこれを「大きさ」「形」「運動」などのいわゆる「第一性質」のみに注目して、それを要素に分解し、因果的、数学的に解析してゆく、近代の機械的自然観が形成されることになるのである。

 近代的自然観の創始者は17世紀のデカルトである。かれは、まず物体から「実体形相」と呼ばれていた霊魂のような生命原理をすべて除去し、これを一様な幾何学的「延長」に還元する。・・・一万、心の側もデカルトにおいて「我思う、ゆえに我あり」のことばでしめされているような「純粋思惟」と呼ばれるものとなった。これは幾何学的な理性であり、数学をもちいて対象を理性的に構築していくものはであるが、生命の血潮が流れることのない冷たい操作的思考である。そしてこの「純粋思惟」と「延長」の谷間に「生命」は抜け落ち、「自然」がその自らの能動性を持たない原子・分子のダンスとなり、そこから他律的な、決定論的な世界観も生れてきた。このデカルトによって創始された「機械的世界観と傷迅二、さきに触れたフランシス・ベーコンの「自然支配」の理念とが、あたかも車の両輪のごとく結びつき、近代の科学技術をおし進めてきた。

<p21>
 今や一つの時代が終わりを告げている。一つの時代_それは西欧が「世界」であった時代である。たしかに今世紀の二つの大戦を経ることによって西洋中心の世界が音をたてて崩れ去り、その西欧中心主義とかたく結びついていたいわゆる「近代」が、まさしく終焉しようとしている。すべてが西欧のまわりをめぐって演せられたこの「近代」というドラマの終焉の後に来るものが、「非西欧の復権」であることにまちがいはないと思う。

 私はあえて「復権」という。なぜなら従来、非西欧文明の伝統は、西欧中心的歴史像によって久しく世界史の領分から不当に疎外されてきたからである。今日西欧はもはや「世界」ではなく一つの「地方」となったが、こうしたことはしかし、1945年以降にのみ限られる、はなはだ例外的な事態であったであろうか。否むしろひるがえってみれば、西欧が「世界」であったのは、たかだかこの数世紀ばかりの特殊なことではなかったのか。

<p31>
 現実的に西欧が「世界」となりうる地盤を獲得したのは、15世紀後半以降のいわゆる「大航海時代」においてであるが、しかし、ヨーロッパのこの地理的な外延的拡大だけで、西欧の優位が内容的に確立されたわけではない。

 ・・・西欧は17世紀にいわゆる「科学革命」を遂行することにより、真に世界を支配するにいたる潜在力を自らのものとなしえた。・・・実に「科学革命_|による近代科学の形成・確立こそ、世界史における西欧の優位の真の起源なのである。・・・さらに18,19世紀においてこの近代科学のもっている潜在力は産業革命によって現実化され、この近代科学技術を背景とする資本主義の膨脹力の前に、非西欧諸国は屈服したのである。

<p31>
 西欧文明はもとローマおよびシリア文明の周辺文明として出発した。西欧国家の起源は、ゲルマン民族のひとつであったフランクを統一したクローヴィスが495年にカトリックに改宗したときにまでさかのぼりうるであろうが、これはまだ蛮族国家であって文明の段階に達しているとはいえない。西欧文明の誕生は、「封建国家」を確立したカール大帝が西ローマ帝国の理念を復興し、カトリック世界を統一した紀元800年を中心とする時代−つまり5世紀から9世紀にかけての時代にもとめられるであろう。

 ここに、ローマ帝国の理念とキリスト教とゲルマン民族の精神とが、真に具体的に融合することができたからである。しカル、西欧文明がより本格的な文化的離陸を開始するのは、アラビア経由でギリシア文明が入ってきた「12世紀ルネッサンス」においてである。そしてこの地盤のうえに16、17世紀の「科学革命」により近代世界の知的中心となり、さらには18世紀に思想的には「啓蒙思潮」を生みだすと|可時に、経済的には「産業革命」を遂行した。

 西欧国民国家はこの資本主義的膨脹力により、地球のほとんど全表面をみずからの支配下におき、19世紀は世界のいたるところが西欧文明の「周辺文明」と化するがごとき観を呈した時代といえよう。

<p52>
 そもそも古代・中世・近代という今日一般的となっている時代区分そのものが、実は西ヨーロッパ史を基準としたものであり、「古代」とは「ギリシア・ローマ」の古典文明を意味し、「中世」とはそれが失われた「中間の時代」、そして「近代」とはこの失われたギリシア・ローマの文明をふたたび回復してくる「ルネッサンス」以後の時代を指している。

 そしてこの古代と中世を区切るものが「西ローマ帝国の滅亡」(476)であり、中世と近代を分かつものがしばしば「コンスターティノーブルの陥落」(1453)とされている。これらの歴史的事件が西ヨーロッパ史にとって、いかに重要な意味をもとうとも、全世界史的にみれば、例えばインド、や中国の歴史に何らのかかわりも持ちはしない。

<?>
 ヴォルテールもルソーも初期のディドロも、神の存在を確信し、その存在証明を試みた人たちであるが、奇蹟や異象−まさにここに、ここにだけ「教会」は自らの権威を求めていた−を真向から斥けた点では一致している。そしてその根拠が、単に気分的ではあれ、自然の法則的斉一性への信仰にあり、またそれが何よりもニュートン物理学への絶対とも言うべきひよう拠に動機をもっていたことは疑われない。

 事実は、8世紀におけるイスラムの地中海制覇によって、ヨーロッパは地中海文明から締め出され絶縁されることにより、むしろ純粋にヨーロッパとなったのである。その後ヨーロッパはイギリスを迂回してわずかに地中海文明の余波にあずかる(カロリング・ルネッサンス)とはいえ、12世紀においてアラビア文化を介し、いわゆる「中期ルネッサンス」を迎えることにより、ここにはじめて西ヨーロッパはギリシア文化を本格的に受容することができたのである。したがってヨーロッパ人にとって、ギリシア文化は異教の民との接触によってかちとられたものであって、はじめから自らのうちに自ずとあったものではない。


梅原猛『生と死の思想』 p383

  哲学の問いは生死の問いである。いかに生きるべきか、いかに死ぬべきか、それが哲学が、最初に問うとともに、最後に問うべき問いである。・・・人生とはいったい何であろうか。ひとは何のために生き、そして何のために死ぬのか。・・・人生の問いはもとより必然的な問いである。人間はだれしも己れの生き方を問いうめる要求をその心の内部にもつ。しかし、かれがこのような要求に支配されるのは、かれの人生が、何らかの形で壁にぶつかったときである。・・・そこで人生はかれにとって謎になったのである。このとき、かれは、真剣に人生とは何かを問う一人の哲学者になる。

 現代文化論をするためには、ルネッサンスの巨人のような万学の知識と同時に、時代の将来に達する神の如き識見を必要とする。・・・万学の知識と、時代に対する識見が、「現代文化論」を書くには必要だと、私は云った。 


梅原猛 『哲学の復興」

 私は、この三十年間の世界歴史の時代を、ヨーロッパが世界の全部ではなく、世界の一部であるということが、はっきり分りはじめた時代で有ると思う。ヨーロッパ文明が世界で唯一のすぐれた文明であるという考えも、今や一つの幻想であることが明らかになりはじめたのである。れれわれは近代ヨーロッパ哲学を、あるいはヨーロパ哲学を唯一の哲学としてでなく、他の哲学と並ぶ一つの哲学として研究すべき時代に来ているのである。

 この際においてわれわれは、ヨーロッパ文明とちがった文明の伝統の下に立つわれらの文明が、全体として何であったかを明らかに知ることが必要とされている。仏教はいったい全体として何であったか。

 私は二つの課題が、今仏教にかんする課題として日本の哲学者に課せられていると思う。一つは仏教というものを、ヨーロッパ哲学全体と同じように、あるいはそれ以上豊かで、さまざまな可能性をもつ思想の流れとしてとらえることである。・・・しかし、そればかりではいけない。・・・仏教がいったい現代の世界に以下なる原理を与えるかという根源的な問いを、哲学(者として問わねばならぬであろう。これについて私はどう答えるべきか、あるいは寛容の原理、あるいは生命の原理、あるいは業としての歴史の原理、私はさまざまな著書にこういう問題について、いくつかの仮説を出しておいた。


「闘論」梅原猛・武内均 徳間書店 p198

 日本の支配者はむこうからやってきて日本を征服したいうのが記紀の伝えるでんしようなのです。崇神天皇のときに疫病がはやった。天皇は夢にそれが三輪の神のたたりであることを知る。それで三輪の神の子孫のオオタタネコを呼んで、三輪の神を祭らせたので疫病がおさまった。三輪山というのは、少なくとも神話の上では土着民の宗教ですね。土着民の神が侵略者にたたったというわけだ。それを天皇が祭る。それが日本の宗教を解くかぎだ。そういうことを考えると、なぜ怨霊を祭ることが大切にされるかがわかる。怨霊を祭らなければならんということは、数において圧倒的に多い土着民を征服したという日本の歴史に、その根源が求められる。


福岡正信『わら一本の革命」

 無智 無価(直 無為の自然に還る以外に道はない
 一切が空しいことを知れば 一切が蘇る
 これが
 田も耕さず 肥料もやらず 農薬も使わず 草もとらず
 しかも驚異的にみのった
 この一株の稲が教えてくれる緑の哲学なのだ


福岡正信『自然に還る』

 人間の分別、相対的な考えを超えたところの自然が、本当の「自然」と言えるものなんですが、その相対界を超えたら、もう人間の言葉ではとどかないでしょう。

 意識してもダメ、無意識では自然は把握できないのですが、無意識を超えたいわば無分別の立場から観た自然が、本当の自然であり、神であると言ってみても、その立場には人は立ちえない。そのため、残念ながら、人間は、この超えた自然や神を知っているのではないということになるのです。

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