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10-07 鳩摩羅什


■ はじめに

 中国仏教に羅什の果たした役割は余りにも大きい。しかし、羅什が大乗仏教にこだわった理由は理由は明らかではない。明らかではないが、その生い立ちを見ておこう。


■ 生い立ち

 鳩摩羅什(350〜409年頃)は五胡十六国時代(304〜439年)の訳経僧。略して羅什。傑物である。インドの貴族の血を引く父と亀茲国(きじこく)の王族の母との間に生れた。亀茲国は新疆ウィグル自治区のクチャ付近にあった大きなオアシス国家。

 羅什は七歳で出家し小乗仏教を学ぶ。当時の亀茲国で盛んであったのは小乗仏教であった。九歳の時、母とともに西北インドのカシミールへ向かう。そこで説一切有部(せついっさいうぶ)系の小乗仏教を学ぶ。

 十二歳の時母と共に亀茲国へかえる。帰路、沙勒(カシュガル)で、大乗の空の思想を教えていた須利耶蘇摩(すりやそま)に学ぶ。カシミールで説一切有部系の小乗仏教を学んできた鳩摩羅什は、今まで学んできた教えを否定する大乗の空の思想に驚嘆する。「高僧伝」によると、そのとき鳩摩羅什が須利耶蘇摩に学んだのは、『中論』、『百論』、『十二門論』であったといわれる。
 

■ 数奇な運命

 当時の中国は、五胡十六国の時代(304〜439年)である。前秦苻堅(在位357〜385年)は、長安一帯をかため、376年に北西の前涼を倒し、その勢いで華北統一に成功する。その当時、亀茲国の鳩摩羅什と東晋の襄陽(じょうよう)にいる釈道安(しゃくどうあん)とは天下にその名が轟いていた。苻堅は、378年襄陽を攻め、道安を長安に迎える。道安は、苻堅に鳩摩羅什の招聘を勧め、苻堅も次第にその心を固めたと思われる。382年、亀茲を攻め落とし羅什を連れ帰るよう部下の呂光(りょこう)に命じる。羅什は384年、亀茲国を攻略した呂光の捕虜となる。

 呂光が西域に遠征している間、苻堅は華南の東晋を征服し天下統一の雄図を達成しようとし大軍を南下させる。しかし、383年ひ(さんずいへん+肥)水の戦いで敗退し、部下の姚萇(ようちょう)に捕らえられる。苻堅は自殺し、姚萇は後秦を興す。呂光は385年、河西回廊の涼州の姑蔵(今の武威)に到着、翌年ここで苻堅の死を知り、この地で後涼を建てる。399年、呂光は死に呂纂が王位につく。鳩摩羅什はその後も、国家の占い師のような役割で、呂纂と親しく交わったと言われ、結局16年間姑蔵にいた。

 鳩摩羅什が姑蔵に滞在していたとき、姑蔵の近くを西に向かう法顕(337頃〜422年)の姿があった。もしこのとき、法顕が、姑蔵に鳩摩羅什が滞在している噂を耳にしたなら、姑蔵に立ち寄って鳩摩羅什に会おうとしただろうか。

 呂光には、羅什を連れて帰るべき国がなくなった。そこで、途中の武威(ぶい)で後涼を建国する。羅什もこの地に17年間とどまることになる。後秦の姚興(ようこう)は後涼討伐を決め、401年、姑蔵から鳩摩羅什を長安に迎える。父、姚萇の時(386年)から願っていた鳩摩羅什の招致がようやくにして叶う。後秦の後涼討伐は、西域遠征よりむしろ鳩摩羅什の招致が目的であり、今でいう文化政策の一環であった。401年12月20日鳩摩羅什は長安にはいる。


■ 羅什の訳業

 鳩摩羅什は、長安で経典の漢訳に当たった。羅什が訳出した仏典は経典が26、論・律が9、合わせて35部、294巻といわれている。

 その主なものをあげれば、
 『大品般若経』『小品般若経』『妙法蓮華経』『阿弥陀経』『思益経』『維摩経』『金剛経』などの大乗経典、『坐禅三昧経』『禅秘要法経』『禅法要解』などの禅経典、『十誦律(じゅうじゅりつ)』『十誦比丘戒本』などの律典、および『中論』『十二門論』『百論』『大智度論』『成実論』などの論書をはじめ、『馬鳴菩薩伝』『龍樹菩薩伝』『提婆菩薩伝』などの伝記類にわたっている。そのほか著書として姚興のために『実相論』二巻を著したという。

 羅什がもっとも力を注いだのは般若系の大乗経典と龍樹・提婆系統の中観部の論書の翻訳であり、羅什こそインドの中観仏教や主要な大乗経典を中国に移植した最大の功績者であった。

 鳩摩羅什は、彼以前の訳者とは異なり、中観・空の思想に通じており、大乗の論書『中論』『大智度論』などの翻訳は、鳩摩羅什によってはじめてなされたのである。翻訳された経と論はこれら大乗の経・論は、初期中国仏教の最も重要な聖典となり、そこから法華宗(天台宗)・三論宗などが成立した。

 廬山の慧遠(えおん)とも交渉があり、弟子幾千ともいわれ、僧肇(そうじょう)・道生(どうしょう)などが著名である。後の時代の玄奘の訳(645年に開始)を一般に新訳といい、羅什の訳を旧訳(くやく)という。


■ 道安との関係

 道安は、般若経の研究に全力を傾けていたが、インドからきた大乗の沙門から教えを受けられず、ほとんどはアビダルマの学者が訳経に従事していた。彼は、大乗の学者の教えを仰ぎたかったがそれを果たせなかった。

 鳩摩羅什は道安を大いに敬っていたという。道安没後十六年にして彼は長安に入る。鳩摩羅什と道安とは、あいまみえることはなかったが、長安で訳経を始めた鳩摩羅什に道安の弟子たちは、協力を惜しまず、そのことは、道安が鳩摩羅什の招聘を進言したことを裏付けている。さらに、後には、道安の弟子廬山の慧遠、僧叡が鳩摩羅什と深い関係を持つようになり、それが中国仏教の進路に大きな転機をもたらすことになる。このように、鳩摩羅什にとって、釈道安はあらゆる意味で大きな存在であった。


■ 同時代の訳業

 インド、中国という言語・文化の異なる国で経典を直ちに漢訳するという困難な作業は、二世紀半ば以来始まり、それから二世紀余りたった五世紀初頭以後の半世紀は、経典翻訳の最盛期を迎える。その代表は、北の長安の鳩摩羅什(般若経、維摩経、法華経、阿弥陀経等)、南の建康の仏陀跋陀羅(華厳経)、西の涼州の曇無讖(涅槃経、金光明経等)の3人である。

 シルクロードは羅什が歩んだ路でもある。亀茲国からカシミールへの旅は母とともに歩んだ。羅什はこのとき9歳。この旅は羅什の意思によるものではなかった。長安へ向かう旅も捕虜としてであり彼の意思によるものではなかった。この点、自らの意思で求法の旅に出た法顕(338?〜422?年)や玄奘(602〜664年)とは異なる。しかし、彼のなした訳業の意味は大きい。

参照・引用
・鎌田茂雄 『新中国仏教史』 大東出版社 p55など

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