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22-15 右前(うじん)


 養老3年(719年)に左前(さじん)を改めて右前(うじん)とすることが法令で定められた。左前、右前というのは衣服の襟の合せ方である。右を下(手前)にする着方を右前という。今日でも和服は右前に着る。それまでの朝鮮半島風の服装を中国の唐風に改めようとしたものである。『続日本紀』養老3年2月3日条にこう書かれている。

「初めて全国の人々に衣服の襟を右前にさせ、職事(しきじ)官の四等官以上のものに笏(しゃく)をもたせた・・・」。

 笏とは細長い板で、今でも神官が用いている。高位の官吏には笏の携帯と襟の右前も官吏などには義務付けられた。

 高松塚の人物群像が、高句麗古墳の壁画に描かれている人物の服装に非常によく似ている。高松塚の壁画について高句麗の影響を考える説もたくさん提起された。しかし、高句麗はすでに 668年に亡びている。それにももかかわらず、高松塚の服装はまだ朝鮮半島風であって左前になっている。それが養老3年に右前に改められたのだから、高松塚の造られた時期の下限が 719年に抑えられる、というようなことも考えられる。

 「右前」はヤマト朝廷が唐への志向を強めたあかしとみることができる。その裏返しが新羅との関係の冷却で、それを如実に示すのが遣唐使船のコースである。遣唐使は、702年に約30年ぶりに復活し、717年にも派遣された。そのコースは朝鮮半島沿いの安全な「北路」を避け、東シナ海を横断する危険な「南路」に切り替えらている。新羅との関係悪化が原因とされている。
 
引用・参照
http://www.han.org/a/half-moon/hm097.html#No.712

22-14 新暦と旧暦


 旧暦は太陰太陽暦(たいいんたいようれき)ともいう。太陰暦を基にしつつも、閏月を挿入して実際の季節とのずれを補正した暦である。日本では、明治6年1月1日(旧暦明治5年12月3日)に太陽暦(新暦)が採用され、現在に至っている。それ以前は太陰太陽暦(旧暦)だった。

 太陰太陽暦は、太陰暦と太陽暦を折衷した暦で19年に7度の閏月(うるうづき)を設けて調整する。約2年半に一回の閏月が必要となる。これは月の満ち欠けを基準にして作成され、毎月1日は朔(さく)の日で新月、毎月3日の夜に見える月は三日月(みかづき)、15日は満月、と決まっていた。

 月はほぼ29.5日周期で満ち欠けをくり返すので、1ヶ月は29日か30日、1年はおよそ354日となる。これに対して、太陽の周期は365.2422日だから、1年におよそ11日ほど暦と実際の太陽の動きとがずれてくる。そのままにしておくと、10数年後には夏と冬が逆転してしまうことになるので、数年に1回1ヶ月余分に入れて、1年を13ヶ月としたのである。この余分に挿入された月を「閏月うるうづき」という。

 旧暦(太陰太陽暦)は、604年に元嘉暦(げんかれき)が施行されたのがその始まりである。聖徳太子が亡くなったのが622年。次の暦法である儀鳳暦(ぎほうれき)が施行されたのが697年である。聖徳太子が亡くなった622年には元嘉暦が用いられていた。

 元嘉暦(げんかれき)とは、かつて中国・日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法である。中国・南北朝時代の宋の天文学者・何承天が編纂した暦法である。中国では南朝の宋・済・梁の諸王朝で、元嘉二十二年(445年)から天監八年(509年)までの65年間用いられた。

 日本には朝鮮半島の百済を通じて6世紀頃に伝えられた。当初は百済から渡来した暦博士が暦を編纂していたか、百済の暦をそのまま使用していたと考えられる。推古天皇十年(602年)に百済から学僧・観勒が暦本などを携えて来日し、帰化人系の子弟らにこれらを学習させた。平安時代の書物『政事要略』には、推古天皇十二年正月朔日に初めて日本人の手によって作られた暦の頒布を行ったとの記述があり、これは元嘉暦によるものであったと考えられる。

参照・引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%98%89%E6%9A%A6


 この間の歴史を少しまとめると次のようになる。
  553年(欽明14)百済に暦博士の派遣等を依頼
  554年(欽明15)百済、暦博士固徳王保孫などを派遣
  602年(推古10)百済の僧観勒が来朝、暦法等を献ず
  604年(推古12)始めて元嘉暦を施行
  660年(斉明6)中大兄皇子、はじめて漏刻(水時計)を造る
  676年(天武4)始めて占星台を興す
  697年(文武元)元嘉暦を廃し、儀鳳暦を施行

参照・引用
http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~kazu/nihon/ja-nenpyo.html

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22-13 韓国の松


 松の話をもう少し続けることとする。松を彫刻や建築の用材として考えるのは少し疑問があるかもしれない。「松の木は割れやすくまっ直ぐな長い材木が少なく、また松脂(まつやに)が多いため加工性は低く、加工した後にもたびたび割れたりよじれたりするので、建築用材としては制約の多い樹種である。」 広隆寺の弥勒菩薩像は一木彫りである。大きなひびやよじれもない。一本の木から彫り出されている。弥勒菩薩像の高さは84.2cm。材料とされた松はまっすぐに育った大木でなければならない。そんな大木があるのか。

 一冊の本に出会った。上記の引用もこの本からである。
  全瑛宇著 金相潤訳 『森と韓国文化』 図書刊行会
 全瑛宇(ちょんよんう)さんは、山林生物学の専門家である。

 韓国にはまっすぐに育った松の大木がある。この本によれば「天をつくようにすらりと高く聳え立った金剛松」という表現である。「太白山と小白山の間に位置する両白地方(慶尚北道北部地域と江原道地域)は昔から質のよい松の木の産地として知られている。」「30メートル以上もまっすぐ育つだけでなく材質も優秀な金剛松は、特に幹の内部が黄色く緻密な材質を持ち、建築材として優秀なため、昔から名声が高かった。」 本はこの金剛松の存在を前提として、広隆寺の弥勒菩薩像は「韓国の松の木で造られた木彫仏像である」との基本認識を示している(114頁参照)。

 本は、景福宮の復元についても触れている。都棟梁の申鷹秀さんの話が紹介されている。「(韓国では)一般に民家や寺院という大きな木造建物を建てるための材木としてケヤキ、楢類、モミなどが松の木とともに使われたが、王の居所の宮殿である宮殿は松の木だけで建てたという。」 その理由は「韓国で育つ木の中で松の木が最も丈夫であり、最も容易に手に入れることができる最高の木であったから」である。

 韓国では宮殿を築造する棟梁を都棟梁というのだそうだ。都棟梁は檜(ひのき)についても「たとえ日本では檜が良い材木であっても、韓国の建築物には松の木が一番良い」といい切っている。この話を聞いて薬師寺など奈良の寺院の再建に生涯を捧げた西岡棟梁のことを思い出す人もあるだろう。この都棟梁の信念のお陰で景福宮が松の木で復元され、私は弥勒菩薩像との不思議な再会をすることができたのである。

 著者の全瑛宇さんは、韓国の風土と松に次のように述べている。
「夏を除き殆どの季節に見られる乾燥期や、季節間の気温差が大きい大陸性気候条件でも旺盛に生育する松の木に変わるほどよい針葉樹は、韓国ではそう見当たらない。」

22-12 ヒノキ(桧)と松


 わが国ではヒノキ(桧)が珍重されてきた。木彫の仏像の素材や寺院の建築にはヒノキが用いられてきた。ところが韓国の建築用材は赤松が中心である。この違いはどこから生じたのだろうか。広隆寺の弥勒菩薩像が赤松でできていることから、朝鮮からもたらされたものであるとされている。しかし、赤松が用いられているからといってなぜ朝鮮渡来と判断されるのか。

 この理由が解るのには少し時間がかかった。結論からいえば、朝鮮ではヒノキがほとんど育たないということである。ヒノキは雨がたくさん降って湿度が適当にないと育たない。朝鮮は比較的雨の少ないところである。日本は高い山脈があり、その山脈に季節風がさえぎられ、多量の雨をもたらす。さらに台風の上陸というおまけまでもある。

 高い山脈は太平洋プレートが押し寄せることによって生ずる造山活動によってできたものである。日本の山の峰には松の木が並ぶ。谷には杉の木が植えられる。最も水分を必要とするからである。中間の斜面でヒノキが育つ。プレートによる造山活動は台湾も同じで、台湾も高い山脈が走っている。そこにヒノキが育っている。薬師寺の再建は、台湾のヒノキが用いられた。

 朝鮮はプレートとの衝突による造山活動はなく、高い山脈は形成されなかった。ソウルから大邱(てぐ)まで国内便飛行機に乗ったことがある。大邱市は韓国南東部の都市で、ソウル、釜山に次ぐ大都市である。機上から見る光景は韓国の水不足を物語っていた。なだらかな山の周りに四つもの貯水池が築かれているのが見えた。

 雨量とヒノキの関係は、その大邱市の国立博物館の館長さんから聞いた話である。館長さんは、日本や台湾の山に何度も登ったことがあるという登山家でもあった。それに日本語が堪能であった。この館長さんの説明で私もようやく納得のできる答えを得ることができた。ただ、韓国は水には必ずしも恵まれてはいないが、反面地震の心配もないということである。

23-08 天寿国繍帳


 東京国立博物館には四つの建物がある。正門を入って正面に見えるのが本館、その左手少し奥に平成館、右手にオリエント館が並ぶ。正門からは見えないが、左に入ってゆくと、法隆寺宝物館がある。先に述べた、天台宗開宗1200年記念 特別展「最澄と天台の国宝」は平成館で開催されている。オリエント館にはガンダーラや、隋・唐の時代の仏像が数多く陳列されている。

 法隆寺宝物館では、「国宝・天寿国繍帳と聖徳太子像」展が今日4月9日まで開催され、国宝の天寿国繍帳が特別公開されている。法隆寺宝物館は、明治初期に皇室へ献納した国宝・聖徳太子絵伝、重文・献納金銅仏(俗に四十八体仏)、金銅透彫潅頂幡、伎楽面など法隆寺献納宝物318件が収蔵されている。

 天寿国繍帳は、聖徳太子が亡くなった622年2月に、太子の天寿国往生のさまを表すことを発願した后の橘大女郎(たちばなのいらつめ)が、祖母になる推古天皇の勅によって完成させたものである。『上宮聖徳法王帝説』には「繍帷二帳」(ぬいものかたびらふたはり)と記されている。

 天寿国繍帳には、100匹の亀の図柄がある。ひとつの亀に4文字、全部で400文字からなる銘文がある。天寿国繍帳の傷みがはげしいので現存する文字は29文字に過ぎないが、平安時代中期に『上宮聖徳法王帝説』に写し取られていたため、今日、その全文が明らかとなっている。

 「世間虚仮、唯仏是真」(世間は虚仮にして、唯仏のみ是れ真なり)の言葉はこの天寿国繍帳の銘文にある言葉である。「天寿国」という言葉は、敦煌経(北魏時代書写華厳経)に加えられた(583年)奥書に「西方天寿国」という言葉があることが最近発見され、西方浄土のことであり、しかも、隋仏教が太子に伝わっていたことも推測されることとなった。

 参照・引用
 『国宝天寿国繍帳』 東京国立博物館

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