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31-36 仏教の普遍性


 仏教は、キリスト教イスラム教とともに世界宗教といわれる。世界宗教とは、地域や民族の差異を超えて世界的規模で信仰されている宗教を指す。本来、一つの民族(あるいは部族)によって信仰される民族宗教が宗教の始まりである。その段階での宗教は、他の民族には理解しきれない独自な思想や儀式を有していることが多い。日本における神道、ユダヤにおけるユダヤ教、インド世界におけるヒンズー教などが民族宗教に該当する。

 仏教は、どうして世界宗教たりえたのか。いまだに解くことができない難問である。難問ではあるが、おそらく前述したインドの歴史にその解答のヒントがあるように思われる。

 仏陀が生まれた時代のインドには、ヒンズー教が支配的であった。ヒンズー教はこの頃はこの頃はバラモン教といわれていた。四世紀頃、ヴェーダの宗教であるバラモン教と民間宗教が融合することによりヒンズー教が成立した。ここでは、バラモン教も含めてヒンズー教ということにする。

 ヒンズー教は、儀式が大きな意味を持ち、また、カースト制度と不可分であった。仏陀は、「悟り」には身分も儀式も必要でない、禅定を通じて縁起の知恵を体得することが悟りにいたる方法である、といった。そのように私は理解している。

 仏教は、借金がある場合などの例外を除いて、すべての人にその門戸が開かれていた。女性の出家者も認められていた。しかし、仏教が誰にでも容易に理解できるものではなかった。仏陀が悟りを開いたとき、その内容の余りの難解さのゆえに、説法を断念しようとしたくらいである意。もちろん、シャーリープッタのような優れた弟子もいた。シャーリープッタは、仏陀の他の弟子から、仏陀が縁起を説いているという一言を聞いてすべてを理解し、「知恵第一」といわれたと伝えられている。

 仏陀は、相手と時と場合に応じて説法し、相手が自ら気付くのを待つ、という方法がとられた。待機説法といわれる。その伝統は仏陀の死後も弟子たちによって継承されたに違いない。しかし、このような方法で、仏教がインド全体に広がってゆくことはできなかった。

 仏教の普及の最初の転機は、マウリア朝の成立時にある。マウリヤ朝(紀元前317年頃 − 紀元前180年頃)は、古代インドで栄えたマガダ国に興った王朝である。紀元前317年頃、チャンドラグプタによって建国された。チャンドラグプタはシュードラ出身と伝えられている。彼にとってヒンズー教は足枷のようなものでしかなかった。彼が自らの権威付けのために仏教に近づいた可能性は十分にある。第二の転機は、同じくマウリア朝の第三代の王、アショカ王である。

 アショカ王は、インド半島のほぼすべて、西は現在のアフガニスタンにまで及ぶ大帝国を築いた。しかし、カロリンガ地方の平定にあたって多大の死者を出したことを深く後悔し、仏教に帰依したといわれる。彼の贖罪意識が、仏教の「業」の思想と結びついたのであろう。また、マウリア朝の版図は、広くいくつもの地域を含み、そこには異なる民族、異なる宗教の人々が住んでいた。ギリシアの文化や人々もそこにはいたのである。

 民族と地域を超えた世界宗教が、統治のために求められた。民族儀式とは無縁だった仏教は世界宗教に相応しいものであった。しかし、反面、仏教も変質し、この段階で普遍性を獲得したのではないだろうか。アレクサンドロス大王のインド進入によるヘレニズム文化との接触が、マウリア朝の成立以前に生じていたことなどがこの変質の準備となったと考えられる。


 前四世紀の初め、インドには、最初の統一国家であるマウリヤ王朝が出現(前317年)する。当時、ガンジス河中流から下流の地域に、最大の勢力を擁したマガダから興ったチャンドラグプタは、アレクサンドロスの軍の侵入後10年ほどのちに、同地を支配していたナンダ王朝を倒し、その勢いを駆って近隣諸国を併合し、さらに西北インドに根をはっていたギリシア軍を、また続いて侵入してきたシリア軍を撃退し、駆逐して、ほぼインド全域にまたがる大帝国を建設した。これをマウリヤ王朝と称する。

 アショーカ王の晩年のころから、マウリヤ王朝には衰退の兆しが見えはじめ、その政治勢力が没落して混迷が続くうちに、紀元前180年ごろには、新しいシュンガ王朝がマウリヤ王朝にとって替わる。だが、この王朝も勢力は弱く、以後の200年あまりのあいだ、諸王朝の交替はまことにめまぐるしく、インドは再び細分裂して、各地にさまざまな政治権力がうたかたの専横を振い、一時の専断を誇った。

 それらの政治権力の大部分は、とくに北インド一帯においては、実はインド人ではなくて、あるいはシリア人であり、あるいはギリシア人の末裔であり、あるいは、中央アジアの諸民族、たとえばスキタイ人の一種のサカ族ほかであり、それらの横暴のあとに、結局は、中央アジアの部族で、中国では大月氏と呼ばれたクシャーナ族によって、戦乱の終結を見る。とりわけ、その部族の長のカニシカ王(ほぼ132−152在位、別説78−103)は、中央アジアからイラン アフガニスタン、さらに北方インド全体を統一する大帝国を建設した。これをクシャーナ帝国(貴霜王朝)と称し、この帝国は三世紀半ばごろまで継続する。

 この統一までの問の絶えることのない、しかもきわめて血なまぐさい戦いにおいて、さまざまの内乱や反逆もさることながら、とくに外来民族の侵略と征圧とは、悪逆無道の暴戻や蛮行を伴なうことが多く、それを受けた地域は、しばしば甚大な被害を被り、その悲惨はまことに痛ましい。

・・・・・・

  ただし、これらの戦乱や暴虐は、北インドに限られていて、南インドには達せず、デカン高原以南には、アンドラ王朝がかなり長期間にわたり安泰であり、北インドを征服したクシャーナ王朝に対しても平安な均衡を保っていた。

  さらに、特記すべき一項がある。外来民族のうち、ギリシア人の中には、仏教に深い関心を寄せ、ときには帰依するものも出る。とくによく知られているのは、ギリシア人の王メナンドロス(インド名はミリンダ)であり、彼は紀元前一四○年ごろ北インドを統括しているあいだに 仏教僧ナーガセーナと対論して、仏教信者になったといわれ、この問答の一部始終をパーリ文『ミリンダ王の問』が今日に伝える。

引用・参照
・中村 元 三枝充よし 『バウッダ・仏教』 小学館 p170

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