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朝日と桜


 根尾谷の薄墨桜は、我が家からは北へ約40kmのところにある。植わっている場所は、根尾川の西の小高い山の中腹である。中腹は平らになっており、かつては水田があったが、今は公園として整備されている。

 薄墨桜が咲く一週間ほどの間は休日には薄墨桜までの道路は大渋滞になる。4〜5時間かかることもある。それで早朝ならば、ということで暗いうちに出かけたら、道路はスクスキ、駐車場もガラガラで一時間ほどで着いてしまった。まだ、6時前で空は明るくなっているが、桜の老木はまだ暗く眠っているようである。

 川を隔てた東側にも小高い山があって、朝日はその山にさえぎられてなかなか差してはこない。やがて、峰越しに朝日が射し始め、桜の後ろの山の峰が明るくなる。それが次第に下に広がってくる。桜にはまだ刺さない。依然として眠たげである。ようやく桜にも陽が届く。東の山は高く、朝日が差し込んでくるときには朝日は高い位置にまで昇っている。

 朝日は単純に老木を照らし出さない。まず、背後が明るくなる。老木の下のほうはまだ暗い。逆光のようになっている。次の瞬間、朝日は老木の全身を照らし、公園全体も瞬く間にあかるくなる。この瞬間、老木は身震いをするように輝く。そのとき、思い浮かべるのが下記の歌である。

 敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

 この経験をしたのが十数年前である。そのときはフィルムカメラで写したのだがその感動が写っていない。それ以来チャンスを待っていた。今年は黄砂が多くあきらめかけていたが、黄砂がやんだ。しかも、高気圧が張り出して、天気は安定。いつものように早起きをすると満月が煌々と輝いている。チャンス到来で合う。

 早速準備をして出かけた。問題はあの感動をどう撮るかである。結局デジカメのインターバル撮影機能を利用した。1分ごとに自動で撮ってくれる。三脚に設置して、場所さえ選べば後はカメラがやってくれる。今回は大成功である。朝日に次第に照らし出されていって最後に輝く桜は何度見ても感動する。

腐葉土で耕す


 桜の木の下は五坪ほどの独立した庭になっている。砂利が多く混ざり、耕すことができるような土質ではない。そこで以前にも書いたように、庭の剪定枝をガーデンシュレッダーでチップにして撒くようにしている。今回も桜の木の細い部分は、チップにして根元に撒いた。

 腐葉土や剪定チップによるマルチははじめて数年になる。根元近くの土には次第に変化が出てきた。ふんわりとやわらかく、しかも弾力が感じられるようになってきた。しかし、家の軒下に近い部分は歩くことが多く、しっかりと踏み固められていた。

 そこにも腐葉土を撒いたのである。「耕さずして耕す作戦」である。当初はまったく効果がみられなかった。しかし、昨日スコップを入れてみて驚いた。すぽっとはいるのである。あんなに硬かった地面にもスコップが入るのである。しかも、ミミズまでいた。「耕さずして耕す作戦」は大成功である。

 今年は、根尾谷の薄墨桜を満開のときにみることができた。根尾谷の薄墨桜は、我が家の桜の親である。親のほうも例年に比べ少しばかり咲きかたが寂しかった。昨夏の猛暑と暖冬、気候の変化が影響しているのかもしれない。


 桜の木の枝は切ってはいけないといわれている。切り口が腐りやすく、やがて木全体を弱らせてしまうことになるからというのがその理由である。それに比べて梅はヤニが多いため切り口が腐らず、また新しい枝が出てくる力も強いか、切ってもよい、というのである。

 我が家の玄関先に植えた薄墨桜は今や10mの高さになろうとしている。枝を放置できない状態になっている。剪定を試みることにした。今年は花の着きがわるく、寂しい咲き方であった。暖冬のせいで、昨年より二週間もはやい3月6日に開花をしたが、満開になっても寂しい咲き方であった。この一年は、薬剤散布はもちろん、肥料や腐葉土を施してきたのだが、樹勢が感じられない。

 そこで考えたのが、下の競合する菊や南天、柘植などをできるだけ整理すること、そして剪定である。実は数年前に、低く垂れ下がってきた、太い枝を切り落としたことがある。そのときは「やむを得ず」という気持ちであったが、切り口には墨汁を塗ることとした。墨汁の利用は私の思い付きであった。墨には制菌作用があり、混入されている膠や樹脂成分が皮膜を作ってくれる。最近は成分についても詳しく説明されており、腐敗防止のたえの殺菌材まで含まれていることがわかった。

 その切り口は、腐ることなく皮に覆われてしまったところもある。今回インターネットで調べてみたところ、切り口の防腐対策さえ施せば、剪定には何の問題もないことがわかった。ただ、切り方に「コツ」がいるようである。枝を根元ぎりぎりに切ることが重要だという。残すとそこが枯れ、腐敗し始めるのだという。これは前回の経験で納得できるところである。

 左右に広がる枝を何本か切った。枝といえども太くなっているので、のこぎりでは埒があかない。エンジンチェーンソーを使う。はしごをしっかりと固定し、腰を入れて扱わないと危険である。切った枝は暖炉を持っている知人に引き取ってもらうことができた。

 桜はすっきりとした姿になった。農薬の散布も先端まで十分に届くことだろう。来年が楽しみである。


 仏教の受容のもたらすものは想像以上に大きい。仏教の受容は漢字と仏像をもたらすことを意味する。それまでは、言霊思想が支配的であった。仏教の受容は、言葉を漢字という文字で表し、神を像であらわすことを受け入れることを意味する。当時の日本人にとっては大きな衝撃であったことは想像できる。

 物部氏が、「まさに今改めて蕃神を拝みたまはば、恐らくは国神の怒りを致したまはむ」(欽明紀)、とか、「何ぞ国神に背きて他神を敬びむ」(用明紀)と述べ、頑強に抵抗したことが日本書紀に記されている。物部氏の抵抗の頑強さは、仏教が日本の文化の根底に関わることを知っていたゆえともいえる。

 仏教の受容を可能にしたのは、改革の主体が聖徳太子と蘇我氏という強力な権力を持っていたからである。太子を「普遍的帝王」ということがある。世界史上の最初の普遍的帝王はインドのマウリア朝のアショカ王である。

 二人には共通項がある。外圧の存在と国内統一である。マウリア朝の成立は、アレクサンダー大王の遠征がそのきっかけになっている。アレキサンダーがインダス川を渡ったのは前326年、マウリア朝が成立したのは前317年である。外敵の侵入によって、インドは初めて一つの国になった。インドは今日でも多様な人種、民族、言語、宗教によって構成されている。当時はより多様な要素をもっていた。アショカ王はその多様なインドをまとめるために仏教を国教とした。

 アショカ王は、文字も取り入れた。アショカ王碑文が残されているように、詔勅や施政の方針を領土の全体に碑文というかたちで示した。仏教の経典の成立(書写の始まり)もこのアショカ王の文字の採用が大きく影響していると考える。神聖な教義を文字で表すことはインドでもタブーであった。しかし、タブーは、アショカ王によって破られたのである。

 聖徳太子の仏教と漢字の受容も同じことである。聖徳太子の摂政就任の直前に、大陸では隋が成立している。長い間、分裂していた中国を隋が統一に成功したのである。この外圧のもとの国づくりというのが太子に課せられた仕事であった。太子は、当時東アジアの普遍的文化となっていた仏教を受容するとともに、中国の柵封体制にはいることなく独立を保つという離れ業で乗り切ったのである。

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