過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]


 太和九年(四八五)頃、長楽王秦州刺史の穆亮(ぼくりょう)が敦煌の鎮将に任ぜられた。穆亮は「政治を寛簡にし、窮乏を賑じゅつ」したので、敦煌はようやく安寧の機を得た。しかし当時、柔然の力はなお大きく、敦煌周辺は不安定で、たとえば敦煌の人・宋雲と恵生が仏教発祥の地である天竺に赴いたとき(五一八〜五一一二)、わざわざ現在の青海省を経由していることからみても、六世紀の初頭に至っても敦煌と西域の交通は必ずしも順調とはいえなかった。

 正光五年(五二四)、敦煌鎮は瓜州と改められたが、内地では北魏自身をゆるがす六鎮の乱が起こり、河西地区にも影響をおよぼした。涼州は宇文氏が割拠し、瓜州、晋昌一帯でも小規模な反乱が起こり、刺史・太守が殺され、州城が占拠されることもあった。

 この頃(孝昌元年[五二五]以前)に至って、明元帝の四代目の後裔にあたる元栄が瓜州刺史に任ぜられている。さらに永安二年(五二九)には、元栄は東陽王に封ぜられ、莫高窟に窟がんを造営し、多くの経典を写した。

 五二五年、字文泰が政権を握り、北魏孝武帝を殺して元宝くを立てて文帝(在位五三五〜五五一)となし、長安に都して大魏を称した。これが「西魏」である。敦煌は西魏に帰すが、元栄は瓜州刺史にとどまっている。北魏末から西魏にかけて、敦煌にゆったりした衣服「褒衣博帯」(ほういはくたい)の、細面のすらりとした秀一麓な容姿である「秀骨清像」と称される中原様式が盛行するのは、宗室出身の元栄が都洛陽からもたらしたものといえる。

  字文護になって西魏の恭帝を廃し、字文覚を帝に立てて、はじめて宇文氏が名実ともに政権を握る。いわゆる「北周」である。五五七年のことであった。

 保定三年(五六三)、敦煌は改められて鳴沙県となった。天和六年(五七一)頃になって燕国公子うしょくが涼州大総管となり、弟干義は瓜州刺史・建平郡公に任ぜられ莫高窟に窟を造営している。しかし、建徳三年(五七四)には武帝(在位型五六一〜五七〇)の廃仏が起こり、瓜州の阿育王寺、沙州の大乗寺が廃されたので 莫高窟の造営も頓挫を余儀なくされたことだろう。
 
 北周の武帝が卒し、大成元年(五七九)に宣武帝が即位すると仏教が復興し、敦煌でも豪族による造営が行われた。

参照・引用資料
・東山健吾『敦煌三大石窟』講談社選書メチエ


 太延五年(四三九)、北魏は張掖(ちょうえき)を攻めて北涼を滅ぼし、ようやく中国北部の統一を果たした。しかし、沮渠氏の一族で酒泉太守だった沮渠無諱(そきょむい)が北涼の建て直しをはかって酒泉・敦煌一帯に撤退したため、四四二年に彼が北涼の残党を率い高昌(現在の新彊ウイグル自治区トゥルファン)に逃れるまで敦煌は沮渠氏一族の支配下にあった。

 沮渠氏の一族が敦煌を離れると、かつて沮渠氏に滅ぼされ、伊吾(現在の哈密地区)に逃れていた西涼の李こうの孫・李宝は、ただちに敦煌に帰り、弟の李懐達を当時の北魏の都・平城(今の大同)に遣わし、北魏に帰順した。そこで北魏の太武帝(在位四二四〜四五二)は、李宝を沙州牧・敦煌公に任命している。

 太平真君五年(四四四)に至って、李宝は西涼の再建をあきらめ周囲の反対をふり切って北魏に帰順したので、敦煌はようやく北魏の直接の支配下に置かれた。ところが、二年後の太平真君七年(四四六)、太武帝は司徒崔浩の言によって排仏令を出したので 敦煌では、北魏の文成帝(在位四五二〜四六五)が承平元年(四五二)に仏教を復興するまで石窟の造営は途絶えた。その後、西魏の大統元年(五三五)まで、北魏の敦煌支配は九十四年間におよんだ。この間、敦煌では北魏期に少なくとも十二窟が造営されたが、その大部分は孝文帝(在位四七一〜四九九)以降の造営である。

 北魏は北涼の旧地をその手に収めると、涼州と敦煌に鎮(県の下に位置する行政単位)を設置し、敦煌鎮は晋昌しゅ(陣営)、楽かんしゅ、酒泉軍、張掖軍を管轄した。そして四四五年には西域に派兵し、ぜん善、焉耆(えんき)、亀茲を平定して西域諸国を直接支配下に置く。ここに敦煌は、西域経営の大本営となったのである。

 この頃の状況について『洛陽伽藍記』には「葱嶺以西より、大秦に至るまで、百国千城、赴かざるはなく、胡商販客、日々に塞下を奔る」とあり、敦煌の盛況を目のあたりにするようであった。

 ただ西域北道は、高昌の東側が柔然の勢力下にあった。しかも四五○年頃から四七○年にかけて、柔然は北魏の間隙をぬって勢力をのばした。そのため西域における北魏の勢力は後退し、河西地区、とりわけ敦煌は柔然と吐谷渾(とよくこん)の間にはさまれ、しばしば異民族に侵入され、まことに不安定な状況におかれた。

 延興二年(四七二)、柔然は敦煌を襲い、鎮将尉多侯を破った。延興五年(四七五)に柔然はまたも
来襲したが、尉多侯によって反撃され大破した。そこで孝文帝の延興四年(四七四)に、朝廷では敦煌を放棄しようとの論議が起こったほどであった。『魏書』韓秀伝に「尚書は、敦煌一鎮は遠く西北にあり、賊寇ずるところ路は衝かれ、固からずを慮んばかり、涼州に移したいと奏上した。・・・韓秀は独り非をとなえ……」とのべている。ただし四八○〜四九○年代にかけて高車(トルコ系丁零の後身)が興り、北魏はそれに呼応して柔然を撃破したので、敦煌はようやく安定したのである。

 このような背景のもと、敦煌の石窟造営は影響を受けないはずはなく、北魏初期の石窟が少ないのは、そのためと思われる。

参照・引用資料
・東山健吾『敦煌三大石窟』講談社選書メチエ

41-26 北朝期の敦煌


 敦煌を含む河西地方では、漢の武帝によって「河西四郡」が置かれて以来、漢族が確固たる経済的基盤のうえに支配権を打ち立てていた。とくに敦煌は西域との交易を通じて繁栄していたことは、よく知られている。そのため四、五世紀にかけて五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)とよばれる遊牧民族が相ついで華北に侵入しても、当初は中原よりも比較的に安定していた。

 しかし、やがて三七六年、漢族の前涼は氐族の建てた「前奏」によって滅ぼされた。その後、涼州で前奏の武将であった呂光(りょこう)が西域の亀茲(きじ)への遠征の帰途、姑滅(こぞう)にとどまって独立し、今の武威(ぶい)を拠点にして涼州地方に「後涼」を建国した。

 涼州仏教の形成に重要な役割を果たした鳩摩羅什は、このとき呂光が亀茲国から連れ帰ったものである。今の敦煌市の西郊にあたる沙州故城には白馬塔が立っているが、これは伝説によると亀弦国から羅什三蔵を乗せてきた白馬が敦煌まで来て病死したのを埋葬した地に建てたものといわれる。もっとも現存する塔は、清の道光二十五年(一八四五)に重修されたラマ塔である。

 やがて後涼は内部分裂によって衰え、四○一年には匂奴の沮渠氏が「北涼」を建国した。「後涼」の地姑滅にとらわれの身となっていた鳩摩羅什は、この年の暮に長安入りし、後秦の姚興(ようこう)に迎えられて本格的な仏典漢訳に乗り出していく。

 一方、敦煌では、漢の将軍李広の後裔といわれる李こう(三五七〜四一七)が四○○年に独立し、初めて敦煌都とする王国を樹立した。これが「西涼」である。その建国まもない四○一年に法顕ら求法僧の一行は、敦煌に一ヵ月余り滞在し、西域への出発に際しては李こうから物資の供給を受けている。もっとも西涼は四○五年、早くも都を敦煌の東方四百キロ余りの酒泉にうつしている。このとき戦乱を避けて流れて来た漢人のために、会稽・広夏の一郡を開設した。

 その後、西涼第二代の李欽(在位四一七〜四二○)は、沮渠氏の挑発にのって北涼を攻撃したが敗死、その一族は敦煌と晋昌に拠って抵抗を試みた。だが、四二一年に敦煌城は水攻めにあい、結局、漢人政権の西涼は滅亡した。このような事例からしても、敦煌の地における漢人豪族の勢力が、いかに根強く存在していたかを知ることができよう。五胡十六国の混乱期においても、敦煌は比較的に漢人の支配を保つことができた。したがって、その政治制度、伝統文化は中原とのつながりが強く、莫高窟の初期仏教美術を考えるうえでも、この特質を軽視することはできない。

参照・引用資料
・東山健吾『敦煌三大石窟』講談社選書メチエ


 現在、敦煌莫高窟にある石窟は各時代の窟の構造、塑像・壁画の様式、および主題内容により、敦煌研究院のスタッフによって一定の編年がなされている。幸い一部の窟には製作年代を示す供養者銘があり、また、窟の造営年代や供養者の名を記す碑文や文書などがあって編年の手がかりを与えてくれる。ここでは、大きく初期・中期・後期の三期に分け、それぞれの時期の特徴を示す代表的な作品を選んで時代順に紹介しよう。

 ここで敦煌初期(四二一〜五八一)の石窟というのは、北涼から北魏・西魏・北周の各時代にわたる北朝期に編年されているものである。この時期の敦煌は、主として、匈奴、鮮卑などの北方民族が支配した時代であるが、石窟の造営には北魏・北周の貴族のほか、主として漢民族の篤信者があたっている。

 続いて敦煌中期(五八一〜九○七)は、階・唐の時代の統一王朝期にあたる。もっとも敦煌では、中唐期に一時、吐蕃(チベット族)の支配を受け、さらに晩唐期には帰義軍節度使によって、かろうじて漢民族の支配が保たれた。とはいえ、この中期が敦煌石窟の最も盛んな時代であったことは、いうまでもない。

 次に敦煌後期(九○七〜一一二六八)は、五代・宋・西夏・元と続く。なお、宋代の曹氏政権の末年、沙州回鵠(さしゅうかいこつ)が数年にわたり敦煌を支配している。この時期、宋初までは瓜・沙両州の支配者、曹氏が画院を設置し、また大規模な窟を造営して敦煌石窟の維持が保たれた。だが、やがて西方からイスラムの勢力が浸透し、南方での海上交通の発展などもあって、十世紀頃まで栄えたシルクロードのオアシス・ルートが衰微したのにともない、敦煙もまた残照の時期を迎える。

参照・引用資料
・東山健吾『敦煌三大石窟』講談社選書メチエ

全1ページ

[1]


.
uma*a*o0409
uma*a*o0409
男性 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

過去の記事一覧

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事