--31 大乗仏教の興起

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31-39 普遍的帝王とは


 仏教の歴史にとって普遍的帝王の登場は大きな意味を持っている。普遍的帝王は仏教を国教的な位置につけ、仏教の発展と普及に貢献した。普遍的帝王とは何か。また、なぜ普遍的帝王は仏教を重視したのか。最初の普遍的帝王とされるのは、マウリア朝のアショーカ王である。中村元によれば、後の時代のビルマ(ミャンマー)のアナウラーター王(1010年即位)、カンボジアではジャヤヴァルマン七世(1181〜1215年)が同じ類型に属するという。

 普遍的帝王とは何か。
 
1.部族国家の枠をはるかに超えた一世界ともいうべき広大な地域をはじめて支配化においた帝国の建設
2.部族の違いを超えた遍的価値の獲得
3.普遍的価値の明示的表現
4.普遍的価値に人民の福祉を内容とする
5.他の宗教や文化に寛容である
6.仏教などの普遍的宗教を国家的宗教として採用する
7.外国との交易を重視、国内的にも商業の自由化に努める
8.コスモポリタン的雰囲気

 では、仏教の普遍性はどこに求められるか
 実は、まだ、よくわからないのである。

1.部族宗教は固有の生活様式や文化と結びついた儀式がある。
2.仏教は、新興の勢力(交易商人、武人) などに支持されたように固有の儀式tからは自由であった。
3.仏教教団はカースト制にとらわれなかった
4.経典の書写も特徴である。
5.

以下は引用である
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 ここで普遍的国家というのは、民族の差違、時代の差違を超えて実現されるべき普遍的理法の存在することを確信していた帝王の建設した国家をいう。それは世界のいろいろな文化圏において歴史上の一定の時期に成立したものである。すなわち、古代において、一つの文化圏におけるもろもろの部族の政治的軍事的対立の状態が打ち破られて、その文化圏の政治的統一が確立された場合に、その文化圏における普遍的国家というものが成立した。そうして、それらの文化圏においては、次のことがらが起こった。

1.その文化圏全体を支配統治する一つの強大な国王(または統治者)が出現し、かれの属する王朝の基礎が確立する。
2.精神的な面においては、諸部族対立の時代には見られない新しい指導理念が必要とされる。
3.その指導理念を、あるいはその指導理念の精神的な基調を、なんらかの普遍的な世界宗教が提供する。
4.その指導理念は、確定された文章表現(たとえば詔勅のかたちで、公(おおやけ)に一般の人びとに向
かって表現される。

 こういう思想的現象は、古代諸国において一定の時期に起こったことが認められる。東洋ではまず古くインドで、アショーカ王(紀元前三世紀)が現われてその範型を示している。つづいて、日本では聖徳太子、チベットではソンツェンガンポ王(617〜651)によってそれぞれの国家ならびに文化の基礎が固められた。南アジアではさらに遅れて現われ、ビルマではアナウラーター王(1010年即位)、カンボージァではジャヤヴァルマン七世(1181〜1215)が同じ類型に属する(シャムにはこういう類型の帝王が見当たらない。シャムの仏教はカンボージァを経て422年にシャムに入って来たが、ひとりでに入って来たので、とくに特別の帝王の力を借りたのではないらしい)。

 ・・・・・・

 シナでは梁の武帝や、あるいはむしろ隋の文帝(在位581〜604年)がそれに当たるのではなかろうか、と考えられる。とくに隋の文帝は排仏と戦乱のあとをうけて、シナ全体を統一しシナ仏教全盛時代の端緒を開いたのであるから、やはり右の諸王と対比することができるであろう。隋の文帝はみずから「転輪聖王(てんりんじょうおう)」と称していた。

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 聖徳太子は、諸部族対立の時代を乗り越え、仏教という新しい指導理念を用いて、日本国を支配統治し、王朝の基礎を確立した。そしてその指導理念を憲法十七条という確定した文章表現で一般の人びとに向かって表現した。

引用・参照
・中村元 『日本の名著2 聖徳太子』中央公論社 1970 P36


 ブッダが歴史上に実在したゴータマ・ブッダであることを、暗黙の了解として共有している現在の学界で問題になるのは、大乗経典に説かれるブッダです。初期経典に現れたブッダと大乗経典に現れたブッダでは、確かに相違があります。また、阿弥陀仏や大日如来など、およそ釈迦仏とは異なったブッダが大乗経典には幅広く説かれておりますが、いったいこれらの仏とゴータマとの関係はどうなっているのでしょうか。

 原始・初期仏教の歴史的研究を主要テーマとしていた西洋から、明治期に近代的な仏教研究が取り入れられたとき、彼らからまず指摘されたのもこうした問題でした。大乗経典は歴史的なブッダが説いたものではない。そこに現れた仏は、ゴータマと関係のない、後代に捏造された仏だというものです。大乗非仏説論の名前で知られるこの議論は、わが国の仏教界を驚嘆させてしまいました。

 それ以後わが国の学界では、大乗非仏説論に対する弁明が重要な研究テーマの一つとなります。その研究の中から、出家部派の一つにルーツを求める「大衆部起源説」、そして在家者の集団をルーツとして想定する「在家・仏塔起源説」の二つの異なる学説が誕生しました。確かにこの両者の解釈は、まったく異なった視点から仏教史を描き出そうとしたものですが、しかしこの何れの学説も、大乗仏教の「起源」が仏教の歴史的起源であるゴータマまで遡り得ることを根拠としている点で共通します。つまり、仏教の起源に一人の人間を想定しないと歴史的正統性が得られない、という理解に立っているのです。

 そうしますと、ブッダとは何かという問いを考えた場合、詰まるところ、大乗の正統性を立証した研究の流れにおいても、大乗のブッダはゴータマとは異なった、その意味で二次的なものと理解されていることは、変わりがないことになります。

 現在、少数の例外を除けばインド仏教の研究者たちは、歴史的実在のゴータマと大乗のブッダとの関連性は問わないまま、つまりはブッダとは何かという統一したテーマを小乗、大乗に対して立てることなく、それぞれの領域に閉ざして研究を進めているように私には思えます。

引用・参照
http://www21.ocn.ne.jp/~kobataka/literature/shimoda/sairoku.html
 下田正弘「仏(ブッダ)とは何か」     
 (『駒澤短期大学仏教論集 5号』[駒澤短期大学仏教科/1999.10所収])

 
 そのむかし、仏教学の大家である村上専精が「大乗非仏説」を唱えたとき、既存の宗派はそれを非とし、結果として村上は、一時,僧籍を離脱することになりました。事実を重んじる科学が、既存の宗教と対立したわけです。しかし今ではどうでしょう。大乗が非仏説であること、つまり,日本に数多くある仏教各派の所依の聖典、大乗経典が「仏陀の(直接の)教えではない」ことは、もはや科学的な「事実」として受け入れています。それを既存仏教への攻撃・非難と見て、反論する僧侶は見当たりません。たとえ仏陀が直接に説いたものでなかろうと、その精神が生きていれば一向に構わないというのが大方の意見でしょう.

 さらに、最新の仏教研究は、仏教学の大家、平川彰の「仏塔信仰起源説」のイメージを乗り越えようとしています。「在家者の仏塔信仰を起源とする大乗仏教」という、一昔前の仏教学の教科書の知識が塗り替えられようとしているのです。われわれの大乗仏教のイメージも、いずれ変化せざるをえなくなるでしょう。

参照・引用
・九州インド哲学Blog http://blogs.dion.ne.jp/sanskrit/archives/4744258.html

31-36 仏教の普遍性


 仏教は、キリスト教イスラム教とともに世界宗教といわれる。世界宗教とは、地域や民族の差異を超えて世界的規模で信仰されている宗教を指す。本来、一つの民族(あるいは部族)によって信仰される民族宗教が宗教の始まりである。その段階での宗教は、他の民族には理解しきれない独自な思想や儀式を有していることが多い。日本における神道、ユダヤにおけるユダヤ教、インド世界におけるヒンズー教などが民族宗教に該当する。

 仏教は、どうして世界宗教たりえたのか。いまだに解くことができない難問である。難問ではあるが、おそらく前述したインドの歴史にその解答のヒントがあるように思われる。

 仏陀が生まれた時代のインドには、ヒンズー教が支配的であった。ヒンズー教はこの頃はこの頃はバラモン教といわれていた。四世紀頃、ヴェーダの宗教であるバラモン教と民間宗教が融合することによりヒンズー教が成立した。ここでは、バラモン教も含めてヒンズー教ということにする。

 ヒンズー教は、儀式が大きな意味を持ち、また、カースト制度と不可分であった。仏陀は、「悟り」には身分も儀式も必要でない、禅定を通じて縁起の知恵を体得することが悟りにいたる方法である、といった。そのように私は理解している。

 仏教は、借金がある場合などの例外を除いて、すべての人にその門戸が開かれていた。女性の出家者も認められていた。しかし、仏教が誰にでも容易に理解できるものではなかった。仏陀が悟りを開いたとき、その内容の余りの難解さのゆえに、説法を断念しようとしたくらいである意。もちろん、シャーリープッタのような優れた弟子もいた。シャーリープッタは、仏陀の他の弟子から、仏陀が縁起を説いているという一言を聞いてすべてを理解し、「知恵第一」といわれたと伝えられている。

 仏陀は、相手と時と場合に応じて説法し、相手が自ら気付くのを待つ、という方法がとられた。待機説法といわれる。その伝統は仏陀の死後も弟子たちによって継承されたに違いない。しかし、このような方法で、仏教がインド全体に広がってゆくことはできなかった。

 仏教の普及の最初の転機は、マウリア朝の成立時にある。マウリヤ朝(紀元前317年頃 − 紀元前180年頃)は、古代インドで栄えたマガダ国に興った王朝である。紀元前317年頃、チャンドラグプタによって建国された。チャンドラグプタはシュードラ出身と伝えられている。彼にとってヒンズー教は足枷のようなものでしかなかった。彼が自らの権威付けのために仏教に近づいた可能性は十分にある。第二の転機は、同じくマウリア朝の第三代の王、アショカ王である。

 アショカ王は、インド半島のほぼすべて、西は現在のアフガニスタンにまで及ぶ大帝国を築いた。しかし、カロリンガ地方の平定にあたって多大の死者を出したことを深く後悔し、仏教に帰依したといわれる。彼の贖罪意識が、仏教の「業」の思想と結びついたのであろう。また、マウリア朝の版図は、広くいくつもの地域を含み、そこには異なる民族、異なる宗教の人々が住んでいた。ギリシアの文化や人々もそこにはいたのである。

 民族と地域を超えた世界宗教が、統治のために求められた。民族儀式とは無縁だった仏教は世界宗教に相応しいものであった。しかし、反面、仏教も変質し、この段階で普遍性を獲得したのではないだろうか。アレクサンドロス大王のインド進入によるヘレニズム文化との接触が、マウリア朝の成立以前に生じていたことなどがこの変質の準備となったと考えられる。


 前四世紀の初め、インドには、最初の統一国家であるマウリヤ王朝が出現(前317年)する。当時、ガンジス河中流から下流の地域に、最大の勢力を擁したマガダから興ったチャンドラグプタは、アレクサンドロスの軍の侵入後10年ほどのちに、同地を支配していたナンダ王朝を倒し、その勢いを駆って近隣諸国を併合し、さらに西北インドに根をはっていたギリシア軍を、また続いて侵入してきたシリア軍を撃退し、駆逐して、ほぼインド全域にまたがる大帝国を建設した。これをマウリヤ王朝と称する。

 アショーカ王の晩年のころから、マウリヤ王朝には衰退の兆しが見えはじめ、その政治勢力が没落して混迷が続くうちに、紀元前180年ごろには、新しいシュンガ王朝がマウリヤ王朝にとって替わる。だが、この王朝も勢力は弱く、以後の200年あまりのあいだ、諸王朝の交替はまことにめまぐるしく、インドは再び細分裂して、各地にさまざまな政治権力がうたかたの専横を振い、一時の専断を誇った。

 それらの政治権力の大部分は、とくに北インド一帯においては、実はインド人ではなくて、あるいはシリア人であり、あるいはギリシア人の末裔であり、あるいは、中央アジアの諸民族、たとえばスキタイ人の一種のサカ族ほかであり、それらの横暴のあとに、結局は、中央アジアの部族で、中国では大月氏と呼ばれたクシャーナ族によって、戦乱の終結を見る。とりわけ、その部族の長のカニシカ王(ほぼ132−152在位、別説78−103)は、中央アジアからイラン アフガニスタン、さらに北方インド全体を統一する大帝国を建設した。これをクシャーナ帝国(貴霜王朝)と称し、この帝国は三世紀半ばごろまで継続する。

 この統一までの問の絶えることのない、しかもきわめて血なまぐさい戦いにおいて、さまざまの内乱や反逆もさることながら、とくに外来民族の侵略と征圧とは、悪逆無道の暴戻や蛮行を伴なうことが多く、それを受けた地域は、しばしば甚大な被害を被り、その悲惨はまことに痛ましい。

・・・・・・

  ただし、これらの戦乱や暴虐は、北インドに限られていて、南インドには達せず、デカン高原以南には、アンドラ王朝がかなり長期間にわたり安泰であり、北インドを征服したクシャーナ王朝に対しても平安な均衡を保っていた。

  さらに、特記すべき一項がある。外来民族のうち、ギリシア人の中には、仏教に深い関心を寄せ、ときには帰依するものも出る。とくによく知られているのは、ギリシア人の王メナンドロス(インド名はミリンダ)であり、彼は紀元前一四○年ごろ北インドを統括しているあいだに 仏教僧ナーガセーナと対論して、仏教信者になったといわれ、この問答の一部始終をパーリ文『ミリンダ王の問』が今日に伝える。

引用・参照
・中村 元 三枝充よし 『バウッダ・仏教』 小学館 p170


 釈尊入滅のあと、一応の安定を得ていたインド北西部は、その百年に満たないころ、はるか西方のギリシア軍の進入を受ける。マケドニアに発して、ギリシア全土を統一を果たしたアレクサンドロス大王は、疾風怒涛のごとく宿敵のペルシア軍を滅ぼし、さらに一路東進して、途中の国を次々に粉砕しつつ、その治下に治め、ついにはその軍はインダス河に進出し、かき集めのインド軍と対峙する。

 象軍などを揃えて、インド軍はいささか抵抗するものの、力及ばずに破れ、ギリシア軍は北インドに進入した。ときに、紀元前327年。しかし、その部下たちは、あまりに東進しすぎた遠征に疲労が重なり、それ以上の侵攻を強く拒んだことから、大王は翌年軍を返し、戦いを交わしながら母国に帰還の途上、バビロンで前323年に客死、まだ33歳の若さであった。

 この一大異変は、さまざまな結果と影響とを、インドその他の各地に及ぼした。三つだけを述べよう。
 第一に、アレクサンドロスの軍には、すぐれた武将たちのほかに、あまたの技術者やいわゆる知識人ほかが随伴した。そして征服し、占領し、平定した地を、多くの面からギリシア風に変えた。これが世に知られるへレニズム化であり、ギリシアからインドに至る広大な地の多くの場所に、当時、種々の分野で卓越していたへレニズム文化が流入し、浸透してゆく。

 とくに各地の要衝はギリシアの諸侯たちの治下に収められ、ヘレニズム文化が開花した。このような背景のもとに、ギリシア文化とインド文化、そして同時にその中間に位置したペルシアすなわちイラン文化という当時の三大文化の直接の接触が本格的に開始され、交流が起き、それがしだいに密度を増して、隆盛を迎える。

 なお、インドとイランとの交渉は、アレクサンドロスの遠征以前にもすでに見られ、この大王に滅ぼされたイランのアカイメネス王朝(前700ころ−前330)の支配は、ガンダーラからインダス河流域にまで及んでいたともいわれ、それを示すいくつかの遺跡が報告されている。
 
 第二は、それらが引き金となって、西アジア・中央アジアからインドの一部に広がるこのあたり一帯には、引き続いて、多くの動乱や反逆などを含む活発な諸活動があいついで勃発し、いわば政治や文化その他の活性化、もしくは混乱が生ずる。

 第三に、インドには、最初の統一国家であるマウリヤ王朝が出現(前317年)する。当時、ガンジス河中流から下流の地域に、最大の勢力を擁したマガダから興ったチャンドラグプタは、アレクサンドロスの軍の侵入後一○年ほどのちに、同地を支配していたナンダ王朝を倒し、その勢いを駆って近隣諸国を併合し、さらに西北インドに根をはっていたギリシア軍を、また続いて侵入してきたシリア軍を撃退し、駆逐して、ほぼインド全域にまたがる大帝国を建設した。これをマウリヤ王朝と称する。

 この王朝は、第三代のアショーカ王(前268−232在位)に至って全盛を迎え、インド全体の繁栄も促進される。同時に、アショーカ王の仏教帰依は、仏教そのものの発展と拡大とに大いに寄与した。おそらく、このアショーカ王即位よりやや以前に行なわれたと推定される「第二結集」と、それに基づいて、保守派の「上座部」と進歩的な「大衆部」との分裂の時期までを、初期仏教と名づけるならば、このアンョー力王は、こうしてようやく形を整えはじめた初期仏教に、篤い尊崇を捧げ、やがてはその帰依を宣言した。こうして、ほぼアショーカ王前後の時代を中心に、仏教はガンジス河中流域から北へ南へ、とくに西インドに広く流通し、ついにはインドの主要な地域のほぼ全体に普及した。

引用・参照
・中村 元 三枝充よし 『バウッダ・仏教』 小学館 p170

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