--21 飛鳥と斑鳩の地

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21-14 太子の後半生


 斑鳩の宮の建設、斑鳩への一族の移転は蘇我氏との権力争いに敗れたためではない。斑鳩の宮の建設が開始されたのは601年、完成し移転したのが605年。しかし、である。

 聖徳太子は、摂政になったとき(593年)から、退き時を図っていたのではないか。603年に冠位十二階を制定 、604年に憲法十七条を制定した。律令制度への先鞭をつける政策である。遣隋使(607年)の派遣は斑鳩移転の後である。

 内政、外交の重要政策はこれで終わりである。これらの政策の立案や実施は馬子が聖徳太子に求めたものであろう。中国大陸に強大な統一国家 隋が581年に成立し日本も外交はもちろん、内政にも大きな変化を迫られていた。この時代が江戸末期から明治にかけての大きな変革に似ていることから、聖徳太子の時代を第一の文明開化ということがある。馬子はこの第一の文明開化を乗り切るために聖徳太子の摂政就任を求めたのではないか。

 馬子が太子に求めた役割を終えたとき、太子は政治の中枢から去る決意をしていた。斑鳩の宮の建設に着手したときに、すでに引退の時期のくることを予期していた。しかし、太子は引退したが、その後の半生を仏教に捧げた。

 遣隋使を派遣した607年には法隆寺を建立する。続いて、611年には「勝鬘経義疏」、613年には「維摩経義疏」、615年には「法華義疏」と、『三経義疏』が完成する。また、620年には、「天皇記」や「国記」などを太子と馬子で撰している。

21-13 斑鳩移転と不比等


 法華寺は奈良の平城京跡の大極殿跡地の東方にある。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである。大和国の国分尼寺、日本の総国分尼寺と位置付けられるのは、2年後の天平19年(747年)頃からである。内裏は天皇が居住し、政務が行われるところで、平城京の北の中心にあった。不比等の屋敷は内裏に隣接していた。

 不比等の屋敷は隣の海龍王寺にまで及び、「八町」(約十三・五ヘクタール)の広さであった。平城京では天皇以外では、4町が最高の広さであったから、不比等の屋敷はその倍の広さとなる。丁度同時代の長屋王の屋敷跡も近年、発掘されたがその広さは四町であった。

 不比等の屋敷は、平城京への遷都に先立ってつくられていた。いつごろのことであったのか、また、どれくらいの規模であったのかはわからない。その当時は辺りは一面の田野であったことであろう。不比等の屋敷の北には平城山(ならやま)が広がる。山麓には今もため池がいくつかあり、水利にも恵まれていたであろう。

 当時の都は藤原京である。藤原京は飛鳥の北の大和三山に囲まれたところにある。藤原京から不比等の屋敷までは、直線距離にしても20kmは離れている。このような遠方の地に屋敷を作った理由はどこにあるのか。聖徳太子の斑鳩への移転と似ているところに注目したいところである。

 不比等の育ちの影響が考えられる。不比等は幼少の頃は、山科史(やましなのふひと)のところで育てられている。山科は平城山を西の方で越えてさらに北に行った所である。山科で育った不比等にとて、平城山の南は決して遠いところではない。また、藤原京は大和三山に囲まれて、不比等がその権勢にふさわしい大きな屋敷を構えるだけの余地がもうなかったことも考えられる。

 こうした理由も考えられるだろうが、20kmはいかにも遠すぎる。それにもかかわらずここを屋敷の地としたのは、不比等は地の利に気がついていたからである。北側に平城山の山地があり、東には笠置山系の山々、西には生駒山が縦走している。南には大和川がある。風水にぴったりの山である。

 不比等はその地の利に気がついて自分の屋敷をつくった。しかし、将来の遷都の候補地として考え始めたのはいつかは分らない。屋敷を移す前なのか、屋敷を移した後なのか、は分らない。20kmの距離を考えると、遷都の候補地にあらかじめ自分の屋敷を作ったと考えることもできる。

 天皇家と外戚関係を持ち、平城京への遷都を画策した藤原不比等の邸宅は、遷都計画時から平城宮の東隣に割り当てられていた。不比等の死後は法華寺となる。

 平城京遷都の詔勅に「方今、平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従。(方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮を作し、亀筮並に従ふ。)」とある。この「四禽図に叶ひ」とは四神相応のことであり、奈良時代には平城京が四神相応の地であると観念されていた。

 平城山を北にする四神相応の地は、不比等の屋敷としても、都としてもふさわしいところであった。聖徳太子の斑鳩への移転も、太子が斑鳩を四神相応の地と考えた可能性を指摘しておきたい。


■ 藤原不比等邸宅跡、古代の政略家 実像に光 <yomiuri.online>

 大宝律令編さん、平城遷都、日本書紀の完成――。いずれの事業にも深くかかわったとされる藤原不比等(659〜720年)。古代日本の国家体制が整えられる時期に、抜群の功績があったにもかかわらず、現存する史料は断片的で、その生涯には多くの謎が残る。
 二十七日、明らかになった奈良市の法華寺境内の不比等邸とみられる建物跡は今後、「等しく並ぶ者なし」との名を持つ大物政治家の知られざる実像に光をあてそうだ。

◇謎に満ちた生涯 専門家 「天皇との近さ示す」

 邸宅跡が見つかった奈良時代の有力者では、一九八八年の発掘で、名前を記した木簡が出土した悲劇の宰相、長屋王が知られる。最近の研究では、不比等邸の敷地は、法華寺に隣接する海龍王寺を含む「八町」(約十三・五ヘクタール)と推定。長屋王邸の二倍、孫の太政大臣、仲麻呂邸の一・五倍に相当し、突出した広大さを持つとされている。

 藤原不比等の邸宅跡とみられる柱穴が出土した法華寺(手前)。中央下が本堂。上は平城宮跡(本社ヘリから) 一方、不比等について具体的に描写している文献はなく、木簡などの出土もない。正史に登場するのは三十歳を超えてからで、それ以前はほとんどわからず、奈良時代後期に著された藤原氏の人物伝「藤氏家伝」も、上巻は鎌足伝、下巻は不比等の長男の武智麻呂伝で、「不比等伝」はない。だが、不比等の子孫は父の威光で権力を掌握した。

 不比等の娘の宮子は文武天皇の妻で、聖武天皇の母。さらに聖武天皇の妻、光明皇后も不比等の娘だった。息子四人も南家、北家、式家、京家の「藤原四家」を興して朝廷の要職を独占し、藤原氏の隆盛は平安時代まで続く。

 絶大な政治力をうかがわせる不比等は、その時代、なぜか、左大臣や太政大臣の要職に就くことを固辞。その下の右大臣にとどまり続けている。上田正昭・京都大名誉教授(古代史)は「影にいた方が、政治を進めやすかったのではないか。史料の少なさも、証拠を残さなかったからとも言える。政敵を意識した政治的な展望の確かさだ」と話す。

 不比等のフィクサーぶりを指摘するのは、千田稔・国際日本文化研究センター教授(歴史地理学)。「今回の成果から、不比等は天皇に最も近い場所にいたことがわかる。賢く、表に出ない政治家は、現代にもいる」という。さらに「詳細がわかっている長屋王邸との比較で、当時の権力者の暮らしぶりが解明できれば」と今後の調査に期待した。

 今回の発見について、法華寺の久我(こが)高照門跡は「信仰あつかった光明皇后様がお父上の財産を喜捨し、慈悲の心を持って衆生を救おうと寺をお建てになった由緒がわかり、ありがたいことです」と喜んだ。(2004年4月28日)


■ 不比等の経歴
659年 誕生
669年(11歳) 鎌足死去
688年(31歳) 直広肆(従五位下)判事
?      直広弐(従四位下)
694年(37歳) 平城遷都
697年(39歳) 娘宮子を入内
?       中納言
700年(42歳) 律令の撰定に着手
701年(43歳) 大宝律令なる
       中納言より正三位大納言に昇進
       外孫、首皇子(聖武天皇)誕生
704年(47歳) 従二位
708年(51歳) 正二位
       右大臣
710年(53歳) 平城京に遷都
720年(63歳) 死去
       贈正一位太政大臣 文忠公、淡海公を贈諡

21-12 高松塚と亀虎古墳


 高松塚古墳や亀虎古墳など終末期古墳がなぜ高取川(たかとりがわ)の上流の周辺に集まっているのか。これらの古墳は、いずれも小高い山や丘陵の南側の斜面に横穴式で築造されているという共通性をもつ。このことから、当時、朝鮮や中国から入ってきたと思われる風水の影響があるのではないか、と考えるようになった。飛鳥川沿いの狭い飛鳥とは異なり、高取川の周辺には丘陵が随所にあり、その南面を利用して墳墓を築造することが容易であった。


 上原和氏はすでにこのことに気付いておられた。以下に引用させていただく。

 もともとこの高取川をはさんだ丘陵地帯のすべてがともに明日香の墓域ではなかったか。それにこれらの丘陵地帯の八つ手の葉のように入り組んだ地勢は、もともと墓地の吉凶を占う陰陽師にとっては格好の墓域であったように思われる。亀虎古墳は東西に走る丘陵の南の斜面にあり、周りを取り囲むように東と西と北の三方が高くなり、南は大きくひらかれ、谷をへだてて高取の山並みに向き合っている。まさしく風水説にいう、風を蔵し水を得る”四禽図に叶い三山鎮を作す”の地勢を示している。

 ・・・古墳内に描かれた四神図とともに墓地の地もまたぐるりを四神によって守護されているのである。

 引用・参照
・上原 和 『仏法東流 飛鳥・白鳳への道』 学生社 1985年

22-16 飛鳥寺の柱礎

 
■ 飛烏寺の塔の埋納物

 蘇我馬子の建てた飛烏寺は、七世紀前半の代表的寺院で、当時の仏教文化をよく示している。発掘調査の結果によると、ほぼ束西200m、南北300mの寺域をもち、その西南に塔を中心として三金堂を置く大寺院であった。造営には百済の工人が当り、伽藍配置や瓦の文様などにも、当時の朝鮮の仏教文化の影響が著しい。

 593年(推古天皇元牛)、蘇我馬子は飛鳥寺の塔心礎(中心の礎石)に仏舎利を納め、塔の心柱を立てた。その時いっしょに埋められた宝物は、同時期の古墳に埋められた宝物とほとんど同じであるのが注目される。古墳が造られる一方で、豪族たちの間に仏教が広まりだしたころのようすが、よく現われている。


■ 石舞台と風水

 石舞台古墳の石室の開口部分は、南を向いていない。これはかなり特殊な例である。一般に、六世紀末以後のほとんどの古墳は、真南に石室の入り口をもっているのだ。石舞台古墳はおそらく、墓造りにあたって風水思想が入り込まなかった結果、このようになったのだろう。

 冬野川を挟んだ南岸上に都塚古墳があるが、この古墳も石舞台古墳とまったく同じ開口方向を持つ。また、墳丘も一辺28mほどの方墳と見られる。いわば、この二つの古墳は、一対になっているように見えるのだ。一般に、終末古墳は風水思想による墓作りがなされている。だが、石舞台古墳と都塚古墳の二基だけは、この風水思想による造墓とは考えにくい。風水を拒んだ被葬者の性格が反映しているのかも知れない。

 近年の研究成果からは、築造年代は七世紀初め頃とされる。また、周辺の調査の結果から飛鳥時代の遣構の検出もあり、むしろ被葬者は馬子である可能性が増しつつある。しかし、古墳の編年研究上、石舞台古墳の年代がもう少し下降する可能性もある。そうなると墳丘の形と石室の開口方向が同じである都塚古墳と対になり、大・小ということから双墓で大陵・小陵という可能性が出てくる。つまり、『日本書紀』巻一面に記された、蘇我蝦夷と入鹿の墓ということになるのだ。この比定も可能性の一つとして考えておかねばならない。

引用・参照
・河上邦彦 『飛鳥を掘る』講談社新書メチエ p58

21-11 斑鳩の選定

 
 法隆寺の発掘で、さまざまなことがわかってきた。現在の法隆寺は再建されたものであること、再建前の法隆寺(以下、斑鳩寺という)は四天王寺様式で、金銅、講堂、五重塔が直列に配置されていたことなどである。五重の塔の心礎となった礎石は現在の若草伽藍の中にある大きな石である。斑鳩寺の伽藍は北にある松尾山を背にして南北に直線的に配列されていた。磁北からは西へ11度40分ずれていることもわかった。

 今日ではほとんどの寺社は南向きに造られている。従って、法隆寺が南向きであることを不思議に思う人は少ないだろう。しかし、飛鳥時代に建築された建物で南向きはむしろ珍しかったのである。例えば、橘寺がある。橘寺は聖徳太子が幼少のときにすごしたといわれる寺で、歴史は古い。この寺は山の北側で、西を背にしている。

 ところが、法隆寺とほぼ同時代に建立された、飛鳥寺(法興寺)は南向きである。太子の死後建立されたという、斑鳩の法起寺、法輪寺も南向きである。推古朝になって、仏教が公認され、仏教文化がさまざまな技術や思想とともに導入された。この時期に、東西から南北への基軸の変化があったのではないか。

 太子はなぜ斑鳩の地を選んだのか。広さ、水利、水害の危険性を考えると、大きな宮に適する土地は、飛鳥周辺ではもう斑鳩しかなかった。また、引退後の半生を送る地であることを考えていたと思われるから、飛鳥からの適度の距離、飛鳥から見えるところ、といった点も考慮されただろう。さらに、斑鳩は松雄山の南麓に位置する。松尾山は矢田丘陵の最も南にある大きな山で、南麓は広くしかも八つ手のようになだらかに広がっている。

 風水からみてぴったりの土地柄なのである。風水は仏教とほぼ同時代に入ってきており、聖徳太子の時代には定着し始めた。終末期古墳の横穴式の構造、丘陵の南斜面を選んでいることなどからその定着の様子がうかがえる。しかし、馬子は、最後まで古墳全盛の時代の文化を捨て切れなかったようである。飛鳥寺の五重の塔の柱礎の埋設物の種類、馬子の墓といわれる石舞台の大きさや方角などに見られる。

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