--22 仏教と文化の受容

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 仏像が成立したとされるのは、紀元一世紀の頃とされている。仏像はクシャン朝の版図であった、ガンダーラやマトゥーラで製作され始めた。しかし、経典の成立時期については明らかではない。明らかでないというより問題として意識されていない、ということができる。

 この点については、このブログでも度々述べている。33-01 経典の書写の始まり、33-08 経典の成立、などである。そこでは、経典の成立と仏像の成立とは不可分の関係があることを強調した。

 先日、テレビの番組『知るを楽しむ 日中二千年の漢字のつきあい』(NHK教育TV 07/04/05)で興味深いことをいっていた。日本に漢字が入ったのは紀元前後の弥生時代のことである。ところが漢字が普及し始めたのは、六世紀の末から七世紀にかけてである。最初の移入から普及まで500年以上の時間が経過している。

 ここに仏教の経典と仏像の成立までの時間の経過に似た経緯をみることができる。古代ヤマト民族は八百万の神を信じていた。言葉にも「言霊」(ことだま)のいう霊力があると考えていた。ヤマト民族の固有語である「大和言葉」では、「事」と「言」を区別せず、「言」の一語で表す。「言説」と「事象」を、峻別しなかった。「死ぬ」という不吉な「言」を口にすると、本当に「死ぬ」という「事」が起きる。このように考えていた。このような考え方を「言霊思想」という。

 古代大和民族の言霊思想によれば、「言挙げ」すなわちことさら言葉にして言いたてることは、タブーであった。柿本人麻呂歌集の「長歌」に「葦原の瑞穂は神ながら言挙げせぬ国」と歌っているように、言霊思想は自覚されていた。

 そのような言霊思想をもった古代ヤマト民族の目には、漢字は、言霊を封じ込めて保存する異国の魔法のように見えたのではないだろうか。また、神も形で表すことをしなかった。神は一時的に身近な石や山に降りてくるのみで見えない存在であり、形に表すことなど思いも及ばなかった。言霊思想は、単に言葉だけのものではなく、聖なるものを形に表すことへの畏れであった、ということができよう。

 仏教は長い間、口伝で伝えられてきた。文字で書写され経典として成立したのは、かなり後の時代になってからである。この理由についてさまざまなことがいわれているが、日本の場合と同様な古代文化がインドにもあったという。私は経典の成立の時期をマウリア朝のアショカ王の時代以降のことと考えるが、マウリア朝の成立は仏教がインドの「言霊思想」を克服する契機となったと考える。

 この時代、アショーカ王の碑文が残されているように、公に文字が使用されるようになった。また、この碑文は地方ごとに異なる文字が使われた。言葉を文字で表すことのタブーがこの碑文によって、解消されたのではないか。仏陀を像に表わすことのタブーを破ったのはクシャン朝の王であろう。最初期の仏陀像が金貨に彫られていることはこのことを意味する。

 十七条の憲法が文字で示されたのは、アショカ王の碑文との類似性を想起させる。日本では聖徳太子がこの役割を果たした。聖徳太子は、言霊の国に漢字を普及させた。漢字の普及は仏教の受容とセットとされ、両者が一体となって日本に根を下ろしていった。

 中国では、言霊信仰はなく甲骨文字に見られるように神の意思は文字に現れると考えていた。法華経の場合は、法華経の書写された経典を神聖視する傾向があるが、これはインド文化にはない特徴と言える。

22-24 風水


■ 皇都と風水

 皇都のばあいは「四神相応の地」(『和漢三才図会』)がもっとも理想的とされる。四神とは四種の霊獣のことであるが、これを地形でいえば、東に河川(青龍)、南に沼沢(朱雀)、西に大道(白虎)、北に高山(玄武)があれば、皇都の繁栄が約束されるという。

 このような中国の風水思想が日本の造都事業に大きな影響を及ぼしたことはいうまでもない。たとえば708年に出された奈良遷都の詔に「平城の地、四禽は図に叶ひ、三山は鎮を作し、亀筮並びに従ふ。都邑を建つべし」とみえる。


■ 古墳にみる信仰形態の変化
 
 ところで、この時代のいわゆる古墳にみる死者の埋葬方法にも、信仰形態の一端が示されている。前期古墳(三世紀末〜四世紀)から中期古墳(四世紀末〜五世紀)にかけては封土の頂上あたりに竪穴式の石室が作られ、ここに死体を埋葬し、鏡・大刀・玉類などの祭具・呪具を副葬するのが普通であった。死霊をなだめるという前代の形が継承されているとともに、死者が封土の頂上あたりに埋葬されたことは、死霊が山に集まり住むという考え方の象徴であったとみることができよう。

 後期古墳(六世紀〜七世紀)になると、封土に横穴式の石室を作り、玄室に死体をおさめるようになる。副葬品としては、鉄製の武具や馬具、あるいは日用品などが多くなり、もはや、死霊を恐れなだめる形が後退し、人間の死後の生活が意識されている。つまり、古墳時代後期には、素朴ながらも来世の信仰が生まれてきたと考えられている。

引用・参照
・逵 日出典(つじ ひでのり)『神仏習合』 六興出版 昭和61年



■ 風水説(ふうすいせつ)

 山川や水流のようすを観察し、天地の二気が完全に調和している土地をえらんで、都城、家屋、寺観、墳墓などを造営しようとする、中国の陰陽家によってとなえ出された説。大きく陽基風水と陰宅風水の二つにわけることができるが、陽基とは現世における生活者の住居であり、陰宅とは死者の住居、すなわち、墳墓のことである。しかし、両者ともに根本的な原理は同一である。自然は人間の運命を支配すると古代人は考え、自然との調和を保ちながら、その恩恵を享受しようとしたから、歴史的には陽基風水が先に行われた。

 しかし、魏晋南北朝の時代になって、孝倫理が浸透することにより、物故した両親たちも現世のものと同様に、自然のよい影響を受けられるようにと考えられ、陰宅風水も行われるようになり、風水の黄金時代を迎えるにいたった。そして、この説は朝鮮半島や台湾に伝わり、日本にも影響を与えた。

※引用先が不明です。


■ 高句麗から倭国への仏教支援

 飛鳥時代、聖徳太子の師となった慧慈をはじめとして、複数の高句麗僧が我が国に来朝している。彼らは個人の意志で来朝したのではなく、高句麗の外交政策の一環として送り込まれた人たちであるが、我が国の仏教の発展に大きく寄与した。高句麗僧の往来を年表風にまとめると、以下のようになる。

583 高句麗の僧恵便が日本で教化し、日本最初の比丘尼(善信尼、禅蔵尼、慧善尼)を得度する。
595 5月、慧慈が渡日して聖徳太子の師となる。
602 閏10月、僧隆、雲聡が日本へ行く。
610 3月、曇徴、法定が日本へ行く。
615 慧慈が日本から帰国する。
625 正月、恵灌が日本へ行く。


■ 百済から倭国への仏教支援

 聖王の時代、百済は高句麗と新羅の圧迫されて軍事的に劣勢に立たされていた。そのため、親交のあった倭国の軍事支援を期待して、盛んに高度な文化を誘い水として提供してきた。仏教文化は格好の”エサ”であった。『日本書紀』に記載をもとに、当時の百済仏教関係者の往来を年表風にまとめると、以下のようになる。

552 仏像、経巻を日本に伝える(日本書紀)。
554 曇慧など九人の僧を日本に送り、道深など七人の僧と交代させる。
577 経論、律師、禅師、比丘尼、呪禁師、仏工、寺匠などを日本に送る。
583 日本国王の要請で日羅を日本へ送る。
588 僧恵総、令斤、恵寔(えしょく)らを日本に派遣して仏舎利を送る。
   別に、僧6人、寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工を送る。善信尼らが勉学のため百済に来る。
590 3月、百済で学んだ善信尼ら帰国する。
595 慧聡が渡日して、高句麗僧慧慈とともに王室の師となる。
602 10月、観勒が来日し、天文・地理・暦書、方術書などを伝える。
609 4月、百済僧の慧弥、道欣ら十一人が日本に漂着する。

引用・参照
・『朝鮮半島における仏教の展開』
 http://bell.jp/pancho/hyper-history/siron_shotokutaisi/database/bukkyo/buddism-korea.htm


■ 仏教思想

 仏教が初めて正式に朝廷に伝えられたのは、やはり六世紀の前半、欽明天皇のときで、百済の聖明王が使を遣わして、金銅釈迦仏像一体と幡・蓋と経論を献ったという。周知のように、『日本書紀』には同天皇一三(五五二)年一〇月の条にその記事があるが、『元興寺縁起』・『上宮聖徳法王帝説』などの古い伝えには、欽明天皇の戊午(五三八)の年となっている。欽明紀には戊午の年はないが、このあたりの『日本書紀』の紀年には問題かあるので、欽明天皇か即位して七年目ころの戊午(五三八)の年と考え考えるのがよいであろう。もっともこれ以前に司馬達止という帰化人か継体天皇のときに来朝して仏像を礼拝していた、ということを述べた書物が『扶桑略記』に引用されていて、そういう可能性もないわけではないか、しかし、民間にすでにある程度広まっていたという見解には賛成できない。

 したがって、伝来の事情は儒教や陰陽道の場合とよく似ており、一般民衆の信仰としてよりも、高級な文化として社会の上層部にまず受け入れられた。そして仏教の教理そのものは、高い学問的教養を必要としたから、初めのうちは、やはり個人教授的な学習方法によって、ごく一部の人々の間に理解されたにすぎなかったと考えられる。『三経義疏』を著述したと伝えられ、「世間は虚仮にして、唯だ仏のみ是れ真なり。」のことばを残した聖徳太子は、その点からいって、当時としては特殊な孤立した存在だったとみてよいであろう。その後、太子が派遣した多くの遣隋留学生が経典をたずさえて帰国し、講経などを行なうようになってから、しだいに教理の研究か進み、八世紀に入るころから学僧が輩出するようになるのである。

 しかしながら、教理を別とするならば、仏教の信仰は、儒教などに比べてはるかに速く国内に普及した。『日本書紀』によると、推古天皇二(五九四)年ころから諸臣・連らが競って寺を造り始めたというが、孝徳紀大化元(六四五)年八月の条にみえる詔では、「天皇より伴造に至るまで造るところの寺は、営むこと能はざれば朕みな助け作らん。」といっているから、七世紀に入ると、伴造すなわち朝廷の中下流豪族までが、みな一族の寺を造るようになっていたことが知られる。推古紀三二(六二四)年九月の条には、当時存在した寺四六、僧尼一三八五人という数字をあげていて、それが大して誇張でないことを、飛鳥時代寺院他の調査結果が明らかにしつつある。

 このような急速な浸透のおもな理由としては、まず第一に、現世の利益と死後の冥福を保証するという呪術的な面が、当時の人々に喜んで受け入れられたことがあげられる。「この願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せん。もしこれ定業にして以て世に背くものならば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇らん。」という法隆寺金堂釈迦三尊光背銘の文章などは、そのことをよく表わしている。これは、当時の人々が一般には、在来の神に対するのと大差のない態度をもって仏教を受け取ったことを示すものであって、異教というような意識はあまりなかったとみてよいであろう。『日本書紀』には、崇仏可否をめぐる蘇我氏と物部氏の激しい争いが詳しく述べてあるが、それは一つには当時の政冶的抗争がからまった上でのことであり、また一つには、その原史料が僧侶らの手で誇張して書かれていたためであろう。

 また仏教浸透のおもな理由として、第二には、当時の人々か仏教の付随的要素がもつ美的・感覚的な魅力に強くひかれたことがあげられる。神秘的・超越的な仏・菩薩などの像と、それをとり巻く堂内の諸工芸・絵画、器楽の伴奏をともなう読経の独得な音楽的効果、七堂伽藍をそなえる堂々たる寺院建築の威容など、これらのものが全体としてかもし出す異国的な雰囲気は、当時の人々に限りなく好ましいものであった。そのため、蘇我氏が百済から諸工人を招いて、まず飛鳥寺(法興寺)を建立すると、四天王寺・法降寺をはじめ大小の寺院か続々と営まれ、仏教美術にいろどられたいわゆる飛鳥文化が、七世紀前半にしてすでに開花することになったのである。

 このように仏教の受容においても、本来の教理よりも、その呪術的あるいは付随的要素が明らかに優先していた。このことは、儒教・陰陽道などの場合と照らし合わせてみると、古代における大陸思想の摂取の仕方のー般的傾向であったということができるであろう。


※ 以上のシリーズは、石田一良編の『(日本古代における)大陸思想の摂取』の引用です。段落の区切り方、誤植と思われる部分、フリガナ等について若干の変更をしてあります。
http://jpweb.jp.tku.edu.tw/japanese/5/P32.HTM


■ 陰陽道(おんようどう)

 陰陽道は、陰陽の二気と木火土金水の五行の相互関係によって天文・自然などの諸現象を説明する、いわば素朴で非科学的な自然科学であるが、この陰陽五行説にもとづいて『易経』を占術に利用した易占や、経書を解釈しなおした讖緯説(しんいせつ)、あるいは人事が天に感じで祥瑞(しょうずい)や異変が生じるとする天人感応思想などをもその内容としている。わが国ではこれを、中国でかなり高度に発達していた天文学・暦学と並ぶ方術のーつとして採用したが、その体系的受容は、やはり六世紀に入ってからとみられる。

 すなわち欽明紀一四(五五三)年六月の条に、朝廷は百済からの使者に対して、医博士・易博士・暦博士の交替の期が来たから、かわりの博士を送るべきこと、および同時にト書・ 暦本と種々の薬物を送るべきことを命じた、という記事があり、翌年二月の条に、百済がこれに応じて易博士の王道良らを貢上したという記事がある。これらの記事は、この少し前から易博士が交替制で来朝していたことを物語っているが、この易博士というのは、同時にト書を要求しているところからみて、陰陽道の学者であることは明らかである。『周書』異域伝などによると、このころ百済では南朝の学芸をとり入れ、陰陽五行説やト筮・占相の術などが流行していたというから、おそらく朝廷は、五経博士の交替派遣が始まると、まもなくそれと同じやり方で易博士なども派遣するように要求したのであろう。したがってその受容の仕方は、儒教の場合よりもやや能動的だったということができる。

 また、その学習方法もやや違っていたらしい。右の易博士については直接にはわからないが、後に推古天皇一○(六〇二)年に百済僧の観勒が暦本や天文・地理の書、遁甲・方術の書をもって来朝したときには、それぞれ学生を選定して暦法・天文・遁甲・方術を学ばせているから、陰陽道については、世襲の専門家を養成しようとしたことが知られる。遁甲というのは一種の星占いで、やはり陰陽道の一要素である。このような学習方式の相違は、陰陽道を知的教養としてよりは、むしろ技術的な知識として受けとったことを物語るものであろう。

 このようにして導入された陰陽道は、その普及においても、儒教よりむしろ速かったらしい。たとえば、記・紀の神代の巻の記述に陰陽の思想の影響がかなり強く見られることや、神武紀元の年代算定が早くも七世紀に讖緯説にもとづいて行なわれていることからもそれはうかがわれる。そしてその普及については、僧旻の存在を見のがすことはできない。

 すなわち彼は、留学二四年の後、舒明天皇四(六三二)年に帰国したが、『大織冠伝』によれば、朝廷の諸氏の子弟を集めて周易を講じたといい、『日本書紀』によれば、大流星や彗星の出現に際して、これを中国の緯書の文章をあげて説明したという。また、大化六(六五〇)年二月に穴戸(長門)の国から白い雉が献上されると、彼は「王者四表にあまねきときは、則ち白雉見ゆ。」などという緯書の語句をあげ、帝徳が天に感応した結果の祥瑞だから天下に大赦すべきだと説いた。朝廷はこの意見を採用して大げさな祝典をあげ、年号を白雉と改めたが、祥瑞思想はこの後、長く律令貴族の政治思想に深い影響を与えることになった。奈良時代の改元は、ほとんど全部が祥瑞によるものであった。

 このようにしてやがて陰陽道は、奈良朝の諸学芸の中の重要な一部門を占めることになったのであるが、儒教に比べて、より容易に滲透したのは、やはり陰陽道の諸要素がもっていた卑俗さ、わかりやすさの面、あるいは現実的でかなり呪術的・迷信的な性格が、当時の人々にとって受け入れやすかったためといってよいであろう。

∋No.38 大陸思想の摂取 4 へ続く

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