--42 トルファン

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42-03 トルファンへ


■ ウルムチからトルファンまで

 成田を朝発ってウルムチには夕方に着いた。ウルムチは新疆ウィグル自治区の区都。天山山脈の中央の北側の山麓の都市である。人口は約800万人、大都市である。ウルムチで一泊してかトルファンに向かう。トルファンはウルムチの東で、少し手前になる。およそ250kmの距離があるが、今は高速道路が完備され、バスで三時間程の行程である。

 トルファン盆地は天山山脈の東端に抱かれるようにある。トルファンはトルファン盆地の中心にあるが、天山山脈の雪解け水が豊富に供給されるオアシス都市である。ウルムチからの国道は312号線、上海まで続く世界一長い国道である。トルファンまでは天山山脈の山間を縫うように進む。このあたりはかつてのシルクロードの天山北路の入り口にあたるところである。

 途中で、風力発電の鉄塔が無数とも思われるほど群立しているところにでる。風の谷といわれるところで、風車の数は250機ほどだという。新疆ウィグル自治区の資源は地下資源だけではない。


■ 火焔山と高昌故城

 トルファンの市街地から東へ行った所に、火焔山があり、火焔山の脇から流れ出てくる川の渓谷の奥にベゼクリク千仏洞がある。火焔山に緑の渓谷があるというのはいまだに信じがたい。その川が平地に流れ出たところに大きなオアシスがあり、その先に高昌故城の広大な史跡がある。

 ◇ ベゼクリク千仏洞

 ベゼクリク千仏洞は、トルファン盆地の北側に位置する火焔山の谷間にある。ベゼクリクとは、ウィグル語で「装飾された家」という意味で、麹氏高昌国と西州ウィグル国が栄えていた6世紀から14世紀まで開かれていた石窟寺院である。14世紀、ウィグル人は仏教を信仰していたがイスラム教の侵入に遭い、ベゼクリク千仏洞の偶像は破壊され、壁画などもはがし取られてしまった。また、今世紀初頭に外国人探検家によって壁画がはがし取られているため現在では一部の仏画が残っているだけである。

 千仏洞は駐車場の下の崖にあった。階段を下りていって振り向くと例のあの風景が広がる。心の準備ができていない。浮き足たったままの見学になってしまった。ただ、誓願図が剥がしとられて壁がむき出すになっている石窟が以外に狭かったことだけが記憶に残っている。

 ◇ 高昌故城

 トルファン市街から東に約45km、火焔山南麓にある高昌故城は、紀元前1世紀から14世紀の間、新彊における政治・経済・文化の中心地の一つであった。

 高昌故城はほぼ正方形をなし、東西1600m、南北1500mにも及ぶ。王城・内城・外城と三部分に分かれ、居住区は北に、手工業区は南にあった。西南から東南にかけての一帯がとりわけ良く残っており、北部は破損が激しい。建物は日乾レンガによって築かれ、アーチ型の出入口が多い。

 中心部分まではロバ車に分乗する。再建された寺院と大きな壁が残る寺院があった。壁には多くのがんがあり、そのすべてに仏像があったようである。今は、痕跡がかすかに残るのみである。

 漢代には高昌壁が築かれたという記録がある。5世紀、蘭州出身の漢人、麹氏一族によって麹氏高昌国が成立し、以後640年に唐の太宗によって滅ぼされるまで、約140年間存続した。

 9世紀末、唐が全面的に撤退した後、10世紀にはウイグル人の「高昌大王府」がおかれた。高昌故城はその後300年間ウイグル人の拠点として栄えたが、13世紀にチンギス・ハンの遠征軍に襲撃され、廃墟となってしまった。


■ 交河故城

 交河故城はトルファンの市街から西へ約10km、トルファン盆地の西端にある。東西は最大が330m、南北約1600m、東西を2つの河に挟まれた台地上にあり、天然の要塞となっている。

 漢代の車師前王庭があった所であり、漢王朝の重要な屯田地として、また辺境防御の任務にあった。麹氏高昌国時代、中心は高昌故城に移ったが、交河故城は軍事的拠点として使用され続けた。

 702年には最初の安西都護府がおかれ、唐の西域経営の中心となった。ウイグル王国時代も重要な都市であったが、元代末期、チンギス・ハンの遠征の途中に破壊され、廃城となった。

 南部は一般居民の居住区であり、北部には寺院や仏塔、最北部には墓葬が存在している。各遺構は唐代の都市建築の特色を残し、高昌故城に比べて残存状態が良好である。

 河は細くなっているが、ポプラの林ができている。しかし、暑い。バスを降りて渡されたのは、凍ったミネラルウォーターである。額にあてつつ、見学をすることとなった。

※ WEB記事かの各所から引用させていただいています。 

42-02 トルファンの歴史


 トルファンは中国新疆ウィグル自治区の東部、天山山脈の南側に位置する。この地は古来から交通の要衝であり、かつては、他民族が集う国際色豊かな土地柄だった。

 トルファンの歴史を見るうえで、特筆すべき二つの王国がある。漢民族が支配した「高昌国」とトルコ系遊牧民族ウィグル人が支配した「西ウィグル王国」である。漢代以来、トルファンは北方遊牧民と東方の漢民族との争奪の地となっていた。五世紀になると、漢人たちがトルファンの地に王国を建てる。これが高昌国である。

 シルクロードに出現した漢人の王国。この植民国家は遊牧勢力の影響を受けながら、支配王家を次々に変えた。六世紀初めに麹氏が王位につき、その王統は640年に唐によって滅ぼされるまで続く。・・・第八代の麹文泰が高昌国を治めていたとき、インドへ求法の旅に出た唐の僧・玄奘がトルファンにやってくる。玄奘の威徳に感動した麹文泰は玄奘の旅のスポンサーとなる。彼に莫大な物資を与え、高昌国が通商を結んでいる西突厥にも玄奘の庇護を依頼する。麹文泰の玄奘に対する支援は、はからずも麹氏高昌国と西突厥との友好関係を明かす。

 東に唐、西に突厥。小国なるがゆえに国際情勢に敏感であった高昌国の外交が玄奘に幸いした。麹文泰の心を尽くした支援によって、玄奘は大旅行を完遂することができたのである。再会を約束した二人であったが、玄奘が求法の旅を終えて帰国するとき、高昌国は唐によって滅ぼされていた。

 640年、唐によって高昌国が滅ぼされた後、しばらくは、トルファン地方は西州(せいしゅう)として唐の直轄地となっていた。そして、九世紀なかば、トルファンは大きな歴史的展開を迎える。トルファンにウィグル人が到来してきたのである。トルコ系民族のウィグル人はモンゴル高原が故地であり、遊牧生活をしていた。八世紀中頃に遊牧国家(東ウィグル可汗国(かがんこく))を樹立し、その後100年間、モンゴル草原を支配した。

 ・・・

 そのウィグル遊牧国家は、840年に同じトルコ系キルギスの襲撃によって幕を閉じる。そのとき分散した一部がトルファン盆地に入り、西ウィグル王国(天山ウィグル王国)を建国する。850年頃のことである。以後、西ウィグル王国は350年間の命脈を保つ。

 トルファンで新しい支配者となったウィグル人は、武力による高圧的な征服ではなく、多様な文化を吸収し融合するといった高度な文化政策で王国を築き上げた。トルファンに土着していた西方インド・ヨーロッパ系の文化、イラン系の文化、インド系の文化、それに漢民族文化をウィグル人は積極的に摂取した。

 支配層がマニ教徒であったウィグル人は、次第に仏教を受け入れていく。・・・そのことを端的に示すものが西ウィグル王国時代の仏教芸術である。トルファン郊外に位置するベゼクリク石窟(千仏洞)の「誓願図」の一つに『燃燈仏授記物語』がある。髪の毛を地面に敷く人物と、髪の毛の上に立つ過去仏の姿が表現されている。髪の毛を地面に垂らす前世の釈迦の姿は、僧を敬うにあたり髪を地に敷き、背をかがめた高昌国の王の姿に重なる。当初、マニ教を信じていたウィグルの王も、やがては仏教に心酔していくことになる。

 十三世紀初め、モンゴルが拡大していくが、ウィグルは戦わずしてモンゴルと一体化する。モンゴルは、ウィグル人の高い能力に並々ならぬものを感じ取り、彼らの文化程度の高さを温存する道を選ぶ。ちなみに、モンゴル文字はウィグル文字を改良してできたものである。

 トルコ系遊牧民族ウィグル人が、トルファン地方に勢力を張って以降、西域はトルコ化が進んでゆく。中央アジアのことをトルキスタン(トルコ人の土地)と呼ぶようになるが、それは九世紀半ばに、ウィグル人がトルファンに移動してきたことに端を発する。

引用・参照
・週刊朝日百科 『シルクロード紀行 No.3 トルファン』p12

42-01 桁違いの広さ


 中国の面積は日本の約26倍。とにかく広い。新疆ウィグル自治区のみに限っても中国の約6分の1の広さで、なんと日本の4.4倍である。新疆ウィグル自治区は、中央を東西に走る天山山脈で南北に分けられる。天山山脈の北にジュンガル盆地、南はタリム盆地がある。

 タリム盆地は、東西1,400km、南北550km。面積56万平方キロの広大な面積を持つ。その中心部の大部分を世界で二番目に広いといわれるタクラマカン砂漠が占めている。タクラマカンは、東西1,000km、南北400km、面積33.76平方km。日本全土の面積から九州を除いた大きさに相当する。

 この広大な地域の旅の行程をどうしたらわかってもらえるのか。不可能に近い。上記の数字は、インターネットで調べたものだが、調べた本人が唖然としている。言葉で説明できないときは、図を使うのが一般的に用いられてる方法である。しかし、問題は、心のものさしの問題である。そのスケールを二桁くらいあげないとどうしようもない。

 今回の旅は、ウルムチから始まった。ウルムチは新疆ウィグル自治区の区都。天山山脈の北のジュンガル盆地の南辺に位置する。成田から西安までJAL、西安からウルムチまで国内航空。翌日バスでトルファンに向かった。高速道路を約三時間走る。トルファンはトルファン盆地の中央にある。火焔山、ベゼクリク千仏洞、高昌故城、交河故城、カレーズ、葡萄農家などを見学した。

 このトルファン盆地にだまされた。出発前に旅の日程表を見て、タクラマカン砂漠をかすめることができると喜んだ。しかし、これは誤解であった。トルファン盆地は、天山山脈の東側にすり鉢状に落ち込んだところである。南北60km、東西120kmの広大な盆地である。しかし、タリム盆地とは別の盆地であった。

 天山山脈の幅が想像を超えているのである。天山山脈の長さは東西2,500kmで、幅約250〜300km。お気づきでしょうか。天山山脈は日本列島より大きいのである。トルファン盆地さえも抱え込むような幅の大きい山脈であった。

 トルファンへのバスの中で、ガイドさんが「南側に見える山並みも、天山山脈です」と説明していた。今、帰ってきてからその意味を理解できたところである。お釈迦様の手の上から出ることができなかった孫悟空の境地と同じである。

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