--33 -経典の成立

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■ はじめに

 経典の書写され始めた時期はこれまでほとんど問題にされてこなかった。しかし、大乗仏教の興起や仏像の制作の始まりを考える上でも重要な問題と考える。下記の文章は、訳者のあとがきという場所からの引用であるが、阿含と大乗経典の書写年代についての先後関係などは、わが意を得たりというところである。

以下、引用である。
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■ 経と律の関係

 経と律はどちらが古いのかということには問題があります。一般には経のほうが律よりも成立が古いと考えられていますが、果たしてそれは確かなことでしょうか。経蔵が律蔵と別に発展したとする考え方に確たる根拠があるでしょうか。根本説一切有部律には興味深い事実があります。それは多数の経がこの律に埋め込まれているという事実です。パーリニカーヤの長部経典の三分の一あるいはそれ以上に相当する経が、根本説一切有部律の中に何でも除かれずに、その一部として存在しています。

 このことはパーリの経典が誰かによって律から取り出されたものであるという印象を与えます。そうすると経蔵は律蔵から取り出されて成立したという可能性が考えられます。それに、僧院制度という観点からしても律が先に作られたと考えるほうが理にかなっています。経蔵が律蔵より先に作られたとする見方には、教義的なもののほうが制度的なものより先に作られたと考えるべきだとする偏見が潜んでいると思われます。しかしそう考える根拠はどこにもありません。むしろその逆であることを示す証拠がいくつか存在します。

 その一つは、インドでは行の正当性のほうが教義の正当性よりも重要視されるという傾向があるということです。インドの宗教では一般に思想よりも行動のほうに重要性が置かれます。例えばギルギットの教団では、律としては根本説一切有部律が用いられましたが、経はすべて大乗経典が用いられていたようです。教団としては僧が律さえ守っておれば、誰も彼の思想に関してとやかく言わないのです。教団では思想はさほど問題にされないのです。西洋では思想や教義のほうを重要だと考えますが、インドでは逆だったのです。


■ 阿含と大乗経典の書写年代

 一般に阿含は大乗経典よりも先に書かれたと考えられていますが、このことに関しても問題があります。マハーヴァンサには聖典が紀元元年直前に書かれたことが述べられていますが、それはスリランカでのことであって、インドに関しては何も分かりません。インドでは長い間かかって次第に口伝から記録による伝承へと変化していったように思われます。スリランカで聖典が記録された時代は大乗経典がインドで書かれた時代に対応しています。

参照・引用
・小谷信千代 『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』 春秋社 訳者あとがき


■ 問題の提起

 今日では経典は文字で書写されたものをいう。書写の材料としては、古くは、椰子の葉(貝葉)、白樺の樹皮、羊の皮などが使われた。しかし、経典が一般に書写されるようになったのは仏陀がなくなってから数世紀を経てからである。それ以前は、口伝で伝えられてきた。書写されるようになった後も、口伝がなくなったわけではない。戒律などは、後まで口伝で伝えられたようである。

 経典がいつ、どこで、文字で書写されるようになったのか。この点はほとんど問題とされていないようだ。しかし、書写の始まりの問題は、仏教史にとって重要と考える。経典の書写は、西北インドで、紀元前後に始まったと考えることはできないだろうか。また、経典の書写の始まりと仏像制作の始まり、および大乗経典の制作とは相互に密接な関連があるように思われる。

 経典の制作の始まりに関する文章を見つけることができた。以下にに紹介するが、注目すべき諸点を先に述べておくこととする。

1.経典はガンダーラ語で、カロシュティ文字が使用されている。カロシュティ文字は西北インドで、ブラフミー文字に先立って用いられた。これは、経典の書写がガンダーラ地方で始まったことを意味するのではないか。ガンダーラでの書写の始まりは、アショーカ王の碑文の影響がある。インドの言葉と西の文化の文字の接触がこの時代に始まった。

2.戒律文献が全くなく、経典の部分も少ないことが挙げられる。注釈文献とか『アヴァダーナ』が多い。経典や戒律を書写することはまだタブー視されていたのではないか。そのため、書写は、経典や戒律以外のものから始まり、しかも西北インドのガンダーラ地方という辺境において始められた、と考えることはできないだろうか。

3.ハッダ出土のものに関する限り、大乗経典は見当たらない。


 
 現存最古と推定される仏教写本と申しますのは、白樺の樹皮製の29巻の巻物で、現在はロンドンの大英図書館に保管されております。白樺の樹皮をつなぎ合わせて、幅14〜25センチ、縦2.3メートルから2.5メートルにしたものを、表を内側にして下から巻いたものです。ギリシャのパピルスの形状を真似たものと推定されています。

 この写本は法蔵部への寄進と銘された土器の壺の中に入っていました。壺から取り出される前に撮影された写真から壺の中に写本が入っていることがわかります。写本を入れた壺がどこから出たか明確ではありませんが、伝聞によるとハッダ、現在のジャララバードの近くで発見されたそうです。ハッダは大乗仏教の授記の思想と関係する場所ですが、この写本には大乗仏教の要素が全く見られないことが注目されます。

 この写本の素材は白樺の樹皮です。インド全般ではターラという椰子の葉(貝葉)が写本の素材としてよく使われましたが、ガンダーラやその周辺から中央アジアにかけては主に白樺の樹皮が用いられました。写本というと紙に書くものと思われがちですが、紙は中国で発明されたものです。

 この写本の言語はガンダーラ語です。ガンダーラ語というのは、ガンダーラ周辺で少なくとも紀元前3世紀頃から紀元後4世紀頃まで使われていた言語です。

 この写本はカローシュティー文字で書かれており、右から左へ横書きされています。この文字は古代インドで用いられた二種類の文字の内の一つで、ガンダーラとその周辺から中央アジアにかけて一時期使われていました。ただカローシュティー文字はインドの言語を表記するにはあまり適当ではありません。例えばアフガニスタンという国名の現地発音である「アフガーニスターン」のような長母音を短母音と区別して表記することができません。

 カローシュティー文字は西方のセム語の文字から生まれた文字ですが、こういう事情があってのことでしょうか、もう一つの文字が古代インドで作られます。それがブラーフミー文字です。ブラーフミー文字は英語と同じで左から右へ横書きされます。現在のインドの文字はこのブラーフミー文字から発展したものですが、スリランカや東南アジア諸国で使われている文字、チベット文字、これらもすべてインドのブラーフミー文字そのままか、或いはそれの変形です。日本では墓地の卒塔婆や五輪塔に梵字が刻まれていますが、これもブラーフミー文字の一種です。

 この写本の書写年代は紀元後10年から30年頃と推定されています。ただしその根拠は、その年代に生存していた人物への言及が写本の中にあるからでして、若干疑問が残ります。この人物とは、次の「写本の内容」の第6に挙げた、当地で創作された『アヴァダーナ』の中に登場する、紀元後10年から30年頃に歴史上実在した人物です。それでこの写本自体もその頃のものと推定されたわけです。

 この写本の文字や言語の年代的特徴から、写本年代が紀元後一世紀から二世紀であることは動かないようです。紀元後10年から30年頃となると、仏教の写本だけでなく広くインド語で書かれた最古の写本となります。ただ最近はどんどん新しい写本が発見されていますから、これよりもっと古い写本が将来見つかる可能性は十分あります。

 次は写本の内容です。まだ全容が解明されたわけではありませんが、23〜34種類の仏典が含まれていることがこれまでに明らかにされています。大きく分けて六つのジャンルに分かれます。

 まず最初のジャンルは「『長阿含経』相当経典と注解」です。ここで言う『長阿含経』とは5世紀の初めに漢訳された『長阿含経』でして、その原典は法蔵部に属していたと推論されていますが、この漢訳『長阿含経』とほぼ合致する部分とその注釈がこの写本の中に発見されました。このことと、先程申した、法蔵部への寄進と銘のある壺にこの写本が納められていた事実から、この写本は法蔵部に属していたと推定されます。

 法蔵部がインドで消滅するとともに、この部派が伝えた『長阿含経』のインド語原典も失われ幻の原典となっていたわけですが、この写本からそれを垣間見ることができるようになりました。それから南方上座部に属する、パーリ語の『アングッタラ・ニカーヤ』という経典に対応するものも一部発見されています。

 二番目のジャンルとして種々の「韻文経典」があり、パーリ語の『スッタニパータ』とか『ダンマパダ』などに対応します。三番目のジャンルとして「韻文撰集注解」と呼ぶべきものがあります。例えば上の二番目の韻文経典の中から韻文を抜粋して、それに注釈を施したものです。
 四番目は「讃仏文学」という、ブッダを讃える文学です。五番目として「仏教哲学論書」、これは『アビダルマ』とも呼ばれる体系的な哲学論書です。

 以上の五つのジャンルは法蔵部以外の部派の仏典にもありますが、六番目のジャンルの『アヴァダーナ』は事情が異なります。このジャンル自体は仏教説話文学の一種で他の部派の仏典にもありますが、この写本に含まれる『アヴァダーナ』は、この写本が発見されたと伝えられる広い意味のガンダーラで新たに創作されたものです。この点は、この『アヴァダーナ』の中に、当地で紀元後10年から30年頃に実在した歴史上の人物が言及されることからわかります。先程申しましたようにこれが写本年代を決定する資料ともなりました。なおこれまでは『アヴァダーナ』というと業報輪廻説が主題となる仏典とされていましたが、この写本の『アヴァダーナ』にはこの説が含まれていないことが注目されます。

 他の特徴として律が皆無で戒律文献が全くなく、経典の部分も少ないことが挙げられます。それに対し注釈文献とか『アヴァダーナ』が多いのです。これらは「仏説」以外の非聖典部分ですが、特にこの写本の『アヴァダーナ』は当地で創作されたものですので、ブッダが説いたものでないことは明白です。そういう「仏説」以外の非聖典部分が多く、逆にブッダが説いたと権威づけられるような聖典部分は殆どない。

 このことから、聖典部分は文字に書かずに口頭で伝承されていたために写本としては残っていないと推定されます。同じようなことが中央アジアで発見された仏教写本でも言えます。そこで発見された説一切有部の古い時代の写本は殆ど非聖典部分で、時代が下がるにつれて聖典部分が増えてきます。つまり写本が残っていないからといって聖典が存在しなかったのではなく、聖典は存在していたのだが口頭で伝えられていたと推定できるわけです。

 この写本の起源として、「書き写された」というメモが写本の文字の上に落書きのような形で存在することから、長く使われて写本が古くなり、中身を全て他の写本に書写した後、聖遺物として壺に保管されたのがこの写本であると推定されています。

 以上、この写本はアフガニスタンのハッダ付近において、1世紀頃に法蔵部が伝えていた仏典の一端を提示していると考えられます。これが、仏典の原典の内容に関して現在の我々が確実に知り得る最古の歴史資料になります。

参照・引用
・榎本文雄 平成13年度公開講演会「アフガニスタンの仏典」
 http://www.eonet.ne.jp/~indology/Blb.htm

33-06 パーリ語聖典


 経は釈迦や、弟子たちの言行録を集めたもの。釈迦の入滅後、教えを正しく伝えるために、弟子たちは経典編集の集会(結集(けつじゅう))を開き、経典整理を開始した。

 ところが、仏滅後100〜200年ころには教団は多くの部派に分裂し、それぞれの部派が各自の三蔵を伝持するようになった。それらはインドの各地の言語によっていたと思われる。完全な形で現存するのは、スリランカに伝えられた上座部系のパーリ語経典のみで、現在、スリランカ、タイ、ミャンマーなど東南アジアの仏教国で広く用いられている。その内容は次の通りである。

 律蔵 経分別(戒律の本文解説)、犍度(けんど、教団の制度規定)、付録。
 経蔵 長部、中部、相応部、増支部、小部の5部。
   前4部は漢訳『阿含経 (あごんきよう)』に相当する。
 論蔵 法集論、分別論、界説論、人施設論、論事論、双対論、発趣論の7部。

 これらは前二〜前一世紀ころまでに徐々に形成されたもので、前一世紀ころにスリランカに伝えられたといわれ、以後、多くの蔵外の注釈書、綱要書、史書等が作られた。十九世紀末ロンドンにパーリ聖典協会(Pali Text Society)が設立されて原典の校訂出版等がなされ、日本では若干の蔵外文献も含めて『南伝大蔵経 』65巻に完訳されている。

 注意が必要なのは、パーリ語経典が必ずしも古い形を残しているとは限らない点である。漢訳の『阿含経』には上座部に伝わったより古い形態のものがあったり、あきらかにサンスクリット語からの漢訳と考えられるものがある。その意味で、パーリ語経典が原初の形態を伝えていると考えることは、間違いではないが正確な表現ではない。

 パーリ語の聖典は、スリランカではシンハラ文字、ビルマではビルマ文字、タイではタイ文字、ラオスではラオス文字と、それぞれの国の文字で表記されている。パーリ語には固有の文字は存在しない。 十九世紀以後はヨーロッパ人の学者たちによってローマ字で表記されるようになった。

 パーリ語に独自の文字が無いことは経典の筆記の始まりの時期について参考になるのではないか。上座部の教えは、口伝でスリランカや東南アジアの諸国へ伝えられた。口伝で伝えられた教えがその後その地の文字で書き表されるようになった。インド本国においても、このとき、上座部の経典は筆写されていず、口伝で伝えられていた。

参照・引用
 http://panna.zive.net/bukkyo/wikipedia.html#no4


3 説一切有部『長阿含』のギルギット写本

 1997年11月、スコイエン・コレクションを最初に訪ねた帰途、ロンドンのディーラー、サム・フォッグにおいて筆者は、2週間前にパキスタンから届いたばかりという樺皮写本の束を目にした。一葉の大きさは縦10センチ、横50センチメートルほど。癒着した10数葉ずつの3束に分かれ、全部で50葉ほどはあった。各葉の両面に梵語で仏典が書写されていた。文字はギルギット・バーミヤン第2型。これは我が国に伝えられた悉曇文字の原型でもある。数枚の写真を撮った後、しばらく束の上下の数葉を読んでみると、北インドに栄えた説一切有部教団(Sarvastivadin)の伝える『長阿含(Dirgha‐agama)』の一部であることが分かった。漢訳大蔵経に残る『長阿含』は法蔵部教団(Dharmaguptaka)が伝えたものであり、説一切有部のそれは漢訳されていない。

 帰国後、東京の日仏交易社(現歐亜美術)の栗田功氏のもとに、同じ束の上部の一葉を写したサンプル写真がパキスタンより届いていることを知った。氏によると、これはアフガニスタンではなく、パキスタンの実効支配するギルギットの洞窟で蜂蜜ハンターが発見したらしい。東海大学の定方晟教授がその写真を見て一文を発表している(『大法輪』平成11年1月号)。その後、写本自体はスコイエン氏ではなく、ワシントンの匿名のコレクターに引き取られ、筆者の手の及ばない所に行ってしまったかに見えた。しかし幸運にも写本は米国ボルティモアのウォルターズ・アート・ギャラリーに依託保存され、その研究と出版は我々スコイエン・コレクションの研究グループに依頼されることになった。本年4月中旬、筆者の許にも保存処理の終わった写本の写真がギャラリーより届けられた。写真には48葉の樺皮写本と、付属する断片約100点が原寸大で撮影されていた。まだ詳しくは見ていないが、これら48葉は『長阿含』の後半部分のいずれかの箇所をカヴァーすると思われる。

 さらにこれに先立つ3月初旬、再びオスロからの帰途,ロンドンの別のディーラー、マーク・アーロン氏のギャラリーにおいて筆者は,同じ写本の別の部分に遭遇した。そこには癒着した10数葉の束5つ(80葉ないし100葉ほど)と、30センチ角の箱一杯に詰め込まれた多数の断簡が認められた。価格はアーロン氏の手数料を入れて日本円にすると4000万円!とのことであった。その場で半時間ほど読み、さらに帰国後筆者が写してきた各束上下の写真で確認したが、その中には『四衆経(Catusparisatsutra)』の中程(Waldschmidt ed.,§27a)から最後まで,さらにそれに連続して『大本経(Mahavadanasutra)』のほぼ全文が含まれていることが判明した。つまりこれは両経を含む有部(あるいは根本有部)『長阿含』の第1章「六経品(Satsutrikanipata)」の、まさにその箇所であった。『四衆経』と『大本経』のヴァルドシュミット校訂本中の欠落したり復元不全な箇所も、今後これを見ればすべて判明するはずである。

 もしギルギットで『長阿含』の完全な写本が発見されたのだとすれば、全体で500葉以上はあったはずである。いくつかに分割されて売り飛ばされたのであろうか。では残りは一体どこに。それらが近日中にマーケットに現れる可能性は高いように思われる。なお、数日前のアーロン氏からの連絡では写本は売れたとのことであったが、購入者は知らされていない。いずれにしても、これは現存する唯一の貴重文献である。仏教研究にとってその価値は計り知れない。購入者が誰であれ、現在の、さらに未来の購入者によってそれらが研究者に公開されることを願わずにはおれない。


1.はじめに

 今世紀初頭、英国のスタイン、フランスのペリオ、ドイツのグリュンヴェーデル、わが国の大谷探検隊を始めとする各国の探検隊は競って中央アジアへ足を踏み入れ、シルクロードに点在する遺跡を発掘し、様々な言語で書かれた膨大な量の出土文献を持ち帰った。またこれらの探検隊とは別に、英国のバウアー大尉、英国のインド学者ヘルンレ、ロシアのカシュガル駐在総領事ペトロフスキーといった人々も、インドあるいは中央アジア赴任中に土地の人たちが持ち込んだ出土文献を直接あるいは間接に買い集めた。そしてそれらの文献は、その後の仏教研究に大きな影響を与えることになった。発見された資料のほとんどは断簡にすぎなかったが、既に失われたと思われていた数々の重要文献の原典がその姿を現したからである。

 ところで、このような中央アジアにおける発見がその後も続いたわけではない。1931年に現在のインド・パキスタン間の国境紛争地帯に位置するギルギットの仏塔跡から発見された約3000葉の樺皮写本(紙写本を一部含む)、いわゆる「ギルギット写本(Gilgit Manuscripts)」を最後に、探検ブームが去り、あるいは世界情勢の変化等により、その後例外的に少数の写本発見の報はあったが、大規模な発見は今後もはや望むべくもないものと思われていた。

 しかし,この数年の間に状況は劇的に変化した。旧ソビエトのアフガニスタン介入と、それに続いて現在に至るアフガン内戦は、現地の荒廃と引き換えに、世界の古写本マーケットに膨大なアフガニスタンおよびパキスタン出土文献の流入という皮肉な結果をもたらしたのである。マーケットに現れた写本類の大部分は最終的に欧米の研究機関あるいはコレクターに引き取られて行った、あるいは現在行きつつある。


2.ノルウェーのスコイエン・コレクション

 さてそのような状況の中、今から数年前,正確な場所は伝えられていないが、アフガニスタンのバーミヤン渓谷北部の洞窟の中で、原理主義勢力に追われたアフガン難民によって大量の仏教写本が発見された。それは入り口がひとつ、内部が数本に分かれた自然の洞窟で、一本の奥まったところに仏像が安置され、周囲に写本が散乱していたらしい。

 写本は分割されてパキスタンからドバイに持ち出され、さらにロンドンの複数の仲介業者を経て、最終的にそのほとんどはノルウェーの蒐集家マーティン・スコイエン(Martin Schyen)氏に引き取られた。貝葉(ターラ椰子の葉)、樺皮(白樺の樹皮)、動物の皮が用紙として用いられた写本類は、使用された文字から判断して、紀元2世紀から8世紀に遡り、大部分は破損した断簡であったが、サンスクリット(梵語)あるいはガンダーラ語の仏典が書写され、その総量は微小破片も含めて1万点以上にのぼった。

引用・参照文献
・松田和信(佛教大学教授)『バーミヤン渓谷から現れた仏教写本の諸相』より

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