うんむまじどの『イスラムな気持ち』

シリア危機(「内戦」ではありません)−アサド政権の「テロとの戦い」は続きます

伯母、貞江ノート

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ある日、生徒が「お腹が痛い」と言って保健室にやってきた。
顔色は、それほど悪くはないし、体温を測っても平熱である。
しかし、お腹が痛いのだと言う。

「君が仮病を使っているとは、思わない。お腹が痛いならば
それは、本当だろう。しかし、ここではわからない。大きな病院へ
行ってみてもらいなさい」

貞江は、そう言って帰した。

その生徒は、病院に行きレントゲンを撮ったら、ホチキスの針が
胃に刺さっていたのが見えたという。

絶食とドサリとした食事を繰り返して、ホチキスの針は出たという。

Page 7. 舌小帯の男子

貞江は、その後、信州の中野市から名古屋へ移り、名古屋市内の保健所で
保健婦として勤めあげ、55歳で退いている。

昭和58年、夫、正章とともに、正章の母が遺していた家(神奈川県横浜市)に
転居する。

その後、家に居た貞江は、昭和60年に横浜市内の保健所から呼ばれた。
そして、県立工業高校で養護教員をしてくれないかと請われる。それは、
名古屋で永年勤めた保健所からの推薦であった。

そうして貞江は、58才から64才までの6年間を養護教員として務めることに
なった。
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その学校では、いじめがあった。貞江が気をつけてみると、その子は、
高校生であるのに、まだ声変わりもしていない。お昼を食べるときに、よく食べ
こぼして級友に笑われている。ラリルレロの発音ができない。野球の応援では、
女のような声で、ラリルレロの発音がおかしいままに叫んだのが、級友に
いじめられるきっかけになった。

貞江は、この子は、「舌小帯」ではないか、と疑った。いや、確信した。
保健所勤めでは、乳児検診で発見されるケースがあった。

ある日、貞江は、保健室に、その子の両親を呼んでいる。
両親は、「自分たちは二人とも大学を出ている。長男も優秀であるのに
次男のこの子だけは、出来が悪くて、工業高校行になんか入った」
そのような話を始める。

貞江は、そんな話は聞かなかったふうに問う。
「この子は、生まれた頃、上手に乳を飲まなかかったのではないですか?」
母親は「そうです」と答える。
「食べこぼしもするし、食べるのも遅かったではありませんか」
「はい、その通りです。ですから外に食事に行く時には、我が家では
この子を家において、長男だけ連れて行くのです」

「お母さん、この子は舌小帯でしょう。他に体のどこかに奇形がある
はずです。気が付きませんでしたか。大きな病院に行ってみてもらって
ください」

結果、やはりその子は舌小帯であった。睾丸が一つしかないという奇形
もわかった。

貞江は、その子のクラスに行って、生徒に、彼は、そういう体なのだから、
笑ったり、いじめたりしないように、と話した。以来いじめはピタリとなくなった。

貞江に言わせると、長男も育てている母親が、次男の異常に気づかな
かったのは、おかしい。おむつを変える時に、睾丸が一つしかないという
ことにも気づかなかったのは、尚おかしい。育てていて、次男の異常に
気づかず、ただ出来が悪いと見ていた両親は、やはりおかしい。

その後、両親は、その子に対する態度をいたく反省したという。
千葉のほうへ転居して、そこで、その子とパン屋を始めたのだそうだ。
ある日、貞江に、その子が焼いたというパンが、どさりと届けられた。







Page 6. 結婚

貞江が父親っ子であることは、菊女ノートのほうで書いている。
「祖母、菊女ノート」Page23. 貞江ちゃんは、今日からあっち

終戦後、実家の信州中野市へ戻って、保健婦として市役所の職員となって
働き始めた。そんな貞江を、母の菊女が隣近所や知り合いに自慢するのが、
貞江は面白くなかった。

貞江の勉強ができたこと、また、足が早かったり、水泳の平泳ぎが早くて
学校の代表で県大会に出たことも、一度も褒めたことがない菊女であった。

小学生のとき、学校の代表で隣の市で開かれる大会に出場する時に、
ゼッケンを縫い付けるのさえ、母の菊女は、やってはくれなかった。
まだ、裁縫の腕もない子供なのに、貞江は自分でゼッケンを縫い付けなけれ
ばならなかった。うまく縫い付けられなかったゼッケンを付けたまま
貞江は走った。

あるとき、地域の若者の集まりでバス旅行があった。それに参加した貞江は、
夫となる正章と知り合う。正章は、飛行機の整備士として戦争に行き、
復員していたのだった。

やがてすぐに縁談が起こった。菊女は、正章の両親のことを知っていて
「○○の家の息子なら良いね」と喜んで縁談をすすめた。

昭和21年に父の平八が逝った、その翌年の昭和22年の平八の命日に
貞江は結婚。20歳であった。

貞江は、その強い気性から、父、平八や周りに、
「おまえが男だったら、良かったのになあ・・・」
と言われることが、しばしばあった。

そのたびに、貞江は答えるのだった。
「馬鹿言っちゃいけない。私が男だったら、とっくにどこかに
養子に出されているわ」

実際、母、菊女は、貞江を懐妊中から養子話を進めていた。
出産後、「男だったら欲しかった。女ならやめる」と言われて
断られてしまったのである。
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<参考>「祖母、菊女ノート」Page.3 おまえはいらぬ子
http://blogs.yahoo.co.jp/ummu_majid2006/56810156.html

Page 4. 運命(さだめ)

しかし、海軍大尉のクラタさんは、なぜ貞江だけを看護学校へ
推薦すると言ったのだろう。

クラタ大尉は、何度も学校に通って来ていたのか、と尋ねると、
伯母は「たった一度、講演に来ただけ。私は、ただ一番前に
座って聴いていただけ」

たったそれだけで、クラタ大尉は、貞江を看護学校へ「私が推薦する。
保証人になる」と言って送ったのである。

その後、クラタ大尉は、当時なかなか手に入らないような
めずらしいお菓子を持って、横須賀の看護学校へ入った貞江を
何度か訪ねて来てもくれた。

病院勤めに入っても、なぜか貞江は、新生児室や産婦人科といった、
いわば安全な部門に配属された。伝染病棟に配属になる看護婦ももちろん
いるのである。

当時、コレラが流行り、伝染病棟に配属された看護婦は、貞江の
周りから次々姿を消したのだった。誰それの姿が見えないと思ったら、
みなコレラに感染して亡くなっていたのである。

看護学校の同期の30人は、いつの間にか20人になっていた。

そのような感染病棟に配属されずにいた貞江は、保証人がクラタ大尉で
あったことが大きく作用していたように思えてならなかった。

終戦を迎えて、郷里の信州中野市に戻ってからは、保健婦として
市役所に勤めた。

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