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爲政第二

 二‐二
 
 子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪、
 
 子曰く、詩三百、一言以てこれを蔽(おお)う、曰く、思い邪(よこしま)なし。
 
  孔子曰く、「『詩経』の三百篇から、ただ一句でその全ての意義を覆い得る箇所を抜き出すとすれば、『思い邪なし』ということになるだろう」
 
  現行のテキストでは『詩経』三百五篇、ないしは三百十一篇.端数を落として「詩三百」.この『詩経』を一言をもって評すれば、「思い邪なし」――心の純粋さとでも解釈すべきか――の句が適当であろう、と孔子は説く.
 『詩経』は中国の最も古い詩集で、周代の三千篇にも及ぶ民謡や廟歌を孔子自らが編纂し三百数篇にまとめた、と『史記』には記されている.もっとも、古代中国には編著の明らかでない書物を悉く孔子の手になるものとする風潮があり、『詩経』についても、編集の功績を孔子に帰すべきかどうかは幾分疑わしい.『詩経』全体の構成は、十五の国と地域の民謡を採集した「風」、貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅」、周・魯・商の朝廷において祭祀に用いられた廟歌の詞を収める「頌」に分けられる.このうち所収の半ば以上を「風」――すなわち民謡の類が占めており、その作風はまことに素朴をきわめる.我が国に類似のものを求めれば『万葉集』がこれにあたろうか.
 こうした『詩経』を重んじる孔子の姿勢は並々のものではなかった.泰伯篇に「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」(泰伯第八‐八)と言うように、孔子は教養の基礎を『詩経』に置いている.また陽貨篇では「小子、何ぞ夫の詩を学ぶこと莫きや」と強い語調で『詩経』を学ぶべき由を論じ、あまつさえ「多く鳥獣草木の名を識る」と結ぶにあたっては、教育者としての孔子の卓見にあらためて目を見張る思いである.(陽貨第十七‐九で詳述) 時には「詩三百を誦するも、これに授くるに政を以てして達せず」(子路第十三‐五)と、教養ばかりで世の役に立たない者を批判することもある.これは、こうした逆説を用い得るほどに『詩経』による教育が徹底されていたということの証左ともなろう.孔子とその門弟たち、あるいは彼らの生きた時代そのものが、『詩経』と深く結び付いていたのである.
 孔子の「思い邪なし」という評は、後代の如何なる学説よりも的確に『詩経』の本質を射抜いている.漢代から唐代にかけて行われた『詩経』の解釈はといえば、すべての詩篇におそろしく道徳的な牽強付会を施し、経典としての権威を高めるばかりで、およそ詩情を解するとは言い難いものがあった.宋代に盛んとなった原典重視の研究も儒の軛を逃れんとするものではなく、旧説を離れて詩そのものと向き合ったはずの朱子にしてからが、『詩経』に見出した「淫奔」の心を批判するといった始末である.(要するに、解釈は一新されたが価値観は変わっていない) このように儒教が頑迷固陋をきわめていったのに対して、開祖たる孔子自身の芸術観はそう野暮なものではなかった.八?篇に「武を謂わく、美を尽せり、未だ善を尽くさず」(八?第三‐二五)とあるが、これとて解釈によっては善を尽さぬものにも美を尽したものがあるという審美的な感覚とも捉え得るし、また「子、斉に在りて韶を聞く。三月、肉の味を知らず。曰わく、図らざりき、楽を為すことの斯に至るや」(述而第七‐一三)――音楽に感動したあまり三ヶ月ものあいだ食事を虚しく感じた――という条などは、芸術至上主義的ですらある.孔子は芸術の美的側面を十二分に味わい尽くすことの出来る人間であったに違いない.したがって朱子の言うところの「淫奔」の詩であっても、およそ頽廃に流れず人間の純粋な感情に根ざしているものならば、孔子とて殊更にこれを厭う謂れはない.どころか、そうした生々しさを呑み込んで尚、孔子は『詩経』を愛し、尊んだのであろう.敢えて「思い邪なし」という句を引いたのも、「邪である」とされかねない要素を『詩経』の質朴たる詩篇のなかに認めていたが故ではなかろうか.後代の堅苦しさとは趣を異にする儒教勃興期の瑞々しさが、孔子の引く「思無邪」の三字からまざまざと浮かび上がってくる.
 斯くの如く本条を孔子の簡潔な詩論とする解釈は、すこぶる小気味の良いものであるし、強いて異を唱えるつもりはない.しかしながら、『論語』という書物のなかでこの言葉が置かれている位置はいささか異様であるようにも思われる.為政第二‐一と三が明確に徳治政治の意義を説いているのに、その間に差し挟まれたものが『詩経』の評でしかないというのでは、あまりに取り留めがない.いったい、なぜこの言葉がここに置かれているのか.
 碩学・伊藤仁斎は言う.聖人の道は根本を同じくするはずなのに、『論語』の要は仁であるとされ、『孟子』は性善、『書経』はこれ、『易経』はそれと、煩雑なことこの上ない.表れ方は多端でもよいが、それぞれ帰するべきところは一つで良いのではないか.ここに引かれる「思無邪」という言葉こそが、その一なる根本と言い得るのではないか――と.
 「詩三百、一言以てこれを蔽う、曰く、思い邪なし」という言葉そのものは、額面通り受け取って差支えないだろう.だがそれは、諸学の根本もまた「思い邪なし」の一言をもって貫かれねばならないという仁斎の透徹とした観念によって高次に昇華される.「思い邪なしの一言は、実に聖学の以って始めを成し終りを成す所なり」(伊藤仁斎『論語古義』)とは、蓋し名言である.
 何を望むにせよ、願うにせよ、そこに邪な思いが混じれば、理想は忽ちに気高さを見失う.儒の思想自体が、歴史のなかでそれを証明してしまっている.理想は理想であればこそ、曇りなく輝いていなければならない.徳治政治を称揚する二条に挟まれて「思い邪なし」の言葉があるということは、等閑視すべからざる事実である.そこには、孔子の教えから敷衍して学ぶべき真理が示唆されているように思えてならない.

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「思無邪」、たしか『詩経』の中にある一句ですよね。 『詩経』の個人的な印象としては、「(たしかに)無邪気だね!」です。 それにしても、『詩経』と共に『論語』も読み直さなければと思いました。 話についていけない・・・ 「多識於鳥獸草木之名」、私も感銘を受けた覚えがあります。 孔子はやっぱりすごい人だ!と思った一節、久しぶりに思い出させてもらいました。

2007/3/24(土) 午前 0:26 [ ina*ks*22 ] 返信する

『詩経』の「思無邪」は、「無邪気」ないしは「ひたむき」の意味です.それを孔子は、おそらく高い意味での「純粋さ」に置き換えています.いわゆる断章取義ですね./「多識於鳥獸草木之名」……要するに「マンガの方が漢字覚えられるぞ!」というような、わりとさばけた教育論です.案外さばけているところも孔子の魅力だと思います.

2007/4/9(月) 午後 9:39 [ umschau ] 返信する

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