「召集令状」
私目の親父は、今年で八十八歳の米寿を迎える。週三回の透析に通っているものの、高齢にも拘らず、足腰も丈夫で矍鑠としていて、その元気の良さは私目も負けそうである。そんな親父の趣味と言うか、現在の仕事と言うか、モノを書くことが大好きで、日常の大半を執筆や資料整理の時間にあて、机に向かっていることが多い。そんな親父には負けてしまうのだが、私目も、そんな親父の血筋を幾らか受け継いでいるのかもしれない。
そういう親父の本に、最近あらためて目を通すことが多くなったから不思議だ。歳のせいかもしれぬ。親父の著作といっても、教育評論か戦争に関する著述書ばかりであまりメジャーな出版物ではないのだが、ただそういった執筆活動を根気良く、長年に亘って続けていることは親父ながらも尊敬してしまう。親不孝な息子ゆえ、何時のことだったか忘れてしまったが、確か十年ほど前「菊池寛賞」を受賞した時は親父をあらためて見直したものだった。そんな親父の書いたモノの中から、戦争に纏わる話を取り上げさせてもらって、幾らかの親孝行をしようかなんて思い「親父の戦争」について、伝え聞いた中で「私の戦争」として消化しながら書いてみたい。昭和史の戦争の口伝えを、少しでも多くの人に聴いてもらえれば幸いである。
「召集令状」
戦後の日本には軍隊も兵隊もないのですが、敗戦となるまでの日本男子には国民の義務として、徴兵制があり、だれもが銃を持たされていました。
ところが、私たちのような師範学校の卒業者には短期現役兵という優遇の特典があって、五か月の現役後は第一国民兵役に編入となり、実質的には以後の兵役は免除されていたのです。今でこそさらけ出して言えますが、師範学校への入学をひとつの兵役逃避と考えていた人もいたのです。
私たちの同期生はこの制度のおかげで、過酷な戦場に赴いた者はだれもいません。私ひとりだけが召集を受けて教壇からルソン戦線へやられました。
これはいったい、どんな理由で、どんなからくりがあって、私だけが名誉ある皇軍兵士となり、九死に一生の戦場に立ったのでしょうか。同期会をするたびに「お前は貧乏くじを引いたわけだよ」と友人が慰めてくれます。
私に思い当たるといえば、戦時下なのに児童文化運動に熱を入れ、児童に綴り方を書かせて生活指導をしたり、放送局専属の児童劇団を編成したり、個人で文芸活動をしたり、廃刊や制限で入手しにくくなった出版物を書店に予約したり、こんな行動を何者かが、ひそかに目を付け、たくらんでいたのでしょうか。
考えれば暗黒の時代でした。だれが私を兵隊にして戦場へ送ったのかは、今でも「なぞ」です。青年教師を自ら任じて熱中した時代でしたが、今、戦時下の当時を思い起こすたびに姿の見えない陰のうごめきに恐れおののくのです。(宗方通信167/1986年8月)
親父が徴兵された時の事情を私目もこの文章で初めて知ったのだが、戦時下の異常な事態では当然?あるかもしれぬ話なのだろう。「内偵調査」「尾行」「盗聴」「密告」が公然と行なわれていた中で、同僚或いは隣組の人間は必然的に「疑心暗鬼」となり、お互いがお互いを見張るという関係を作らされてしまう。ちょっとした「不注意?」(親父の場合はかなり作為的であったのだろうと思われるのだが)で人生を変えられてしまう。
戦争は、戦場だけではなく、日常の生活の中にも異常なる世界を作り上げてしまう。三年前だったかに成立してしまった有事関連三法も、まさに私たちの生活の根本をも変えてしまう法律であるはずで、戦争へ向かう準備は着々と進んでいる。そういえば、三法とは別の「国民保護法」も平成六年度中に各自治体で計画策定というスキームだったはずだ。さらに「共謀罪関連法案」の強行採決も間近と言う。米軍再編による日米同盟の強化も含め、憲法改正の流れを見ても「軍靴の足音」は、私たちのすぐ傍に聞こえてきている。このまま行くと、いつの日か「徴兵制」が若い人を戦地へとさらっていくことになるかもしれない。
「徴兵制」のタイトルに目を奪われたのは単なる偶然ではなかったのかもしれない。「軍靴の足音」が響いてきているからこそ気になっていたのかもしれぬと思うと、前の戦争の記憶が消滅してしまわぬうちに、私たちの戦後世代が、その戦争で何が為され、何が起きたかということを次の世代へと伝えていかねばならぬ。
「戦争はいついかなる時でも凄惨で、かつ悲惨だ」
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