|
■ 紫陽花を見ながら歩く - A STROLL AROUND MY HOME TOWN 50 皆さんお久しぶりです。このところブログの更新頻度が低くなっていますが、とりあえず生きております。時間があれば適当に映画を見たり(自宅でネット配信のを見たり、録りだめしてたものを見たり)、美術館などにもたまには足を運んでいます。なので書くネタがないわけではありません。 でも、ブログの記事って、ある程度テンションが高まっている時というか、気合が入ってる時でないと、なかなか書き始められなかったりするんですよね。そんなわけで、以前撮った紫陽花の花の写真でもUPしようと思います。 今頃になって紫陽花の写真?って思われる方もいらっしゃるでしょうね。実際、この写真は6月に撮ったものだったりします(^^;とはいえ、紫陽花は花が咲いている期間が非常に長い植物だそうで。それこそ、少々くたびれモードに入り、花びらの色も変化しながらも、今でも結構咲いているのを見かけたりします。というか冬になっても、カラッカラに干からびた状態の花びらが残っているのを結構見かけますよね。非常に丈夫な花なんだなぁと感じます。 そもそも紫陽花は、花びらの色も色々とありますよね。それこそ、同じ株であっても、違う色の花が咲く事もあるそうで。あれは生えている場所の土のpH(酸性度)によって、花びらの色素が影響を受けるからなのだとか。面白いものですね。私はそんな紫陽花を見るのが、結構好きだったりします。 ちなみに、紫陽花を見ていると、花びらの上で2種類のバッタを見つけました。3枚目の茶色いものは、体長3cmほど。次の緑色のものは、体長1〜1.5cm程度しかないという小さなものでした。(紫陽花の花びらに、すっぽりと体が入ってしまうほどです。)ツユムシの仲間なのでしょうか?マクロで撮ろうとカメラを近づけても大人しくしてくれてたので助かりました。(虫にとっては、変なモノが近づいて怖くて身動きがとれなかっただけかもしれませんけどね。) |
全体表示
-
詳細
コメント(0)
|
■ 目の前の光景に感謝しながら歩く - A STROLL AROUND MY HOME TOWN 49 先日、再び地元を散歩してきました。そう、例によって桜の写真を撮ろうと思ったわけです。実はこの日の2日前に結構な量の雨が降ったので、桜の花が散ってしまっていないか心配していました。 しかし、この付近の桜は先週咲き始めたばかりだったためか、そんなに花は散らずに済んだようです。というか、丁度満開のタイミングだったようです。 可能なら真っ青な空をバックに鮮やかな桜を撮りたかったのですが、この日はずっと薄曇。たまに強い陽射しが現れる事もあったのですが、散歩しながらいろいろな場所へ移動したので、撮影したいタイミングと合わない事の方が多かったりしました。 でも、満開の桜を見る事が出来ただけでも有難い話かもしれませんね。それこそ、満開の時期は短く、あと数日もすれば、過ぎ去ってしまうわけですから・・・。 |
|
■ やっぱり今年も勇み足? - A STROLL AROUND MY HOME TOWN 48 4月に入り、新しい年度が始まりましたね。そう、春です。春なのです。春と言えば桜の季節なのです。という事で、桜の写真を撮ろうと、何時ものように地元をてくてくと散策してきました。 ・・・とはいっても、これらの撮影したのは3月末だったりします。そのせいか、期待していたほど開花はしてくれていませんでした。ちなみに県内の名古屋市では既に開花宣言が出た数日後の事であったので、そろそろ豊田市でも咲き出すのではないかなぁ・・・と思ったんですけど、勇み足だったようです(^^; とはいえ、この日は天気に恵まれて、歩いていて非常に気持ちよかったです。それは他の生き物たちにとっても同じ事なんでしょうね。歩いていたら、地面に動物の抜毛が大量に落ちていました。暖かくなって毛が生え変わる時期なので、ご近所で飼われているペットが、地面に体をこすり付けながら、ご主人さんと散歩を楽しんでいたのかもしれませんね。 もう一つ印象に残った事がありました。写真を撮影しながら散歩してると、小さな女の子の声が聞こえてきたのです。「あちらから、男の人と、女の人が手をつないで歩いてきますよ。恋人同士がデートしているのでしょうか。いいですねえ♪」とか言っているのです。周りを見回すと、確かに大学生くらいのカップルを見かけました。 さらに「こんどは男の人が写真を撮っていますよ。桜を撮っているのでしょうか。」なんて言っているではありませんか。どうやらその女の子は、目に入ってきた状況を実況しながら歩いてるようだったのです。(ちなみに、その男の人というのは、どうやら私の事であった模様。) しかも、暫く間を置いた後「あっ、さっきのお兄さんが、写真を撮っていますよ。今度は桜じゃない花を撮ってますね」なんて声まで聞こえてきました。中年の域に入っている私のコトを、お兄さんと言ってくれますか、そうですか、そうですか。大変よく出来たお嬢さんですね!(笑) 気になって振り向いてみると、その子は小学生にもなってないような小さな女の子。一緒に散歩していたお母さんが、恥ずかしそうにしながら「すみません・・・・(^^;」なんて仰っていましたが、こちらとしてはなんだか微笑ましかったです。 そんなこんなで、お昼前ぐらいから夕方にかけてのんびり歩いていると、午前中には二分咲きくらいだった桜の木が、一気に六〜七分ほど開花していました。桜の花は、たった1日で開花が進む事はあるとはいえ、何も帰り際の時間になってこんなに咲かなくても・・・と、少々悔しい思いもしてしまいました。 でも、そのように思いどおりにならないからこそ、満開の様子を見れた時に嬉しさが倍増するのかもしれませんね。とはいえ、毎年この時期になると、少しでも早く桜を見たいと思ってしまい、ついつい勇み足になってしまう私でした。 |
|
■ わたしたちのすがた、いのちのゆくえ / 豊田市美術館 ■ この街の100年と、美術館の20年 / 開館20周年記念 コレクション展Ⅰ ■ 豊田市美術館公式HP ■ 2015年10月10日[土]−12月6日[日] ソフィ・カルの展覧会と共に、特別常設展も開催されていました。これは、豊田市美術館のリニューアルオープンを記念し、同館の所蔵作品を制作された歴史順に並べるだけでなく、豊田市の歴史に関する写真・資料なども併せて展示する事で、この美術館の歴史20年を振り返ろうというものでした。 ちなみに同館では、今回のように、歴史順で作品展示をする事は初めての事だったそうです。とはいえ、展示作品の殆どは、以前から同館で所蔵されているコレクション作品なので、何度かこの施設に訪れている人は、新鮮な感覚は無かったかもしれません。でも、ソフィ・カル展に比べ、展示作品数・会場の広さと共に、楽に3倍以上のボリュームがあったため、人によってはこちらの展覧会の方が強く印象に残った方もいらっしゃったかもしれませんね。 ちなみに、同館所蔵のコレクション作品は「フラッシュ無し、動画無し、三脚無し」であれば写真撮影が許可されています。(商用でなければブログ掲載も可。)そこで、何時ものようにいつくかの作品を撮影してきたのでUPしたいと思います。 ■ アフリカの文化神話 / 1984年 / トニー・クラッグ 拾ったプラスチックゴミで作られた作品です。様々な形のゴミを、人の形に見えるよう壁面に貼り付けられています。かなりの高さがあり、巨人のシルエットであるかのようです。 普段この作品は展示されていないので、この展覧会のためにわざわざ貼り付けたんでしょうね。設計図(このプラスチックは、この位置に置く)みたいなものがあるんでしょうか? ■ 分泌 / 1996-97年 / トニー・クラッグ こちらは巨大な球体と湾曲してうねった面が融合した意味不明な形をした作品です。近づいて見てみると、数え切れないくらいの数に及ぶ、膨大な数のサイコロを並べてポリスチレン樹脂で固められた作品だと分ります。とはいえ、何で出来ているのか判っても、何を意味して、何を伝えたい作品なのかはサッパリ分りません。というか、そうした意味も意図も何もない、ただ奇妙な物を形作ってみたかっただけなのかもしれませんが・・・。 でも。そんなよくわからない作品の一部の球体部分を見てみると、結構綺麗にサイコロが並んでいたので、クローズUP写真を撮らせていただきました。(ちなみにこれは、球面の凸部分ではなく、凹み部分だったりします。) ■ 不在との対話 / 2009年 / 塩田千春 日本の現代アート作家の中では、世界的にもそれなりの知名度がある方の1人ではないかと思います。実際、この糸を多様した作風はインパクトがありますよね。 中身が無いのに立体的な白い服。それはウエディングドレスを意図したものなのでしょうか。この作品における赤い糸は、どこか「血」や「拭いきれないしがらみ」「無垢から無垢ではない存在への変貌」を連想させられます。 ■ ははのふた / 下道基行 これは、同館の図書室の部屋の中で展示されていた写真作品です。そのため、常設特別展の枠外の作品であると言った方が良いかもしれません。(写真撮影は可との確認ずみ)しかし、今回見た全ての作品(ソフィ・カル展も含む)の中で、最も新鮮に感じ、印象に残った作品です。 2012年に結婚した事を期に、妻の実家へ移り住み、妻と妻の母(義母)と3人暮らしをするようになった作者が、普段の何気ない生活の中で義母が行う「習慣」を写真に撮ったものなのだとか。どうやらその方の義母さんは、食器や容器などの上に、蓋代わりに色々なモノを乗せる「クセ」があるようなのです・・・。 まあ、お茶やコーヒーなどを入れたばかりのコップや容器に、埃が入らないように何かをかぶせたくなる瞬間ってありますよね。それこそ特に急用が発生した場合などはティッシュなどをかぶせたりして、その場をしのぐ事もあると思います。 でも、その義母さんは、そうした蓋代わりに用いるものを用いるクセがあるようなんですね。しかも、そうした代用フタを行うのは、コップなどだけではないようなのです。お湯を沸かせるケトルなどは専用のフタがあるはずなのに、お皿状のようなもの?を乗っけて代用していたりするようなのです。さらには、ガラスの灰皿っぽいもの?を用いたりする時もある模様なのです・・・。 まあ、近場にあるものをとりあえず使う事もあるのかもしれません。でも、妙にサイズがピッタリ合ったものが乗っかっている事もあったったりするようなんですよね・・・。それが妙に可笑しかったりするのです。 そんな写真を見てると、「サイズが合うものを探すくらいなら、本来のフタを探せばいいのに・・。いや、本来のものを探しても見つからない時に、いいサイズのものがあったので使ってるのか?というか、使ってみたら、案外調子よくて常用していたりするのだろうか?それとも、完全に無意識の為せる技なのだろうか・・・。」などと、勝手に想像というか、妄想が広がってしまいました。 それと同時に、これが自分自身の実の母親がしている行為なら、恥ずかしく感じたり、物忘れがはじまっているのではないかと心配になったりして「母さん、ちゃんと正式なフタを探した方がいいよ」と諭したりしてしまうかもしれないないと思ったり・・・。でも、それが赤の他人のやる事となると、どこか面白おかしく感じてしまったり、微笑ましく感じてしまったりするんですよね・・・。 血の繋がった自らの母だと、理想的な振る舞いとうか、常識というものを無意識に押し付けてしまう部分があるのでしょうか・・・。他人であれば、そうした行為に対しても許容範囲が広がって、素直に楽しめてしまうのでしょうか・・・。自分自身にそうした感覚や感情の違いが生まれてしまう事に気づかされて、ハッとさせられました。 ちなみに、撮影した下道氏は、そうした義母さんの行為を微笑ましく受け入れているのでしょうね。そうでなくては、こんな風に写真を撮ったりできないでしょうから。出来るものならば、私もそうした心の余裕を持てる人になりたいものです。 |
|
■ ソフィ・カル-最後のとき/最初のとき / 豊田市美術館 ■ 豊田市美術館HP ■ 2015年10月10日[土]−12月6日[日] ようやく、今年訪れた美術展の感想を書ける段階になりました。でも、自分でも驚く事に、今年はこの展覧会しか訪れていないんですよね(^^: 豊田市美術館は、この展覧会が行われるまで、約1年の設備系リニューアル工事に伴い、休館してたわけですし。(岡崎美術博覧会も同様にリニューアル工事に入ってしまってます。)それに、名古屋市にある幾つかの美術館での展覧会は、今期においてはそんなに興味を引く展覧会が開催されていなくて・・・。 そんなわけで、久々に美術館に訪れる事になったわけです。とはいえリニューアル後の第一弾企画は、同館で人気の高い「ソフィ・カル」の展覧会。期待を高まらせて訪れました・・・。 ■ 感想 結論から先に述べます。誤解を恐れずに、率直に言わせていただくと、ソフィという人は、様々な事に好奇心が強い、企画プロテューサーのような人であったという事を実感させられた展覧会でした。それこそ、彼女の作品はTVの番組や雑誌記事と同じような、メディアにおけるコンテンツのようなものと変わらないのかもしれません。 実際、彼女自身は、この展覧会における作品において、写真においても、言葉においても、映像においても、彼女自身が信じる「美」、見せたい「美」を提示しているわけではないんですよね。それを示しているのは「目の見えない人」「目が見えなくなった人」「今まで見たことの無かったものを見た人」といった、「他者」であるわけです。しかもそれは、彼女自身の価値観を代弁してもらっているわけでもありません。あくまでも、「他者」が、その人自身の価値観を示しているだけなのです。 とはいえ、その作品が提示している内容に価値が無いわけではありません。「盲目の人々」という作品群は、うまれつき目の見えない人に「貴方にとってうつくしいものとは何か」を尋ね、得る事の出来た返答を通じて、人が感じる美とは何かを、作品を見る人に問いかけてくる力を持っています。それこそ、私はその作品の一つを目にすると、目頭が熱くなる事があります。ここで、その作品に添えられた、目の見えない方の言葉を紹介させていただきます。 「緑はうつくしい。私が何かを好きになるたびに、いつも、人はそれを緑だと言います。草は緑だし、木々も、葉も、自然もまた緑です。私は緑の服を着たい。」 この言葉を目にすると、本来の美しさとは、誰しもが感じる心地よさ、体感として得られる安らぎや癒しを感じる心であり、単に視覚情報にだけ頼るものではない根源的で素直な感覚だという事を認識させられるのです。 無論、目の見えない人にとって「うつくしいもの」は、この限りではありません。目の見えない方それぞれ意見が異なります。世界に対する美意識、住環境に対する美意識、自身の装いに対する美意識、異性に対する美意識、など様々なものが示されるのです。それと同時に、それぞれの価値観が、周りに暮らしているであろう家族、友人、知人などによる価値観の影響も受けていると知らされます。 そんな彼らが示す価値観は、難解で意味不明な価値観を示す事に懸命な現代アートの世界とは全く間逆の世界だったりするわけですよね。現代アート作品の多い美術館で、そうしたメッセージを示す作品に出会うというのは、ちょっとシニカルな感じもするわけです。そして、現代の美、真実の美というものに疑問を投げかける作品が、実にシンプルな作品である事に、感銘を受けたりするわけです。 では、こうした作品を生み出したソフィは、「生まれつき目の見えない人」を追い続けて、その価値観を通して美を見つめなおすという道を極めてゆくのだろうか・・・というと、そうでもないんですよね。 次ぎに取り組んでいるのは、「不慮の事故、病などで、ある時から目が見えなくなった人が、最後に見た映像や、心に残っている映像」や「TVすらない貧困生活を送る砂漠の民が、生まれて初めて海を見た時の表情」だったりするわけです。見えなくなった人の段階までならまだしも、最後の企画ともなれば、もう盲目である事の関連性すらなくなってしまっています。しかも、最後の「海を見る」という映像作品は、自身でビデオカメラを回して撮っているわけではなく、別の人がカメラマンをやっていたようですね。さらに、このBLINDシリーズは、これで一旦終了するようで・・・。 そうした展開の流れを見ると、ソフィ・カルという人は、「視覚情報による美とは何か?」とか、「人が感じる根源的な美とは何か?」に興味があるわけではないのかな?という疑問が沸いてきたわけです。実際、ソフィ・カル名義で発行されている洋書などをペラペラとめくってみると、自身がひらめいたアイデアを元に変わった企画物の写真を撮ったり、自分自身で奇抜な格好のパフォーマンスをされたりしているようで・・・。しかも、それらの作品は、目が見えない云々とは全く関係性を見出せないものばかりだったりするわけで・・・。 そうした様子を見ていると、美を追求する生粋のアーティストというより、コンテンツ作品を生み出すプロデューサー的なアーティストといった感じの人なのではないか?と思うようになりました。そして、「盲目の人々」は、彼女の好奇心や興味本位から生じた、非常に奇跡的な作品だったりするのかもしれませんね・・・。 |








