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マジですか(笑)ついにヤッターマンまで実写化ですか(笑)アニメの実写化という意味で、キャシャーンやデビルマンという失敗例が頭をよぎりますが、何故かヤッターマンと聞くだけで得も言えぬ笑いと期待がこみ上げてきてしまいます。それこそ焦点は 「ドロンジョさまは誰がやる!?」 という点ではないでしょうか。 三池監督はアンジェリーナ・ジョリーにオファーを出したそうですが、いくら何でも彼女が受ける訳がないでしょう(笑)と、言うか、全然イメージが違いますし。いくら宣伝目的のネタとは言え、過ぎた話題作りにも感じてしまいます。とは言え、やはり「ドロンジョさまは誰がやる!?」という所は気になります。イメージからすれば・・・ 1)杉本彩 お色気やアクションは問題無し(笑)でも、あの強烈なギャグをこなせるか?能天気さが足りない?あと年齢的にも・・・?声が低いのもイメージと違ってネックか? 2)藤原紀香 お色気もアクションもギャグもこなしそう。でも独特の哀愁感をかもし出せそうに無い? 3)倖田來未 エロカワと言う言葉を生み、若い観客へのアピールは上の2人よりも強いか。でも、リアルタイムで見た世代とのジェネレーションギャップがありすぎ? 4)飯島愛 お色気もギャグも行けそうだが、アクションはダメそう。というか、芸能界引退したばかり・・・。 5)梨花 ギャグはいけそうだが、他の面でイメージとかけ離れてそう・・・でもトーンの高い声は近いかも。 6)青田典子 お色気もギャグも行けそうだが、アクションはダメそう。バブリーなイメージが合う?合わない?? と、いった人が頭によぎります。ま、この6人に関わらず、色々な人が思い浮かぶ訳ですが・・・ ボンテージ衣装が似合う?からといって、安易にインリンとかにはオファーしないで欲しいと願っております(笑)。また、他のキャラも気になる所ですよね。(って言うか、主人公2人よりも悪の3人組が気になってしまう作品って・・・) 可能なら、当時の主題歌をそのまま復刻して欲しいですね。ドクロベーさまの声はもちろん、効果音もオリジナルを尊重して欲しいですね。あと、「説明しよう!!」の富山敬氏の声も聞きたい所です・・・(お亡くなりになられていて、とても残念ですね)ちなみに主題歌は50万枚も売れたヒット作だったそうです。 ちなみにこの映画化の件、友人と電話で話しました。すると、友人と彼女さんとの面白い会話を教えてくれました。彼女さんが子供だった頃、「ゴミ収集車のオジサンが手すりに捕まってるのを見てカッコイイって思ってた」そうですw 確かにヤッターマンみたいですよね。その気持ち、凄く良く判ります(笑)
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コミック・アニメ
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映画を創る 宮崎駿・創作の秘密 / プロフェッショナル 仕事の流儀先日、宮崎駿・最新作の製作発表がされました。ハウルをもって長編アニメの世界から身を引くと言っていた宮崎駿が復活する。いやがおうでも気になる話題です。今回の放送は、その宮崎駿・監督に映画製作の初期段階から密着取材し、有名なイメージボードの製作過程や宮崎氏の発想・考え方に迫るというもの。 宮崎駿氏は去年2月イギリス旅行で訪れたテート・ブリテンでラファエル前派と呼ばれる画家たちの油絵を見て大きな衝撃を受けたと言います。その1枚「オフィーリア」(1852)ジョン・エヴァレット・ミレイ。細部まで丹念に描きこまれた画面、光の加減によって見え方が微妙に変わる油絵独特の質感に圧倒されたとの事。 「なんだ、彼らが全部やってた事を下手糞がやってんだって思ったわけよね。驚嘆すべき時間だったんだけど。ああ、俺達のアニメーションは今までやってきた方向でこのまま行ってもやっぱりダメだって良く判った。自分達が薄々感じているもんなんだけど。いや、俺は感じてる。もうこれ以上行きようが無いって。」 そうした思いのせいか、本作では今まで培って来た精度の高い濃密な表現に背を向け、素朴さを目指すと言います。一つの頂点を極めたと感じていた表現方法は、実は過去にそれ以上の存在があった。さらに現代のその表現方法は、様々な意味で限界がある。とはいえ過去に作り出したものが全てではない。今どうであるかが大事だ。ならば、新たな表現を画策したい。新たなアニメの表現方法を生み出したい。そうした生粋のクリエイターとしての血・プライドが、新たなモチベーションを沸き立てたのかもしれません。 しかし新作を作る理由はそれだけでは無いようです。いや、本当の理由は別な所にあると言えるのかもしれません。番組では具体的な発言はされていませんが、既に下記のような報道がされています。デイリースポーツニュース Yahoo!Japan映画ニュース 主人公のモデルは宮崎監督の長男・吾朗氏(40)の幼少期。吾朗氏が「ゲド戦記」で映画監督デビューした事を、宮崎監督は自分への反抗ととらえ「こんなことになったのは吾朗が5歳の時、仕事ばかりで付き合っていなかったからだ。二度と吾朗みたいな子をつくらないために」と反省の気持ちを込めているとの事。アニメの製作経験が無いにも関わらず、監督を務めた吾郎氏。地道に現場を支えていた人達を飛び越えいきなり監督を勤めた事で様々な人々から疑問・批判を浴び、その映画の評価もかんばしくない結果となりました。宮崎駿監督は吾郎氏のその行為を不愉快と感じ、最初から猛反対していたと聞きます。 そんな宮崎氏は、吾郎氏のゲド戦記の初号上映(完成試写会)の際、1時間程度で途中で抜け出し、 「気持ちで映画を作っちゃいけない」「3時間以上座っていたかのようだ」と感想をもらしました。 そして再び席に戻り、終わりまで見届けた後に「僕は(作品を通じて)自分の子供を見ていたよ」「大人になってない」とも・・・。 とはいえ、後日「素直な作り方でよかった」とスタッフを通じて、宮崎氏は吾郎氏に感想を伝えたとの事。その言葉はゲド戦記に対する評価としてYOMIURI ONLINE ニュースなどで報道もされました。しかし、その感想には続きがありました。 「初めてにしては良くやったっていうののは演出にとって屈辱だからね。この1本で世の中を変えようと思ってやんなきゃいけないんだから。変わりゃしないんだけど。変わらないけど、そう思ってやるのがね映画を作るって事だから。」ゲド戦記公開時に報道されていた例の言葉は、決して褒める意味で発言されたものではなかったようです。 宮崎氏は「映画を作るという事」に、いつもこのように向き合うと言っていました。「正直に作んなきゃいけないんですよ。裸になって。本当に。これは娯楽映画だからって作っていても、実はその人間の根源的な思想がよく出てしまうものなんです。出すまいと思っても出ちゃうんですよ。それで隠して作るとしっぺ返しが本人にだけ来るんですよ。どういう風に来るかっていったら、やっぱり正直に作らなかったというしっぺ返しが来るんです。自分にダメージが来るんですよ。だから映画作れなくなりますよ。」「理想を失わない現実主義者にならないといけないんです。理想の無い現実主義者なら幾らでもいるんです。理想が無い現実主義者って最低って事だからね。そういう現場にしたくないですよ。」 監督という役割・新たな作品を演出するという事は、何かしら世の中に新しいものを見せなければならない。例え世間から批評される事となろうと、誰か(宮崎駿)のコピーなどではなく、自らの信念・理想を描いてみせなければならない。という事でしょうか。確かにそうでしょう。そうした理想なくては新しいものなど生み出せるはずもなく、新しい物を生み出せない者などクリエイターとは呼べないかもしれません。それこそ、宮崎氏は自らが「新たな表現」をもって映画作りをする姿を見せて、吾郎氏にその事を伝えたいのかもしれません。 とは言え”それ”を”今の(大人の)息子”に伝えるためにわざわざ映画を作るというのも・・・。それこそ、ゲド及び新作に関わるスタッフは、この作品をどのような思いで見つめる事となるのでしょう。先の宮崎氏の発言を聞けば聞くほど、息子を監督に祭り上げた鈴木プロデユーサーと大喧嘩して、何としても息子の監督就任を取り下げるべきだったのではないかと感じます。失礼な表現かもしれませんが、摂政(鈴木P)に、いいように踊らされる皇族(宮崎家)であるかのような印象すら受けてしまう程・・・。それこそ今回の宮崎駿の行動も、例の鈴木プロデユーサーにそそのかされた、若しくは思う壺だったりするのではないかと勘ぐってしまいます。 今回の作品、新たな表現というものが気になりつつも、非常に複雑な思いを抱いてしまいますね。
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その3からの続きです。 ■ コミック版、ナウシカを終えた際、宮崎監督が考えていた事とは。
元々、環境保護とか、生態系をめぐっての話を「ナウシカ」で描こうと思って始めたのではない。始めは砂漠を舞台にして描こうと思っていて、絵にしてみると面白くないから、じゃあ森にしたら、これなら納得できるといってやったら、ああいう話になっていった。 神様を前提にすれば、世界は説明できる。でも、自分にはそれは出来ない。なのに人間とか生命とか踏み込みたくない領域にはいってしまった。人間同士の葛藤や矛盾として、世界を理解するならなんとかなるけど、そのレベルじゃすまなくなっている自分自身がいる。そうなると確信をもって言える事なんて何ももっていいない。破壊的な巨神兵から「ママ」と呼びかけられたりしたら、いったいどうるんだろうと考えるだけで、頭がクラクラする。ナウシカ本人の当惑はそのまま自分の当惑である。 力は、実は技術で作り出してきたものが殆ど。技術はそれ自体が中立で、無垢であると思う。自動車なんかと同じ。運転者に忠実で献身的である。 機械に心は無いと安心しているけれど、実は人は機械に心を与えている。忠実な心、無垢な献身、自己犠牲は、どんなに凶悪な主人にも犬が命令通り動くのとおなじで、機械の本質となっている。機械に人間は心を与えているという考え方がアシモフの「ロボット3原則」の元になっていると思う。ナウシカの巨神兵は、発想自体ごくありふれたもの。ただ、〈無垢さ〉を見える形で与えた途端、手に負えないものになってしまった。与えたのは、自分に無垢なものへの強い憧れがあるからなのだろう。 こういう作品を書いていると、自分の中に浮かんでくる思い付きや取り留めない断片も、自分にとって何かあると思うしかない。作品の構成は破綻しても、その断片を忘れるわけにはいかない。 人間の中の意味があると言われている色々な思想とか信条とかを含めた属性というか、そういうものの多くが、実は自然の中にあるのではないだろうか・・・。僕等には色々な煩悩が発生してこんがらがってくるのだけれど、そういう煩悩を越えて純粋な所へいきたいろ思うと、そこら辺の石ころとか水の粒とか、そういうところに辿り着いていきそうな予感がして恐ろしい。 でも、こういう事自体、言葉にしてしまった途端に、全部まがまがしい宗教になってしまう。自分はそんな境地に達したワケでも何でも無いのに、とても描けるわけがない。つまるところ、人間よりも巨神兵のほうが可愛く思えてきたりする。 最後になって、それだけの事を背負っていたナウシカという娘が、果たして普通の生活に戻れるのか。そういう人物が頭がおかしくもならずに生きていけるのかどうか。もう元にはもどれないだろうけれど、そこにい続ける事はたしかだろう。そこに立ち会うだろうという、そういうことしか判らない。 言葉を書き写してしまった瞬間に、それはもう変質し始めているのだろう。どうしたって全部うそ臭くなるから、ナウシカに言わせるのはやめよう。「私は嘘をついてゆこう・・・」ナウシカの決心。その方が自分の主人公に相応しい、そういう感じになってしまった。それが彼女の周りにいる生命に対する愛情なんだろうと思うしかない。 こっちが正義だから、相手を叩きつぶして勝って、それで平和になるだろうというのは嘘だ。確かに善い事と悪い事がある。だけど善い事をした人が良い人ではない。「善い事をした」という事。次の瞬間には悪い事もする。それが人間だと思わないと、あらゆる判断を間違える。政治的な判断とか、自分自身についても。 どうやらこうした感覚は、執筆中に起きたユーゴスラビア内戦、それを誘発させたソ連の崩壊に影響を受けた部分が多いようです。 もうやらないだろうと思っていた事を人は平気でおこなってしまう。あれだけ酷い事をやってきた場所だから、もう飽きていると思ったら飽きていない。人間というものは飽きないものだという事が判って、自分の認識の甘さを教えられた。戦争というものは正義みたいなものがあっても、ひとたび始めるとどんな戦争でも腐っていく。マルクス主義はハッキリ捨てた。捨てざるを得なかったというか、これは間違いだ、それでモノを見てはいけないという風に決めた。(これはちょっとしんどい事だが)
たとえば、当時ナウシカがお姫様であるという事だけでも、自分に躊躇いがあった。ナウシカはエリート階級なのではないかと指摘されることが予想され理論武装もした。しかし、そんな事はどうでも良くなってしまった。どこで生まれてもいい。もうそういう事で論じあう気はない。下らないヤツはどんな階級にうまれても下らないし、いいやつはどんな階級に生まれてもいいやつだ。世の中は正しいとか正しくないでなく、いいやつかいいやつでないか、友達になりたいかなりたくないか。そういう人間しかいないのだ。もう、階級的にモノを見るのは止めた。労働者だから正しいなんて嘘。大衆はいくらでも馬鹿な事をやる。世論調査も信用できない。 そういう事も含めて、ごく当たり前のところにまた戻るだけ。目から鱗が落ちるような考え方なんかではなく、これまで散々言われてきたことで、そこに自分がもう一度戻るのだと考えると暗い気持ちになる。でもそれを引き受けざるを得ないと思っている。自分の責任でモノを見ていこうと。 成る程・・・そういう意識でいたのですか・・・と、いった感じです。 聖人などいない。人間とは悲しくも愚かな生き物である。誰でも過ちは犯すものである。他人の全てを理解する事など出来ず、容易く情報に翻弄されてしまう。他人に判断責任を押し付け、平気で他人の判断につられ扇動されていくような無責任な事はしたくない。自らがその扇動を起こすような人間にもなりたくない。だからこそ、本当の本質を見つめていく努力をしていこう。その本質を見つめていく行為を、自らの責任で行なっていこう。最後の判断は自分の感性を信じたい・・・。自分の感性で自分の全ての責任を取っていきたい・・・と、いう事でしょうか。 どこか達観しているというか、諦めてすらいるというのか・・・いや、自己責任に対する強烈な意識とでもいうのか・・・上手く言えないのですが、そういうものを感じました。少し寂しい気持ちではありますが・・・。コミックのラストを読んだ時、ナウシカに背負わせてしまったモノの重さ、このようなラストに導いてしまった事に驚いたのですが、そうならざるを得なかったといったところなのでしょうね。 宮崎氏は、原作進行中に製作したアニメ版と大幅にストーリーが違うが、仮にコミックが終わった後にアニメを作るハメになていても、多分今あるアニメ版と同じ内容のものしか作れないだろう。限られた上映時間枠の中で原作を解体し、エッセンスを再構築すると、ああいう形にしか出来ない。特に自らの関わった原作となると難しい。無論、今後、アニメを作り直す気など全く無いと述べていました。今は、その言葉の意味が良く判ります。以前はナウシカのコミックの完全映画化を望んでいた私ですが、もうその必要は無いと思うようになりました。 逆に言えば、そうした思いがあるからこそ、もののけ姫のあのラストに繋がったのかもしれないと改めて感じました。 「アシタカは好きだ。でも人間を許す事はできない」 「それでもいい。私と共にいきてくれ」 たとえ誰もが信じあえずとも、信じあえる者だけでも、その道を信じ、共に生きていこうという姿のラストになってしまった事。それは、ナウシカという作品の影響、いや、現実に対する宮崎氏の考えのあわれそのものであるのだと感じました。
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その2からの続きです。 ■ ジブリ作品において、本業の声優ではなく、タレント、芸能人等を活用する理由とは。
結論としては、アニメ声優?の不自然な誇張した声に違和感を感じている。と、いう事によるもののようです。個人的に驚いたのですが、となりのトトロのお父さんの声を充てた「糸井重里」は宮崎駿監督 直々による氏名であったとの事。映画のキャッチコピーのライターとして既に仕事として付き合いのあった彼の声が自然なのではないかと考えたとの事。お父さん役を演じた糸井氏との対談でこう述べています。 ■ 宮崎 声優さんの声を色々きいてみたんですけど、なんか、あったかくてね、子供の事を全面的に理解している父親になりすぎちゃう。昔、「パパは何でも知っている」ってTV番組あったでしょ、30そこそこの親父がそんなになるはずない。自分が父親の体験者でしょ。実際の父親の実態っていうのは”パパは何でもしっている”じゃない。 映画は実際時間の無いところで作っているから、声優さんの器用さに頼っている。しかしどこか欲求不満に成ることも。存在感のなさみたいなところ。特に女の子の声なんかみんな「私、かわいいでしょ」みたいな声をだす。あれはたまらん。なんとかしたいといつも思っている。 ■ 糸井 その存在感の無さみたいなところでいえば、逆にぼくらはアニメっていうのはああじゃないといけないのかなっていうふうに思っていた。芝居もそうだけど、過剰でないと伝わらないでしょ。現実に子供に接しているときは、もっとそっけない。その辺で思っている事と違う事を要求された。むしろ「パパは何でも知っている」なら真似できる。 宮崎氏は声にリアリティを求めたいという事なのでしょう。確かにその意図は判ります。私も変に甘ったるいアニメキャラの声など全く好きではありません。確かにそんな声、普段使うはずがありません。 とは言え、この対談を読んで尚、絵の誇張感に対し声が釣り合わないという事が起きているようにしか思えない作品があります。宮崎アニメは人の体の動き、動植物の動きが非常に滑らかで、かつダイナミックに演出されています。そう、アニメというものは、良くも悪くもこのダイナミズム、誇張感というものは一つの宿命なのでは無いかと思うのです。特に冒険ファンタジー等を主題とする宮崎アニメならそうなのではないでしょうか。 これが「火垂の墓」のような現代劇であれば、声優にそうしたリアリティを求めるのは十分納得出来ます。しかし、舞台そのものが非現実を扱い、キャラクターに非現実を演じさせているというのに、声だけ妙にリアル路線でも・・・。リアル路線が悪いとは言いませんが、キャラクターの表情が怒り狂っているというのに、声量弱弱しく、迫力の無い声をだされても・・・。 もしもリアルな声の声優を使いたいというならば、さらなる人選・オーティションを行いマッチングに勤めるか、もしくは、宮崎アニメのキャラクター演出から非現実性を取り除き、さらなるリアル路線にすべきなのではないでしょうか。そう、どことなく優しいアニメ顔ではなく、リアル路線のキャラクターに変更していかなければ、解決しないのではないか。そのように感じました。 それこそ勢い余って、アイドルとか、有名人ばかり起用しても、そのリアリティを追求している姿勢から逸脱してしまっているのではないか・・・と思ってしまうワケです・・・。 とは言っても、そのジブリ作品も、宮崎氏の息子さんが監督を行なうような世襲を行なってしまったくらいですから、もう、こうした思いなど叶うはずが無いどころか、辺に期待する方が間違ってしまっている状況なのかもしれませんね・・・。そう、もう2度と宮崎駿監督の新作は観れないのかもしれないのですから・・・。 感想はその4へ続きます。
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その1からの続きです。 ■ アニメの製作現場とはいかなるものか。
やはり、お金にならない世界である。ビンボーでもイイ。アニメの世界で生きていければ給料なんて二の次でもイイ。労働環境なんて最悪でもイイ。そういう事を受け入れれないとやっていけない世界である。しかしアニメとは、そうしたアニメーターのより良い作品へのモチベーションと献身的な努力によって支えられてきた。逆に言えば、作品の質とはスタッフの質・スタッフの責任とも言える。 そうした環境を憂い、スタジオジブリを作った。このスタジオで少しでも健康的な製作現場をアニメーターに提供したいという思いと、次世代のアニメーター達を養成する存在になれればと思って作った。 しかしジブリもマンネリ化している(インタビューは1991年の時点)。スタジオは生活の為にいるという保守的な人が多くなってくる。それはジブリが3作品を越え(作業や人間関係が)マンネリ化した事と、経営的(商業的)に上手くいった事による(それが安心感になってしまい、逆に冒険心を失わせている)。自分達が(スタジオを)つぶしてもう一度新たしい現場を作る気力はもう無い(それを行なえるだけの若さはもう無い)。その3点によって新しい人を採用し、研修制度で養成すると同時に、今までのスタッフも社員化してまっとうな会社にしていく努力をしている。給料の上を上げるのではなく、下(底)をあげたのだ。(まだあげきれていないが) ちなみに、アニメーターは最初は誰しもが組織の中の歯車の一つである。そんな人でも関わる作品に対し、様々な感想を持つだろう。しかし、単に批判しているだけではダメだ。作業現場で他人を批判する際に必ず必要な事は、(自分が提案する)代案を実行した方が優れた作品となる事を、大勢のスタッフに納得させるだけの説得力を持つ事である。作業現場は、評論家を必要としない。自分が説得力を持たないときは、発言力を付けるまで歯を食いしばってそのシナリオで作業をするしかない。(が、これは辛い事である)こうした中、自分がやりたい事を少しでも作品に反映させるつもりなら、自分自身がしっかりした土台を持たざるを得ない。ちなみに宮崎監督にとっての土台は、何のために生きていこうとするのかわからないままさまよっている人たちに、元気でやっていけよ、というメッセージを送ることだとの事。 ジブリの存在・・・。ま、ジブリだけではないのでしょうが、アニメの業界においても名作、大作路線のスタジオと、そうでないスタジオとの2極化が進んでいるのではないかと、素人ながら想像します。 その昔、日本初のTVアニメ「鉄腕アトム」を産んだ、手塚治虫は、TV局からの安い受注額に対し、私財をなげうってまでして熱意を込めてアトムを製作したと聞きます。これにより、TVアニメは低コストで出来うるものだという誤った認識がTV業界で定着化してしまい、アニメ業界では手塚治虫の事を「漫画の神様、アニメの貧乏神」と言われると聞きます。 安い値段で製作出来るという、誤った認識が未だにTV業界に残っているのは大きな問題だと思うのですが、ジブリの存在1つだけでそうした状況が変わるものだとはなかなか思えないのも事実。実際、ジブリだけ(またはそれに肩を並べられるだけの力のあるスタジオ)の独り勝ち。といった状況なのでは? それがアニメ業界全体の為になるかと言うと疑問です。ま、まずは自らの仲間内からだけでも環境を良くしようというのは別に悪いワケではありませんが・・・。 また、現在に至る過程で業界の自然淘汰が進んでいるかというと、現実には、夜中にワケの判らないヘンテコアニメが未だ量産されている状況。技術が進み、制作費のコストダウンが実現しているのか?はたまた自虐的な状況にも耐えうる若手オタクアニメーターが、さらに増産されてしまった結果なのでしょうか? ちなみに宮崎氏は、若手アニメーターから(宮崎氏が)自らが想像もしなかった世界を作り出してくれる次世代のクリエイターの出現を期待しているようでした。果たして10年後の現在、そうした願いは叶ったのでしょうか? それこそ現在ではアニメのライバルは同業界のアニメ作品というよりも、ユーザーが能動的にアクションを起こせるゲーム業界の方なのかもしれません。(ちなみに私はゲームはそんなに詳しくありません)とは言えそのゲームも、作りこんだCGを売りにするあまり、本当にゲームをしているのか、それとも映像を見るためにゲームをしているのかワケの判らないものが増えていると聞きます。そういった意味ではアニメとゲームは同質化してきていると言えるのかもしれません。それとも、あくまでアニメは映像作品であり、同様に映像で勝負するハリウッド大作等とマーケットを競う存在という意識でいるべきモノなのでしょうか。 失礼ながら、ジブリはマンネリ化しつつあるように思います。またジブリの中から本当に業界を引っ張っていけるだけのクリエイターが育っているのか疑問です。宮崎氏、高畑氏の両氏の影響力が強すぎて、凄いスキルがあろうとも、その影響下から抜け出せる人、その影響力に面と向かって立ち向かえる人はなかなか出てこないのではないでしょうか。 また、ゲーム業界等も、映画業界も共に似たり寄ったりのものばかり大量生産され、没個性化が進んでいるように思います。仮に時代を変える影響力を与える存在が出てくるとしたら、それはまた別の媒体になるのかもしれませんね。仮にどんな媒体となろうども、クリエイターという人たちには夢を提供する者が背負う責任を念頭において、良作を作り続けていただきたいと思います。 手塚治虫は「漫画の神様、アニメの貧乏神」といわれました。宮崎駿は、将来どのように呼ばれるようになるのでしょうね。 感想はその3へ続きます。
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