2004年 / 日本 / 99分
原作:士郎正宗
監督・脚本:押井守
声優:大塚明夫 / 田中敦子 / 山寺宏一 / 大木民夫 / 仲野裕 / 竹中直人
主題歌 : 伊藤君子「Follow Me」(VideoArts Music) Original Version(SMJI)
イノセンス GHOST IN THE SHELL 2
先日から、GHOST IN THE SHELL からみのネタを扱っているところで、昨日、NHK-BS の、漫画夜話で、この作品が取り上げられていたので、勢いで記事にさせていただきました。(本当は扱うべきか迷ったのですが・・・)この作品は、映画「攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL」の続編にあたります。
高度情報化社会した2032年の世界における、様々なサイバーテロ・ネット犯罪・に対し、攻性の組織として対抗する「公安9課」と呼ばれる組織。その組織から「草薙素子」と呼ばれる存在がいなくなってから3年という年月が過ぎて尚、依然として公安9課のメンバーでありつづけている「バトー」と名乗る存在の、あくまでも人間的な心情を映し出そうとした作品です。
早速ネタばれ有りの感想です。未見の方はお読みにならない方が良いかと思われます。(今回も毒舌です。お許しを・・・)
この作品、難解と言われる事が多いようですね。確かに登場人物達による、独特の台詞まわし(監督、押井守による、押井・節と言うのでしょうか?)の、それら全ての台詞を一語一句理解出来るか?と、言うと、容易ではないと思います。そのためか、凝りに凝った映像の方へ目が行ってしまうようですが、個人的には、映像表現そのものには、特に心が動かされる事はありませんでした。(凄いとは思いますけどね)
確かに映像でのみ伝えれる「 間 」というものは、表現としてあるようにおもいますし、コトバではなく、映像表現だからこそ伝わるものがこの世にはあると思います。が、この作品に関しては、私はあくまで目的ではなく、手段であったと思うし、逆に、そうであって欲しい。と思ってしまいます。
昨晩の番組でも述べられていましたが、この映画は、あくまで「バトー」と名乗る存在の、「素子」への想い・・・未練を描いた作品であり、それ以上でも、それ以下でもないように思います。世界的な評価を得た前作を踏まえ、その上で、その世界を継承する作品を望まれた際、押井守監督本人は、前回の焼きまわしのような思考実験的なテクニカルな未来図をメインに見せたいなどと、微塵も思わなかったのではないでしょうか。
実際、ネットで全てが繋がり、個という存在があやうい世界、というものは、既に前作で描いてしまっていたため、その次の作品としては、物質文明としていきついた世界ではなく、残されたファクターである人間性を描く以外、彼には選択肢が残されていなかったように思います。故に、あの世界におけるもっとも人間的な繋がりを感じさせる関係を暗に示していた、草薙とバトーとの関係で描かざるを得なかったのも理解できます。(単純に、監督が、バトーというキャラクターに思い入れがあったのかもしれませんが)
しかし何故、この映画に対し、我々はそんなに思い入れる事が出来ないのでしょう?(そう感じているのは、私だけでしょうか?)それは結構単純な理由ではないかと思います。
バトーがあそこまで、引きずってしまう程の、素子への思い。その要因とったハズのバトーと素子とのもともとの人間関係というものが、この作品中に上手く描かききれていないのではないか、と思うのです。
故に、バトーにも、草薙にも完全に思い入れる事が出来ないので、心が揺さぶられないのです。これらキャラクターが好き・嫌い・とかのレベルではなく、何故、惹かれるのか?何故、引きずってしまっているのか?が、見えにくいからだと思うのです。
もともと、1作目を観ている事が前提の作品なのでしょうが、その1作目ですら、主人公の素子でさえ、その自己存在に対する不安や疑問は語られようとも、バトーとの関係については、信頼のおけるパートナーの域を脱していないかと思うのです。ましてや、前作の映画で、バトーの心情など、どれだけ具体性を持って示されていたと言えるでしょう。
簡単に言えば、バトーが素子に惚れた理由が、この作品だけで観客に伝わってくるような構成が十分に出来ていないと思うのです。(原作ですら、露骨に描いているワケではないのですから、映画で扱うなら、その辺りをもっと丁寧に描かないとマズかったのではなでしょうか?)で、いきなりこの作品でバトーの未練の思いを見せられても、その動機や要因が十分客観的に伝わっりにくく、感情移入しきれない人が多くなってしまったのではないかと思うのです。
実際、その思い人は、物語の終盤に、以前とは全く異なる姿で、ほんの少し現われるだけ。で、その間に、愛玩ロボットを通じての、人の存在、魂の存在に対する難しいコトバを言われても、なんだかケムに巻かれてしまっているかのように感じる人が多くても、当然なのではないかと・・・。
いや、判るんですよ。バトー、そして、素子というキャラクターの事を思えば思う程、ああいった行動こそが、それぞれのキャラクター性を重視してのものだといえるのを。逆に言えば、それまでに構築されたそれぞれのキャラクター性を重視すればこそ、一種のハードボイルド的な演出をしたかったという事も。ああいった行動しかさせる事が出来なかったであろうという事も。(変に、2人が抱き合ったり、素子が戻ってくるなど、あの時点では有り得ないと思いますし)脳だけがオリジナル、いや、その脳すらこの世から消え去った存在であったとしても、あくまで人間的な純粋性をもった繋がりが、何かしらあるのだと信じたい。いや、あの2人だからこそ、そういった世界の片鱗があって欲しい。確かにそう思います。
そんな心の奥底の繋がりを描きたい作品であるからこそ、恋心を抱くようになった要因をベタに説明したくなかったのであろう。と、いう事も想像できます。逆にそうしたベタな様子を描く事は原作でも行なっていないため、(原作をも含めた)作品の世界観・カラーを変えてしまいかねないインパクトを観客に与えてしまいかねません。
そこで監督は、(攻殻であって、攻殻でない、原作とは全く違う展開であるにもかかわらず)あくまでキャラクターを尊重し、それらに忠実であったために、新たな世界感を見せるとか、あれ以上の男女の愛を描ききれなくなってしまったのかもしれませんね・・・。故に、キャラクターで演じさせる事が難しかったからこそ、エンディングで、Follow Me をかける意味が判るというか、ああいった曲で代弁させざるを得なかったのではないか。と、感じてしまいます。そう感じるからこそ、この話に対して、これ以上厳しく批判するつもりはありません。(え、既に相当に厳しいです??)
この映画、タイトルを「イノセンス」とした時点で、良くも悪くも観客に先入観をもたせてしまったように思われます。結果として私は、本当にイノセンスを感じさせるタルコフスキーの「ソラリス」のに対するような思い入れを、この作品に対して持つには至れませんでした。(結構、期待して観たのですが・・・)もしかするとタイトルが違っていれば、変な先入観を持つ事無くこの映画を楽しむ事が出来たのかもしれません。
昨晩の番組で、この作品のプロデユーサーの方(プロダクションIG社長)が言っていたのですが、この作品は10年後、その凄さ、その価値が改めて見直される事となるような(前作と同じように価値のある)作品になるる事を目指して作られたようですね。私にとっても、今感じているものが、良い意味で変わってくれる事を期待して、またしばらく時が経ってから、見直してみたいと思います・・・。
2006/10/1一部加筆修正しました。
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