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■ デトロイト美術館展 大西洋を渡ったヨーロッパの名画たち / 豊田市美術館 ■ 豊田市美術館公式HP ■ 開催期間:2016年4月27日[水]−2016年6月26日[日] 自動車メーカーの本拠地として有名な豊田市は、GM・フォード・クライスラーのビッグ3が本社を置くデトロイト市と、姉妹都市提携を結んでいるとの事。その姉妹都市提携55周年の記念として、デトロイト美術館から貸し出されたゴッホ、モネ、ルノワール、ゴーギャン、セザンヌ、モディリアーニ、マティス、ピカソなどの名だたる巨匠達の作品が展示されていました。 ■ 感想 私はこの展覧会に訪れるのを、結構楽しみにしていました。というのも、私の地元にある豊田市美術館では、こうした西洋絵画の作品を展示する機会は、そんなに多くないからです。しかも、PRポスターには私の好きなゴッホが採用されているではありませんか。さらに、巨匠と言われる芸術家の作品が複数持ち込まれるとの事。ひょっとして、魅力的な作品に出合えるのではないかと期待していたわけです。そのように思っていた方は、私以外にも多数いらっしゃったようです。私が美術館に訪れたのは平日であったにも拘わらず、非常に多くの来場者で賑わっていました。 しかしながら、今回の展覧会で十分な満足感を得る事が出来ませんでした。主な理由は2つあります。1つは、「魅力的に感じる作品があまりなかった」からです。本当にこのように書くと失礼な事かもしれませんが、私個人が魅力的に感じた作品は、公式HPにも掲載されているゴッホの自画像、ルノワールの裸婦くらいだったのです。もう一つの理由は、「来場者の観覧マナーが気になってしまった」からです。 会場で一番目立っていたのは、ルノワールの「座る浴女」だったと思います。ふくよかな女性を描いたこの作品は、肌の色彩表現が素晴らしく、健康的で若々しい生命感を感じさせるものでした。それこそ、体温を感じるというか、どこか艶っぽいのです。それこそ、数週間前に見た藤田嗣治の透明感のある(しかし冷たさを感じる)「乳白色の肌をした裸婦」とは対極をなすもの。女性の美しさを表現するにしても、感受性や方向性によって色彩表現が大きく異なるのは興味深いものがありますよね。 もう一つ印象に残ったのは、ポスターにも採用されていたゴッホの自画像です。ちなみにその作品は、高さ30cm 横幅20cm程度の大きさしかない、非常に小さな作品でした。無論、キャンバスの大きさで作品の良し悪しが決まるものではありません。寧ろ、それだけ小さな作品であろうとも、ゴッホ独特の筆のタッチが感じられる作品は、他の作品に負けない強い個性と存在感が感じられました。 しかしながら、それらの作品の前は常に人だかりの山で、作品に近づく事は容易ではありませんでした。しかも、今回のデトロイト美術館展は写真撮影が許可されていたんですよね。そのため、殆どの作品の前で観客によるスマホでの写真撮影会が開催されてしまっていたのです・・・。 それこそ、作品の良し悪しに関係なく、全てのを撮影しょうとしている方が大勢いました。それどころか、作品の横でピースサインをしながら自撮りの記念写真を撮っていた方まで出現。さらに驚いたのは、そうした撮影した直後に、その場でスマホをダラダラといじり出して、SNSか何かに写真をUPしようとしている方まで居たんですよね。これだけ混んでいる美術館の中で、いくらなんでもそれはないでしょう・・・。 しかもそういう人たちは、日頃からアートを親しんでいるような感じではなく、単に「有名な芸術家の作品が沢山来るらしい」という理由だけで来館しているような感じの方ばかり。そんな人たちに囲まれていると、じっくりと作品を見る気になれず、会場を一巡した後、早々に帰宅してしまいました。 かくいう私も、撮影許可が出てる展覧会で沢山の写真を撮影し、ブログにUPしてきたクチです。なので、撮影する事の楽しさや、人に伝えたい欲求は十分理解できます。それに、SNSなどで展覧会の情報が広まれば、集客のための宣伝材料になる事もあると思います。それ故、写真撮影は悪い事だとは思いません。 但し、周りの来場者の方の迷惑にならないよう、非常に気を使って撮影するくらいのマナーは必要なのではないかと思います。それこそ、周りから人が居なくなるまでカメラを構えるのを待つくらいの事は心がけるべきだと思うのです。また、今回のように混雑している場所では、撮影する事を断念するのも仕方のない場合もあるのではないかと思います。 もちろん、私も完璧な人間ではありません。私もカメラで撮影する事に夢中になりすぎて、作品を直接眺めているより、カメラを通じて作品を見ている時間の方が長くなってしまう事が過去に何度かありました。そういう時って作品を見た時の印象があまり頭に残らず、会場に訪れた意味が薄れてしまう事になり、後から自らを反省する羽目になるわけで。(これは風景写真を撮りにいった時にも陥ってしまう罠ですよね。) それに、デジカメなどで多数の写真を撮影しても、全ての画像を見かえす機会ってそんなにないのが現実ですしね。(私の場合は、ブログに写真を掲載する目的で整理する時くらいです。)また、立体物やその場でしか設営されていないインスタレーション作品を撮影するならともかく、絵画作品を全て撮影するくらいなら、図録を買った方が良い画質で鑑賞できるだけでなく、解説も読めるわけで・・・。(といっても、そんなに図録を読み返す機会もないかもしれませんけどね(苦笑)。) そうした私自身の過去の経験や反省なども踏まえた上で、鑑賞する際のマナーは大切な事だなぁと、改めて感じさせられた展覧会でした。 |
アート・美術館
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■ 生誕130年記念 藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画 / 名古屋市美術館 ■ 名古屋市美術館HP ■ 開催期間:2016年4月29日(金・祝)〜7月3日(日) このところ記事の更新が滞ってましたが、久々にアート関連の記事を幾つかUPしたいと思います。 まずは、 数か月前に訪れた藤田嗣治展から。展覧会の構成は、「パリの画壇に受け入れられエコールド・パリの時代の寵児となった時期」「第二次大戦時の日本の従軍画家として苦悩に満ちた日々を送った時期」「傷心のままフランスに戻った後、そのまま日本に戻らず晩年を過ごした時期」といった感じの構成で、多数の作品と共に、藤田氏の人生を辿るものとなっていました。 ■ 感想 非常に良質で、見ごたえのある展覧会でした。藤田嗣治の作品は過去に何度も見た事はありますが、これほど多くの作品を一度に眺める事はなく、質・量ともに圧倒されました。また、テーマや作風も時代によって色々と変化していた事も判り興味深いものがありました。 そんな中で、やはり強く印象に残ったのは、藤田氏の代名詞とも言える「乳白色の肌の裸婦像」の作品たちでした。やはり、あの「乳白色の肌」は独特のものがありますね。透き通るような透明感が美しかったです。しかも、他の色彩を殆ど用いていない作品も多かったりするわけで。(これは意図的に他の色を用いなかったのでしょうね。)そのため、否応なく肌の色に意識が向けられてしまうわけです。 また、予想に反して等身大に近い作品も多く、作品を目の前にした時の存在感は大きなものがありました。色彩の影響もあるのでしょうが、大理石で出来た彫像を見ているような印象に近いものがあったかもしれません。 でもその色彩ゆえに、冷たくヒンヤリとした印象を受けたのも事実。さらに、明確な光源や陰影を描いてはいないため、奥行きが感じられるものでもありませんでした。それこそ、立体感を表す要素は、身体の起伏を表すために用いられた、乳白色の肌の濃淡だけだったりする作品もあるわけで。 それこそ、そのような作品を見ていると、非常にイラストチックだと感じたのも事実です。(例えが悪いかもしれませんが、まるで現代の時代において、ペンとスクリーントーンで丁寧に描かれた、ツートンカラーのイラストや漫画の絵を見ている感覚に近いものがあったわけです。) とはいえ、その作品は決して安っぽいものではありません。また、見る者に媚びているようなポーズや表情で描かれているわけではありません。そのため、裸婦だというのに、卑猥な印象は全くありませんでした。その乳白色の肌の透明感は、ただただ、美しいといった感じなわけです。それ故、当時の人々は、男性のみならず、女性ですら魅了されてしまったのたかもしれませんね。(ちなみに、藤田氏はプレイボーイというか、非常にモテたご様子ですね。) でも、そうした作品を存分に描けていたのは、エコールド・パリの時代だけ。日本に帰国しても、パリでの評価・名声など無視されるどころか、裸婦を描いていたと罵倒されてしまうわけで。 ならば、日本に対する愛国心を示そうと、不本意ながら従軍画家として戦争の悲劇を描いた作品を手掛けるものの、今度は日本の画壇から戦争行為に協力したと非難されてしまう。自分という存在を正当に評価してもらえず、価値観や表現手法の違いに大きなギャップばかり感じた藤田は、傷心のままパリに戻るわけですよね・・・。 そんな藤田氏は、パリにおいてカトリックの洗礼を受け、「レオナール・フジタ」と改名。カトリック教会などに収める宗教画を手掛ける機会が増えていったようですね。それは、かの地において、フランス人として生まれ変わり、カソリック教徒として生涯を全うする決意の表れであったのだろうと思います。それこそ、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と語っていたそうで・・・。 とはいえ、彼は日本に滞在していた際に生活していた家のミニチュアモデルを自ら作成し、生涯大切に保管していたのだとか。日本には二度と戻らぬ(戻れぬ)と決めたが故に、より一層募る想いがあったのかもしれませんね。その気持ちを察すると胸が痛みました。 |
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■ わたしたちのすがた、いのちのゆくえ / 豊田市美術館 ■ この街の100年と、美術館の20年 / 開館20周年記念 コレクション展Ⅰ ■ 豊田市美術館公式HP ■ 2015年10月10日[土]−12月6日[日] ソフィ・カルの展覧会と共に、特別常設展も開催されていました。これは、豊田市美術館のリニューアルオープンを記念し、同館の所蔵作品を制作された歴史順に並べるだけでなく、豊田市の歴史に関する写真・資料なども併せて展示する事で、この美術館の歴史20年を振り返ろうというものでした。 ちなみに同館では、今回のように、歴史順で作品展示をする事は初めての事だったそうです。とはいえ、展示作品の殆どは、以前から同館で所蔵されているコレクション作品なので、何度かこの施設に訪れている人は、新鮮な感覚は無かったかもしれません。でも、ソフィ・カル展に比べ、展示作品数・会場の広さと共に、楽に3倍以上のボリュームがあったため、人によってはこちらの展覧会の方が強く印象に残った方もいらっしゃったかもしれませんね。 ちなみに、同館所蔵のコレクション作品は「フラッシュ無し、動画無し、三脚無し」であれば写真撮影が許可されています。(商用でなければブログ掲載も可。)そこで、何時ものようにいつくかの作品を撮影してきたのでUPしたいと思います。 ■ アフリカの文化神話 / 1984年 / トニー・クラッグ 拾ったプラスチックゴミで作られた作品です。様々な形のゴミを、人の形に見えるよう壁面に貼り付けられています。かなりの高さがあり、巨人のシルエットであるかのようです。 普段この作品は展示されていないので、この展覧会のためにわざわざ貼り付けたんでしょうね。設計図(このプラスチックは、この位置に置く)みたいなものがあるんでしょうか? ■ 分泌 / 1996-97年 / トニー・クラッグ こちらは巨大な球体と湾曲してうねった面が融合した意味不明な形をした作品です。近づいて見てみると、数え切れないくらいの数に及ぶ、膨大な数のサイコロを並べてポリスチレン樹脂で固められた作品だと分ります。とはいえ、何で出来ているのか判っても、何を意味して、何を伝えたい作品なのかはサッパリ分りません。というか、そうした意味も意図も何もない、ただ奇妙な物を形作ってみたかっただけなのかもしれませんが・・・。 でも。そんなよくわからない作品の一部の球体部分を見てみると、結構綺麗にサイコロが並んでいたので、クローズUP写真を撮らせていただきました。(ちなみにこれは、球面の凸部分ではなく、凹み部分だったりします。) ■ 不在との対話 / 2009年 / 塩田千春 日本の現代アート作家の中では、世界的にもそれなりの知名度がある方の1人ではないかと思います。実際、この糸を多様した作風はインパクトがありますよね。 中身が無いのに立体的な白い服。それはウエディングドレスを意図したものなのでしょうか。この作品における赤い糸は、どこか「血」や「拭いきれないしがらみ」「無垢から無垢ではない存在への変貌」を連想させられます。 ■ ははのふた / 下道基行 これは、同館の図書室の部屋の中で展示されていた写真作品です。そのため、常設特別展の枠外の作品であると言った方が良いかもしれません。(写真撮影は可との確認ずみ)しかし、今回見た全ての作品(ソフィ・カル展も含む)の中で、最も新鮮に感じ、印象に残った作品です。 2012年に結婚した事を期に、妻の実家へ移り住み、妻と妻の母(義母)と3人暮らしをするようになった作者が、普段の何気ない生活の中で義母が行う「習慣」を写真に撮ったものなのだとか。どうやらその方の義母さんは、食器や容器などの上に、蓋代わりに色々なモノを乗せる「クセ」があるようなのです・・・。 まあ、お茶やコーヒーなどを入れたばかりのコップや容器に、埃が入らないように何かをかぶせたくなる瞬間ってありますよね。それこそ特に急用が発生した場合などはティッシュなどをかぶせたりして、その場をしのぐ事もあると思います。 でも、その義母さんは、そうした蓋代わりに用いるものを用いるクセがあるようなんですね。しかも、そうした代用フタを行うのは、コップなどだけではないようなのです。お湯を沸かせるケトルなどは専用のフタがあるはずなのに、お皿状のようなもの?を乗っけて代用していたりするようなのです。さらには、ガラスの灰皿っぽいもの?を用いたりする時もある模様なのです・・・。 まあ、近場にあるものをとりあえず使う事もあるのかもしれません。でも、妙にサイズがピッタリ合ったものが乗っかっている事もあったったりするようなんですよね・・・。それが妙に可笑しかったりするのです。 そんな写真を見てると、「サイズが合うものを探すくらいなら、本来のフタを探せばいいのに・・。いや、本来のものを探しても見つからない時に、いいサイズのものがあったので使ってるのか?というか、使ってみたら、案外調子よくて常用していたりするのだろうか?それとも、完全に無意識の為せる技なのだろうか・・・。」などと、勝手に想像というか、妄想が広がってしまいました。 それと同時に、これが自分自身の実の母親がしている行為なら、恥ずかしく感じたり、物忘れがはじまっているのではないかと心配になったりして「母さん、ちゃんと正式なフタを探した方がいいよ」と諭したりしてしまうかもしれないないと思ったり・・・。でも、それが赤の他人のやる事となると、どこか面白おかしく感じてしまったり、微笑ましく感じてしまったりするんですよね・・・。 血の繋がった自らの母だと、理想的な振る舞いとうか、常識というものを無意識に押し付けてしまう部分があるのでしょうか・・・。他人であれば、そうした行為に対しても許容範囲が広がって、素直に楽しめてしまうのでしょうか・・・。自分自身にそうした感覚や感情の違いが生まれてしまう事に気づかされて、ハッとさせられました。 ちなみに、撮影した下道氏は、そうした義母さんの行為を微笑ましく受け入れているのでしょうね。そうでなくては、こんな風に写真を撮ったりできないでしょうから。出来るものならば、私もそうした心の余裕を持てる人になりたいものです。 |
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■ ソフィ・カル-最後のとき/最初のとき / 豊田市美術館 ■ 豊田市美術館HP ■ 2015年10月10日[土]−12月6日[日] ようやく、今年訪れた美術展の感想を書ける段階になりました。でも、自分でも驚く事に、今年はこの展覧会しか訪れていないんですよね(^^: 豊田市美術館は、この展覧会が行われるまで、約1年の設備系リニューアル工事に伴い、休館してたわけですし。(岡崎美術博覧会も同様にリニューアル工事に入ってしまってます。)それに、名古屋市にある幾つかの美術館での展覧会は、今期においてはそんなに興味を引く展覧会が開催されていなくて・・・。 そんなわけで、久々に美術館に訪れる事になったわけです。とはいえリニューアル後の第一弾企画は、同館で人気の高い「ソフィ・カル」の展覧会。期待を高まらせて訪れました・・・。 ■ 感想 結論から先に述べます。誤解を恐れずに、率直に言わせていただくと、ソフィという人は、様々な事に好奇心が強い、企画プロテューサーのような人であったという事を実感させられた展覧会でした。それこそ、彼女の作品はTVの番組や雑誌記事と同じような、メディアにおけるコンテンツのようなものと変わらないのかもしれません。 実際、彼女自身は、この展覧会における作品において、写真においても、言葉においても、映像においても、彼女自身が信じる「美」、見せたい「美」を提示しているわけではないんですよね。それを示しているのは「目の見えない人」「目が見えなくなった人」「今まで見たことの無かったものを見た人」といった、「他者」であるわけです。しかもそれは、彼女自身の価値観を代弁してもらっているわけでもありません。あくまでも、「他者」が、その人自身の価値観を示しているだけなのです。 とはいえ、その作品が提示している内容に価値が無いわけではありません。「盲目の人々」という作品群は、うまれつき目の見えない人に「貴方にとってうつくしいものとは何か」を尋ね、得る事の出来た返答を通じて、人が感じる美とは何かを、作品を見る人に問いかけてくる力を持っています。それこそ、私はその作品の一つを目にすると、目頭が熱くなる事があります。ここで、その作品に添えられた、目の見えない方の言葉を紹介させていただきます。 「緑はうつくしい。私が何かを好きになるたびに、いつも、人はそれを緑だと言います。草は緑だし、木々も、葉も、自然もまた緑です。私は緑の服を着たい。」 この言葉を目にすると、本来の美しさとは、誰しもが感じる心地よさ、体感として得られる安らぎや癒しを感じる心であり、単に視覚情報にだけ頼るものではない根源的で素直な感覚だという事を認識させられるのです。 無論、目の見えない人にとって「うつくしいもの」は、この限りではありません。目の見えない方それぞれ意見が異なります。世界に対する美意識、住環境に対する美意識、自身の装いに対する美意識、異性に対する美意識、など様々なものが示されるのです。それと同時に、それぞれの価値観が、周りに暮らしているであろう家族、友人、知人などによる価値観の影響も受けていると知らされます。 そんな彼らが示す価値観は、難解で意味不明な価値観を示す事に懸命な現代アートの世界とは全く間逆の世界だったりするわけですよね。現代アート作品の多い美術館で、そうしたメッセージを示す作品に出会うというのは、ちょっとシニカルな感じもするわけです。そして、現代の美、真実の美というものに疑問を投げかける作品が、実にシンプルな作品である事に、感銘を受けたりするわけです。 では、こうした作品を生み出したソフィは、「生まれつき目の見えない人」を追い続けて、その価値観を通して美を見つめなおすという道を極めてゆくのだろうか・・・というと、そうでもないんですよね。 次ぎに取り組んでいるのは、「不慮の事故、病などで、ある時から目が見えなくなった人が、最後に見た映像や、心に残っている映像」や「TVすらない貧困生活を送る砂漠の民が、生まれて初めて海を見た時の表情」だったりするわけです。見えなくなった人の段階までならまだしも、最後の企画ともなれば、もう盲目である事の関連性すらなくなってしまっています。しかも、最後の「海を見る」という映像作品は、自身でビデオカメラを回して撮っているわけではなく、別の人がカメラマンをやっていたようですね。さらに、このBLINDシリーズは、これで一旦終了するようで・・・。 そうした展開の流れを見ると、ソフィ・カルという人は、「視覚情報による美とは何か?」とか、「人が感じる根源的な美とは何か?」に興味があるわけではないのかな?という疑問が沸いてきたわけです。実際、ソフィ・カル名義で発行されている洋書などをペラペラとめくってみると、自身がひらめいたアイデアを元に変わった企画物の写真を撮ったり、自分自身で奇抜な格好のパフォーマンスをされたりしているようで・・・。しかも、それらの作品は、目が見えない云々とは全く関係性を見出せないものばかりだったりするわけで・・・。 そうした様子を見ていると、美を追求する生粋のアーティストというより、コンテンツ作品を生み出すプロデューサー的なアーティストといった感じの人なのではないか?と思うようになりました。そして、「盲目の人々」は、彼女の好奇心や興味本位から生じた、非常に奇跡的な作品だったりするのかもしれませんね・・・。 |
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■ ジャン・フォートリエ展 / 豊田市美術館 ■ 豊田市美術館HP ■ 2014年7月20日[日]−9月15日[月・祝] 豊田市美術館における館内設備のリニューアル工事の前に開催された展覧会です。まだ感想を掲載出来ていなかったので、遅ればせながらUPします。 ■ 感想 この方の作品を評価するのは、私には難しい・・・。そう感じた展覧会でした。 そもそも、私はこの方の事を良く知らず、正直なところあまり興味を持っていませんでした。それでも訪れたのは、同館が設備リニューアル工事を行うために1年間休館する事が予定されており、この展覧会が休館前の最後の展覧会だったからです。また、興味が無い作家さんであっても、美術館などで直接拝見すると、色々な発見を得たり、心を動かされる事もあるため、そうした体験が出来れば・・・と期待したからです。 しかし、先にも述べたように、どうも私の肌には合わない作家さんでした。というか、この人が訴えたいもの、追求したいものに、なんともいえない違和感のようなものを感じたくらいでした。 この方は、第二次大戦の戦時下においてドイツ軍の人質となり、悲惨な運命を辿った人達の悲惨な人生を表した「人質」と呼ばれる連作が有名だそうですね。たしかに、それらの作品はショッキングな要素が含まれており、インパクトがあったと思います。暴力により、左半分が丸ごと失われた頭部。今まで生あるものであった人間が、命を失っただけでなく、単なる肉の塊でしかなくなってしまう。人としての人権、尊厳を無視をされた、あまりに無意味で、虚しい状況。「人質」の連作には、そうした戦争が齎す、人間の狂気と惨劇が表されていたように思います。 でも、その後に生み出される作品は何なのでしょう?戦争の悲惨さを伝え、その行為に対する怒りをモチベーションに、表現活動を続けてゆくのかと思いきや、アンフォメルという「表現」を追及する道へ方向が向かいだすんですよね・・・。まあ、抽象的な造詣によって、心の内面を表す事に興味を覚え、それにはまってしまったという事なのかもしれませんが・・・。でも、それによって表される世界は、本当に何を表したいのか、サッパリ判らないものになってしまっているようにしか感じられませんでした。それこそ、後期の作品を見て、鑑賞する人は何をもって評価していたのだろう?と疑問にすら感じたほどです。 そうした事は、館内で上映されていたインタビュー映像を見ても感じました。それこそ、彼自身も自身がキャンバスに描いているものが何なのか、自身で理解していないというか、明確な意図をもって全てをコントロールして作品を生み出しているような感じには感じられませんでした。というか、「自分はトップランナーだ。新たな表現を生み出す先駆者でなければならない。」という自己意識が強くなりすぎて、メッセージ性や内発的なモチベーションよりも、「誰も見たことの無い表現を生み出す事」のみが優先され、その部分でしか自分の存在意義を示す事が出来なくなってしまっているように感じたといいますか・・・。それこそ、下手に「人質」シリーズが世間に受け入れられてしまったために、勘違いして、方向性が可笑しくなってしまった人にすら見えてしまいました・・・。 そんなわけで、残念ながら私の心には響かない展覧会でした・・・。 |





