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■ あいちトリエンナーレ2013 岡崎会場 ■ あいちトリエンナーレ2013 公式HP 岡崎美術博物館の「ユーモアと飛躍」展に引き続き、あいちトリエンナーレ2013の岡崎会場に訪れました。 (岡崎会場は名古屋鉄道・東岡崎駅の北に位置する繁華街の4箇所で催されていました。) 作品は撮影が許可されていたので、一部の作品を紹介しながら感想を述べたいと思います。 (撮影はフラッシュ無し・動画不可。) ■ 康生会場 ・ 旧日連沢ショールーム ● E-05 「Missing River」 平沢祐樹 この作品は、1Fと2Fとの2部構成で1つのタイトルが付けられている作品です。1Fでは、古く小さな木造船を暗闇の中で宙吊りにした作品が展示されていました。(観客は、その船を見上げる事で、川底から船の底を見ているような感じになる。) 2Fでは、水に濡れていた丸みを帯びた石が、ゆっくりと徐々に乾いてゆく様子を写した動画作品が上映されていました。(写真の作品です。) ■ 康生会場 ・ 岡崎シビコ 営業中のデパート 「岡崎シビコ」 の屋上並びに、5階と6階のフロアを貸切り、作品が展示されていました。 (これにはちょっと驚きました。確かに東岡崎駅周辺ってちょっと古い感じのする街ですし、最近は商業地域としての元気が無いと聞いていましたが・・・。屋上のみならず2フロアもこのイベントのために貸しきりに出来るなんて・・・そんな事をしても大丈夫なくらい、普段から人が来ない状況になってしまっているんでしょうか・・・。) ● E-04 「Roof」 studio velocity / 栗原健太郎+岩月美穂 2013年 この作品は、シビコの屋上の床・壁面を真っ白なペンキで塗った作品です。また、写真では認識できないと思われますが、頭上部分には、ナイロン製の糸を碁盤の目ように組んだ巨大なネットのようなものが張り巡らされています。(ネットは屋上フロア大半を覆う大きさです。) また、フロアには学校の校庭などで見受けられるような演説台?や、作家の手によるアクリルテーブル?のようなものも置かれていました。 完全な屋外作品であるため、鑑賞時の天候・時間によって見栄えがかなり変化する作品だそうです。それこそ、真夏日の日中だと、日光の反射が強すぎて、裸眼ではとても目を開けていられない状態になってしまうのだとか。そのため、サングラスの貸し出しまで行われていました。(私が訪れた時は既に夕方であっただけでなく、太陽は雲に隠れてしまっていたので、話に聞いたような眩しさを感じる事はありませんでした。) それにしても、屋上に真っ白いペンキを塗るだけで、ちょっとした異空間が現われるのは面白いものですよね。それこそ、床面で鈍く反射する太陽光や、空の色を見ていると、なんだか水面のように見えてくるから不思議です。可能なら、もう少し明るい状態で見てみたかったです。 ◆ 人知れず風雪に耐えて・・・ 先に紹介した「Roof」のある屋上に以前から設置されている巨大な看板の裏側です。先の「Roof」も興味深い作品だったのですが、私にとってはこの光景の方がもっと興味をそそられてしまいました・・・(^^; 屋上の大半の部分は 「作品」 として新たな命を与えられたにも関わらず、同じ場所に存在するこの 「看板」 の内側は以前と全く同じままなわけです。それこそペンキは剥がれ、至る所に錆が浮いているわけです。なんだか、ちょっと切ないですよね。 でも、作品「Roof」は、このイベント期間しか見る事が出来ない存在です。しかも、チケットを買った人にしか見られない存在なわけです。それとは逆に、この看板は内側はこのような状態になろううとも、表向きな部分は常に一定のレベルで補修され、サインとして人の目に触れる役割を担っているわけですよね。 私には、それら2つが物凄く対極的な存在に感じられて、強く印象に残りました。 ■ E-02 「エンター・ゴースト、エグジット・ゴースト」 バーシア・マクール 2012年 岡崎シビコ5Fの展示会場の約半分を占めていた作品です。展示は主に2つの部屋で展開されています。1つは破損した複数のピアノ、新聞紙、無人の車椅子がフロアに設置され、時折それらをスポットライトで照らす演出がされる部屋。もう1つは、それらの光景を、巨大なフレーム枠(窓枠)を通じ、コンサートを見るかのように鑑賞する部屋といった構成です。(両方の部屋に入れます。またその間の通路にも作品が展示されています。) 私が観賞用の部屋に入った時、部屋は薄暗く静かなピアノの旋律が聞こえていただけだったのですが、数秒後に物凄い轟音(音楽性の無い轟音と、心臓音のような音が混じった音)と、スポットライトによる眩しい光が照らされる演出に切り替わりました。また、部屋の奥に設けられた送風機からは、霧が含まれた風が流れてきました・・・。その変化の度合いはかなりのモノ。たった一人で夜中に見ていたら、気持ちが悪くなりそうでした(^^; うむ・・・・これは一体何なのでしょうねえ。生と死。喧騒と静寂との境界線を空間内で表そうとしているのでしょうかねえ・・・。 ◆ 歩き慣れない街で空を見上げて メイン会場である岡崎シビコでは、他にも作品が展示されていたのですが、他会場も含め入場制限時間が迫っていたため、早足で鑑賞。急いで次の会場へと向かう事にしました。その際、男の人ならば、10分から15分も歩けば到着出来るだろうとの話を聞いたので、私は歩いて向かう事にしました。 この区間においては、バスやヴェロタクシーを利用できるようですが、それらが到着する時間を待っていられなかったのです。でも、そうやって少しでも歩いた方が、知らない光景を見つけたり、その街の雰囲気をなんとなく感じる事が出来たりもするわけで・・・。 ■ 松本町会場 10分から15分程度で到着するとの話を聞いて歩き始めた私ですが、歩けど歩けど会場らしい場所を見つけれません。それどころか、どんどんと繁華街から離れてゆく羽目に。そこで床屋さんと、薬局で道を尋ね、ようやくにして3つめの会場に到着する事が出来ました。(私は会場を遠巻きに通り過ぎてしまっていっため、来た方角へ戻るハメになってしまいました(^^;) この松本会場は、老朽化・無人化してしまった民家を3軒を全面開放し、作品が展示されていました。また、最寄の松應寺(しょうおうじ)においては、オノ・ヨーコのウイッシュ・ツリー(願いを書いた短冊を木に括りつける作品。誰でも参加可能になっている。)も催されていました。 ● E-07 旧今代 ピンクのネオンと、その光によって照らし出された外壁の色が眩しいですね。というか、その色合いがあまりにも強くて異様に映るほどです。これは「日本共産党でカール・マルクスの誕生日会をする」という展示作品が展開されていた家屋の外壁に設けられた、ピンクのネオンサインによるものです。 実のところ、私はこの建物から直ぐ出てきてしまいました。残された鑑賞時間に余裕が無かっただけでなく、作品そのものにも惹かれる部分が無かったからです。それどころか、老朽化・無人化している家屋とはいえ、持ち主に許可を得ているからとはいえ、家の床を全部剥いで作品の素材としてしまったり、土足で家屋に入っていっても差し支えなものなのだろうか・・・と感じてしまうわけです。(私は古い価値観に縛られてるのかもしれませんが、どうしても抵抗感を感じてしまう部分もあるわけで。) しかし、あまりにも強烈な色を放つこの異様な光景に対し、否応なく目を奪われてしまう自分もいました・・・。 ● E10 旧あざみ美容室 こちらの場所では、美容室だった場所において、溶接加工した鉄製の丸いオブジェを組み合わせた作品が展示されていました。 正直なところ、私は作品よりも、この人通りの無い商店街が放つノスタルジックな空間の方が気になってしまいました。そこで、展示ガイドや警備をされている方に、この界隈の事を尋ねてみました。すると、このあたりは「花街」と言われる界隈であり、昔は華やかな場所であったのだと教えてくれました。岡崎市は古い歴史のある城下街。戦前までは、そうした場所が幾つか残っていたのだそうです。 しかし、戦争でこの一帯は焼けてしまったのだとか。それこそ、この奥にある松應寺(しょうおうじ)も一度焼けてしまったのだそうです。そして戦後復興の際、元々はお寺の参道や土地だった場所を一般に譲る事で、この商店街が生まれたのだとか。とはいえ、時代の流れと共に、そうした文化も衰退。周辺住民も高齢化が進み、今のようなさびれた場所になってしまったそうです。そこでホンの少しでも、昔のように人が来てくれる切欠が欲しいと願い、今回のイベントに協力する事になったのだそうです。 私はその話を聞き、複雑な感情が沸いてきました。確かにこのようなイベントを開けば、多少なりとも人は来るかもしれません。でも、これらのイベントは何も地元の歴史文化を尊重し、応援しようとする内容のものではありません。寧ろ、そうした地元のご年配の方々からすると、違和感を感じられている部分が多いのではないかと心配になってしまいました・・・。(地元に住んでいらしゃる方々が喜んでくれたり、楽しんでくれているといいんですけどね・・・。) ■ 東岡崎駅会場 ● E-09 「生きる喜び」 オノ・ヨーコ 2013年 東岡崎駅まで戻ってきた私は、バス・タクシーのロータリー場に設けられた作品を見てから帰る事にしました。オノ・ヨーコによるメッセージパネルです。ちなみに、反対側は英語で 「JOY OF LIFE」 と書かれています。 人生色々。楽な事、楽しい事より、辛く悲しい事の方が多かったりしますが、そんな中でも「生きる喜び」を見つけ、それを楽しんでいきたいものですね。 (ちなみにステーションビル3階でもアート作品は展示されていました。) |
アート・美術館
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■ ユーモアと飛躍 / 岡崎市美術博物館 ■ 会期:2013.8.17-10.20 ■ あいちトリエンナーレ2013並行企画事業 ■ 岡崎市美術博物館 HP 3年に一度愛知県で開催される事となったアートイベント「あいちトリエンナーレ」。第2回目となる今回は、名古屋市のみならず岡崎市でも開催さる事になりました。そのイベントにあわせ、岡崎市美術博物館でも並行企画展が開催されていたので訪れてみました。(約半数の展示物は、撮影可となっていました。そこで、それらの作品をちょっとだけ紹介させていただきます。) ■ 「DOUBLE NATURE」 池田晶紀 2013年 何も無かった水槽に、水、石、砂、水草(水苔?)その他諸々を入れる事で、それらの植物等が育ってゆく様子を写真に収め、パネルとして展示したものでした。また、それらの作品を収めているガラス張りの展示ケースの中に、観覧者も入って見学出来るようになっていました。(写真は、その展示ケースを入り口から撮ったもの) こうした見学の仕方はちょっとユニークですよね。というか、失礼ながら作品そのものデキよりも、展示ケースの中を歩ける事の方が興味深かったりしました。 ちなみに、ケースの中に入ると、作品との距離が近すぎて、何が写っているのかほとんど理解出来ません。その反面、ガラス面を通して本来の通路側に目を向けると、他の観覧者や、向こう側の壁面に掲げられた作品が目に入ってきて、ちょっと不思議な感じでした。(水槽に入っている魚も、こんな風にして飼い主を見てるって事になるのかもしれませんね。) ■ 「うつくしいうし」 池田晶紀 2012年 どう見ても猫にしか見えません。猫でダメだと言うのなら、ネコ・ヌコ・ネギョ・にゃーご・ねこたん・ネコスケ・ミケ・タマ・・・何でもいいんです。本当になんでもいいんです。でも、”うし” には見えません。どう見ても、"うし" はないだろう・・・と思えるわけです。 なぜ、そんな作品のタイトルが、「うつくしいうし」となっているのか・・・それは、このネコの名前が 「うし」 ちゃんだからなのだそうで・・・。ふ〜ん、そうですか・・・そうですか・・・。あ〜そうですか。って感じでした(^^; ■ 「ピンセットの突き刺さった円柱の飯は木彫りの台を貫通する」 花岡伸宏 2010年 美しい半裸の女性の木彫りの像の足元には・・・発砲スチロールのような感じの樹脂で作られた丸太のようなものが貫通し、その上に複数のピンセットが刺さっている・・・というものでした。(樹脂の丸太のようなモノは、本当に木を貫通しているのかは不明) 不条理?違和感?う〜ん・・・何を表現したいのでしょうねえ・・・。個人的には、上の木彫りの像だけで十分なような気がするのですが・・・。これだけの技量があるならば、そうした美を極め追求する方が自然な気もするのですが・・・。この作家さんは、元々こうした不条理を表したいために、わざわざ木彫りの作品をこしらえたんでしょうかねえ・・・? ■ 「2つで三人」 D.D. (今村哲+染谷亜理可) 2013年 白い半透明の養生シート、キャスター付きの移動家具(テレビ・テーブル・冷蔵庫・電気調理器・鏡台・ベッド・シャワー・他複数)等で構成された迷路型居住空間です。作家2人は、過去にも似たような体験参加型・変形可能な居住空間を用いたプロジェクトを発表しており、今回はこの岡崎美術博物館のロビーで展開し、48時間にわたりその場所で生活を試みたのだとか。しかも、今回は、美術館の学芸員なども参加しているのだそうです。ちなみにこの展覧会の会期においては、その居住空間は展示室へ移設。作品と共に記録動画の上映がされていました・・・。(作品の中に入る事も可能となっていました。) さて、この作品・・・果たしてアートと呼べるものなのでしょうか?私ではサッパリ判りません。そこで学芸員の方に「一体何を目的として、何を試み、何を伝えたいために作ったものなのか?」という事を伺ってみる事に。 するとこれは、「モノのみならず壁もが常に移動・変形してしまう場所に複数の人が居住する事で、自らの意思では想像もつかないような形で空間が変形・変化してゆく様子を楽しんでいる作品です。参加した当事者達は、その想像を超えた変化の結果に、ひらめきや可笑しさのようなものを感じている。」との事。なるほど、こうした作品に対し、体験参加をされた人であれば、そうした非日常的な空間で生活をする可笑しさを感じられるのかもしれません。でも、それを一般に公開する意図や意味は?そもそも、何故こうした作品を彼らは作りたいと思ったのか?(美術館側としてオファーしたいと思ったのか?)という事も聞いてみたのですが、明確な回答はかえってきませんでした。 このように書くと、学芸員の方がぶっきらぼうな感じで、嫌々対応されていたのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、決してそうではありませんでした。寧ろ、凄く丁寧に答えようとされているのは十分伝わってきました。しかし、学芸員の方ですら、この作品の意義・意味を上手く伝えにくいというのはどうなのだろう・・・。作品を通してそうしたモノが伝わって来ないのはどうなんだろう・・・とも思ってしまいました。 ■ 「ゾ・ン・ビ・タ・ウ・ン リメイク」 小林耕平 2013年 この作品も非常に難解な作品です。ひょっとすると、先の体験型空間の作品よりも、もっと難解な作品と言えるかもしれません。というか、この作品がどのような作品であったのか、私では客観的に文章として表す事が出来ないのです。つまるところ、この作品に関しては全く理解する事が出来なかったのです。身勝手な自己解釈ですら出来ない程、意味不明な映像作品だったのです。 なにやら作家の方は、 「この世から過去というものを消す事は出来ない」 と考えているようです。そして、その考えの延長線上として 「普段目にする事は出来ないかもしれないが、現実・現在の状況の中においても、過去は常に存在している」 と捕らえ、 「現在において、リアルタイムで過去を蘇らせる事が出来るのではないだろうか。(そしてそれをアートとして表現できるのではないだろうか)」 と考えているようです。そして、それらの思考を証明しようと、一種の哲学的な思考実験?のような試みを行い、その映像記録を残されている方のようです。 此処まで書いてはみたものの、本当にこの理解で合っているのかどうか、私には全く自信がありません。というのも、その映像記録作品?のようなものを見ても、私にはその内容がサッパリ判らなかったからです。それどころか、最初はなんだか気持ち悪いとすら感じてしまった程です。 そこで、展示室に居る監視員の方に、これらの作品を見てどう思われているのか伺ってみる事に。すると 、「最初は理解出来なかった。今も理解出来ているとは言えない。 ”でも段々と慣れてくる。” そして、この人はこの人なりに真剣なのだという事は伝わってきた。すると、その真剣さの度合いと、我々との感覚のギャップに独特の可笑しさのようなものを感じるようになってきた。」 といった感じの事を述べられていました。 その言葉を切欠として、再びこの方の作品を見てみると・・・私の中に変化が生じてきました。奇妙な違和感が、不可思議なギャップへとかわり、まるで 「シュールなコント番組」 を見ているかのような変な感覚が沸いてくるようになってきたのです。当の本人が真面目に思考実験しようとすればする程、そのやり方が奇妙に思えて、可笑しくなってきてしまったのです。(ホント、私はその監視員の方の言葉で凄く救われました。) こんな感覚でこの作品を見る事は、作家本人としては決して望んでいる事ではいと思います。でも、「ちょっとした一言」や、「ちょっとした切欠」で、モノ・現象などに対する価値観や、許容範囲が瞬時にガラリと変わってしまう瞬間を味わったのも事実であり、そうした意味で、強く印象に残った作品でした。 ■ 「スパイクの裏の粉」 泉太郎 2013年 巨大なガラス面にアクリル画材でペイントをし、さらにそこに映像を投影するという作品でした。(ちなみにこの作品の背後も観覧者が通る事が出来るようになっていました。) ■ 「雪と湿気」 泉太郎 2013年 ガラスケースの中に収められた様々なオブジェ。それを照らす光と影。そして、そのシルエットをなぞるかのようにマーカーで記された奇妙な模様・・・。そのような作品が複数展示されていました。 ■ 感想 かなり辛口の感想となってしまうのをお許しいただきたいのですが・・・ 正直なところ、「これをアートと呼んでいいのか。」 という疑問が強く残る展覧会でした。 無論、アートというのは自由な自己表現だと思います。別に過去の芸術の歴史・文脈・技法・等に沿ったものだけをアートなどと呼ぶ必要はないと思っています。メジャーな作品のフォロワーとして出発して、後に自らのアイデンティティを構築してゆく必要などなく、最初からオリジナリティを強く打ち出していく事は、寧ろ重要な事なのだろうと思います。 しかし、現代社会における美大・美術専門学校などは、そうした 「非日常性」 や 「オリジナリティ」 「独創的なアイデア」 を重んじ、そうした要素ばかりを評価しがちになっているのではないでしょうか。そして若いアーティスト達は、特に疑問も持たず、そうした価値観に染まってしまっているのではないでしょうか。無論、個性を尊重し、育ててゆこうとする意識は重要な事だと思います。しかし、もっと根本的で、大切な要素が欠落しつつあるのではないか? と感じる事が少なくないわけです。 マイノリティでもいいのです。他人に理解されにくくてもいいのです。拒絶される事があったとしてもいいのです。作家本人が、心の底から沸き起こる衝動がある。どうしてもこれは伝えたい。どうしても表現したい。見出したい美がある。一般の人だと気付きにくい世界にも、意外な美しさが宿っている。一見醜いものであろうと、その奥底には、純粋なものが宿っている。それを自らの手で切り開きたい・・・といった、初期騒動というか、強い表現欲求というか、物事の本質に迫る気迫というか、そうしたメッセージ性が重要な気がするのです。 そういう作品は、見る側にとっても何かが伝わってくるような気がします。仮に見る側にそうした感覚がなかろうと、多少なりとも心の旋律に触れ、共感とは言わずとも、何故表現したいと思ったのか?という点に関しては理解出来るものがあるように思うのです。 でも、現代アートは、本当にそうした要素がどんどん薄れていってしまっているというか・・・。「ただ面白そうだから作ってみました」的なものが多く感じられるんですよね。というか「伝えたい」という根源的な意思の発現が感じられないものが多いんですよね。それこそ、ただ単に 「奇抜」 であるようにしか見えないものが多いのです。 そうした事は、何も今回の展覧会の作品のみならず、現代アート全般に広がっている事のような気がします。それこそ、3年前の第1回「あいちトリエンナーレ」の作品群に対しても同様の事を感じていました。だからこそ、何時も質の高い展覧会を開催しているこの岡崎美術博物館ならば、それらの疑問を払拭してくれるような現代アートの展覧会を開催してくれるんじゃなかろうかと期待していたのですが・・・どうやら今回は期待ハズレとなってしまったようでした。 ちなみに私は、この岡崎市美術博物館はかなり好きな美術館の一つです。実際、何度も訪れています。それこそこの美術館に対しては、結構親しみを感じています。また、今回の展覧会における学芸員の方や、監視員の方の対応も決して悪いものではありませんでした。今回の展覧会も、ある意味「想像の斜め上を行く体験ができた」という意味で、楽しめれる要素もあったと思います。でも、こうしたベクトルの現代アート展が増えてゆくとなると、今後は足が遠のいてしまうんじゃないかと、少々不安にも似た思いを抱いてしまいました(^^; |
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■ コレクションによる4つのテーマ展 / 豊田市美術館 ■ 会期:2013.4.20-9.1 ■ 豊田市美術館 公式HP フランシス・ベーコン展を見に行った際、同館の所蔵コレクションで構成された、4部構成によるテーマ展も開催されていました。何時ものように、所蔵コレクションはフラッシュ・三脚無しでの撮影が許可されていたので、その展覧会の様子をちょっとだけご紹介させていただきたいと思います。 ■ E-1 「白と黒」 ● 「NO.AB」 草間彌生 1959年 タイトルが表すように、白と黒という非常にシンプルな色を基調とした作品が展示されていました。また、夫々の作品が大きいものが多いのも特徴だったと思います。その中で目を惹いたのは、村上友晴、ジュゼッペ・ペノーネの作品と、草間彌生の作品でした。 実際、この草間彌生の「NO.AB」という作品も、210.3×414.4cm もの大きさがあったりします。今ではピンクや白の水玉で有名な草間さんですが、こんな増殖系といってもいような、丸い?ブツブツでキャンバスを埋め尽くした作品を手掛けていた時期もあったわけですね。(掲載写真は、クローズUPで撮影。) ■ E-2 「斉藤義重と高松次郎」 ● 「複合体95」 斉藤義重 1995年 (右の複合立体造形物) 他 日本の前衛芸術のパイオニアである斉藤氏と、60-70年代の現代美術をリードした高松氏。その2人の作品を紹介したコーナーが設けられていました。 ■ E-3 「フランク・ロイド・ライト」 ● ウォレン・ヒコックス邸のハイバックチェア 1900年頃 (左写真) 他 この美術館でフランク・ロイド・ライトに関して、これだけの数の建築図面や家具類のコレクションが所蔵されていたとは知りませんでした。(今までそんなに見る事が無かったように思うのですが・・・) ■ E-4 「身体表現の可能性」 ● 「ラディエーションスーツ・アトム」 ヤノベケンジ 1996年 ■ 「分類学(応用)♯3」ジョセフ・コスース 1995年 (壁のスクリーンプリント作品) このブログにおいて、過去に何度も取り上げている作品です。にも関わらず、この場所に来ると何時も写真を撮ってしまう対象の1つだったりします。なんというか・・・大きな作品なので、違うアングルを何時も探してしまうといいますか・・・。 こうやって作品に関する撮影が許可されているという事は本当に有難い事ですね。それこそ、こうした作品の写真を撮るという行為は、作品と正面から向きあい、作品を理解する上で大きな助けとなってくれる事があるように思います。また、撮影するという行為は、それ自体楽い事ですしね。 しかし、それを良い事にずっとをカメラ片手に歩いていると、生の目で直接作品を見ている時間よりも、カメラの液晶画面を通して作品を見ている時間の方が長くなってしまうケースがあります。(それは何もこうした美術館での撮影だけの話しではありません。山や川などのフィールドに出かけた際にも、それに似た事が起きてしまうように思います。) 実は、この日の私はモロにそれに当てはまっていました。というのも、ベーコン展を含めて2時間半程度しか滞在時間が作れず、鑑賞時間に余裕が無い状態だったからです。また、所蔵作品は既に見知った物が多くを占めていたため、大半の時間をベーコン展に費やし、常設展は撮影の方を優先してしまったというわけです。 でも、そんな風にして撮ってきた写真データを編集してもイマイチ楽しくないというか、記事を書こうとしてもなんだかテンションが上がってこないんですよね・・・。今回のコレクションは、村上友晴、ジュゼッペ・ペノーネなどの私の好きな坂の作品が展示されていたというのに、この日はそんな鑑賞方法しか出来なかったのが残念でした。 |
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■ フランシス・ベーコン展 / 豊田市美術館 ■ 会期:2013.6.8-9.1 ■ 豊田市美術館 公式HP ■ フランシス・ベーコン展 特別HP 先日、豊田市美術館で開催されていたフランシス・ベーコン展に行ってきました。ちなみに同館には彼のスフィンクスの作品が所蔵されており、その作品は何度も見た事があります。でも、何かしらのメッセージを感じたりする事が無かったため、今まで興味を持ってはいませんでした。しかしながら、先日放送されていた美術番組を通して彼の人生を知った事により、他の作品も目にしてみたいと思ったのです。 ■ 感想 率直な意見として・・・展覧会で感じたままの感情を、そのまま表す事が難しい作家だと感じました。 それは単に私のボキャブラリーが足らず言い表しにくい・・・というだけでなく、ブログを通じてではあっても、自らが感じたものをそのまま世に晒しても良いものなのか?といった、躊躇いの感情を抱かずにいられない・・・といった感じかもしれません。というのも、所謂 「情事の前後(またはその最中)」 を連想してしまう作品が複数見受けられたからです。 実は、ベーコンは若い頃から同性愛に目覚め、裕福な軍人の家を飛び出し、複数の男性パートナーとの恋の遍歴をつづったた人物だと聞いています。無論、1909年生まれの彼が生きた世界において、ゲイという立場は世間に受け入れられる存在ではありませんでした。 カミングアウトする事で自由と愛を手に入れた喜びと、特異な立場ゆえに感じる不安と孤独。安堵に似た気持ちと、二度と元の世界には戻れないという悲しみ。それらが綯交ぜになった感情は、パートナーとの事の最中であったとしても、常に彼の脳裏から離れる事が無かったのではないでしょうか。また、同性愛ゆえに時に肉体的な苦痛も伴う肉体関係は、彼にとって快楽だけでなく、時に痛みも伴うものであり、事の後には、恐ろしい程の喪失感を齎していたのではないでしょうか。 それでも ”この関係を失う事は出来ない。自らの感情に素直でいたい。自らが魅力的だと思うものを、世に表したい・・・。” そうした不安定でコントロールしきれない歪んだ感情が出口を求めていたのではないか。その結果として、顔や肉体が異常に歪んだ独特の絵画が出来あがっていったのではないか、と感じたのです。そんな彼だからこそ、身体の中に潜む真実の姿・・・醜く、歪んだ肉体の中にある美というものを表したいと思ったのではないかと感じたのです。 しかしながら彼は、"こうした感情は何も同性愛者だけが抱く特別なものではない"とも言いたかったのではないかと感じました。 ”男であっても女であっても、魅力的な異性と出合った時、人はその服の下に潜む肉体の事を想像してしまうのではないのだろうか。澄ました顔をしていても、心の中に蠢く感情は、醜く、はしたなく、情けないものだったりするのではないだろうか。社会的な立場を守るために付けている仮面を剥いでみれば、皆同じ事を考えているのではないのだろうか?この関係は、本当に精神的な結びつきによるものなのだろうか。自分は相手の考えを全て理解出来ているのだろうか。(そのまた逆は?)この関係は永遠に続けていけられるのだろうか・・・。そんな不安を抱きつつも、惹かれてしまうのは、肉体が求めてしまってい証なのではないだろうか。つまり 「人は所詮その程度の(肉欲に支配された)存在なのではないだろうか。」” という事を、突きつけられているような気がしたわけです。 それ故、”私(ベーコン)自身がやっている事(同性愛・芸術表現)は、何も可笑しな事ではない” と、主張したかったのだろうと感じたわけです。それは赤裸々なものであるとは認識しつつも、その表現行為を行う事で彼は自らにプライドを持ち、アイデンティティを確立していた部分が多々あったのではないかと感じたのです。しかし、それでも尚、彼は自分自身の不安や苛立ちを払拭しきれず、苦しく足掻いていた存在だったのではないかと感じました。 無論、これは私が個人的に勝手に解釈したものであり、彼自身がどのような真意を心の底に秘めていたのかは判りません。それに、彼の作品を沢山見る機会を得ても、彼の作品を好きになったというわけではありません。(それこそ、彼の作品を家に飾りたとはとても思えません。) しかしながら、人という存在の業と哀しみを感じられる、見ごたえのある展覧会であったと感じました。 ※ 20013/9/7 一部を加筆修正しました。 ※ 念のために申し上げますが、私はストレート(異性愛者)です。 |
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■ 東北の工芸と棟方志功 ■ 豊田市民芸館HP ■ 会期:2012.9.11-12.2 ■ 感想 先日、地元にある豊田市民芸館へ訪れました。民芸運動との関わりも深い棟方志功の作品が展示されると聞いたからです。 会場で目立っていたのは、「東北経鬼門譜」(とうほくきょうきもんぷ)という作品でした。これは版木を120枚使い、横10メートルにもなる六曲一双の屏風。展示室の壁一面を占める程の大作です。陶芸作品が展示される事の多い民芸館において、こうした大きな作品は大きなインパクトを感じます。とはいえ、志功の作品は展示作品の約半分ほど。また、全体の展示作品の数も然程多くなく、ちょっとばかり寂しい感じです。東北地方の工芸作品も地味なものが多く、あまり印象に残る作品に出会えませんでした。 しかし、この日は石井頼子氏(元棟方志功板画美術館学芸員)が講演会をされるとの事。入館料のみで拝聴できるとの事だったので会場に足を運ぶ事にしました。石井氏は棟方志功の孫にあたる方だそうで、子供の頃に直接志功から作品に関する数多くの創作秘話や作品に込めた想いなどを聞いてこられたのだそうです。講演会ではスクリーンを用意し、作品を映し出しながら、そうした数々の逸話を聞かせてくれました。 その内容は、「世界一になる」と公言していた幼少の頃の逸話(絵画などの分野とかは特定せず、とにかく何らかの分野で一番になる事を公言していた。)とか、住んでいた町が火事で焼かれた時に兄弟に負ぶってもらいながら逃げた話、有名な「わだはゴッホになる」の台詞、仏などに関する話題が作品に登場するようになった経緯、自身の故郷である東北への想い、災害に関する志功の想い等・・・。それこそ、予定時間の1時間半を大幅に越すボリュームで繰り広げられた程で、公演の後半ともなると、ご年配の参加者だと首がコクリ、コクリと傾く姿もチラホラあったような・・・(^^; とはいえ、講演会の参加者全員には、志功氏が原画をデザインした「観門頌の柵」(かんもんしょうのさく)という切手の実物が配られるというプレゼントも用意されおり、参加者の方は皆さん満足されていたように思います。ちなみにその切手は、NHKの放送開始50周年を記念して発行されたものだとの事。志功氏が切手のデザインを手掛けていたのも知りませんでしたが、NHKに関する記念切手があるという事もちょっと意外に感じたりしました。切手の額面は20円との表記ではありますが、それ以上の価値を感じられる、ちょっと嬉しいプレゼントでした。 |





