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■ 1979年 / ソビエト / 164分
■ 監督:アンドレイ・タルコフスキー
■ 脚本:アルカージー・ストルガツキー / ボリス・ストルガツキー
■ 音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
■ 撮影:アレクサンドル・クニャジンスキー
■ 編集:リュドミラ・フェイギノヴァ
■ 出演者:アレクサンドル・カイダノフスキー /アリーサ・フレインドリフ / アナトリー・ソロニーツィン / ニコライ・グリニコ / ナターシャ・アブラモヴァ
wikipedia:ストーカー
wikipedia:アンドレイ・タルコフスキー

ストーカー / Сталкер

 先日、不思議惑星キン・ザ・ザの記事をUPした時にこの作品を思い出していました。という事でタルコフスキーのSF映画『ストーカー』(潜伏者)を取り上げてみたいかと。正直言って、受け入れる人を選ぶ類の映画だと思います。実際、タルコフスキー映画は「眠くなる」と評される事も多いです。それは、緩やかな映像美と、現実性を帯びた無理の無い時間展開を映画の中で再現しているからですが・・・。ですが、個人的にはSFというカテゴリを除いても、傑作の映画だと思っています。ネタバレを含む観想です。

 この作品もソビエト時代において生み出された映画です。とはいえ、先に挙げたキン・ザ・ザのような微笑ましい笑いを誘うものでもありません。無論、ハリウッド大作のように、SFXが多用されたり、壮大な展開を見せるシナリオではありません。それこそ、SFという非現実なシチュエーションは利用しつつも、特撮技術は敢えて排除しています。にも関わらず、非現実空間を表現する事に見事に成功しています。寧ろ、『見る側の想像力』や『感受性』を大いに試される作品と言うべきでしょうか。特に劇中に登場する危険極まりない『ゾーン』の世界を主人公達が歩く際、重りをつけた白い布を投げて安全を確認していくシーンは印象深いものがあります。

 それこそ、この映画で取り上げられる『ゾーン』とは何だったのでしょう。それはSF的な答えを求めるものではないように思えます。本当は我々の中にある欲望の到達点を抽象化したものといえると思うのです。

 それを手にする事は人生で最大の悦びであり、希望そのものなの。それ無くしては人生は暗く侘しいものであり、生きている価値すら見出せない世界。しかし、その目標が高ければ高い程、追い求める事にリスクも伴う。そのリスクも、自らにだけ降りかかるものであれば、躊躇う者も少なかろう。しかし家族までをも犠牲として進んでも良い道なのであろうか。そこまでして犠牲を払ってまで行った先に得るものは、果たして本当に価値あるものなのだろうか。

 結果として、その領域に進む事が出来るのは、その疑念を超えられた限られた者だけなのかもしれない。しかし、仮にその領域にたどり着いても、望んだ世界がそのまま手に入るとは限らない。さらにその先にも、予想の付かない困難が待ち受けているかもしれない。果たして、希望を、いや欲望の象徴を手にするには、犠牲は致し方ない事なのか。その判断の領域に踏み入れる究極の選択に迫られた時、果たして人は何を思うのだろうか・・・。この作品はそうした人間の内面を鋭く描いた作品だと思いました。

 ちなみに、ゾーンの世界はカラーで、本来の生活圏での世界はモノクロであるのが印象的ですよね。ーンの方が危険であっても生き生きとした世界であるという事を象徴しているかのようでした。また、主人公がゾーンに到着した後、延々と続いてきた暗い日常からの変化を予感させるものとして、彼の娘が超常現象を起すシーンも印象的であったかと思います。とはいえ、その能力が果たして彼や彼の娘が望んで手にする事となったものなのかは、この物語では明かされていませんが・・・。主人公があれだけの苦悩を超えて来た結果として、娘が授かった能力という事であれば、望むにせよ、望まざるものであったにせよ、多少成りとも彼女の未来に繋がるものであって欲しいと感じずにはいられませんでした。別の言い方をするのであれば、子供の未来とは、大人が願った姿になるとは限らない(えてして異なるもの)・・・だという事を暗示しているようにも感じる部分もありました。

 ちなみにこの作品も、ソラリス同様に原作の内容をタルコフスキーがかなり変えて映像化したようで、原作の面影すら残っていない。という話は有名ですね。 タルコフスキーはどのようなシチュエーションにせよ、あくまで人をテーマに作品を作りたいという性分なのかもしれませんね。ちなみに、映画ソラリスの原作者であるスタニスワフ・レムは「タルコフスキーが作ったのはソラリスではなくて罪と罰だった」と語っていたそうです。なる程、凄く良く解る話ですね。

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1986年 / ソビエト / 135分
監督:ゲオルギー・ダネリヤ
脚本:ゲオルギー・ダネリヤ / レヴァン・ガブリアゼ
音楽:ギヤ・カンチェリ
撮影:パーヴェル・レベシェフ
出演:スタニスラフ・リュブシン / エブゲー二一・レオノフ / ユーリー・ヤコブレフ / レワン・ガブリアゼ
■ 公式HP
■ wikipedia

不思議惑星キン・ザ・ザ / Кин-дза-дза!

 以前からその名を耳にして気になっていた作品なのですが、ようやくにして見る事が出来ました。タイトルからして怪しい匂いがプンプンして来るでしょ? もうね、最初から最後まで意味不明な事だらけw
これだけ不思議空間の連続なのに、ちゃんと映画として成立している作品はなかなかお目にかかれません。それこそ、非現実を表現するSFの世界における、一般的なSFの既成概念すら通用しなところにこの作品の凄さがあると言えます。もうね、騙されたと思って何の予備知識無く観てください。ヘンテコな映画を受け入れられるクチの人ならば、その下らなさと、ちょっとした優しさにヤラレテしまう事請け合いです。

ネタバレ有りの観想です。未見の方はご注意ください。

カツェ - マッチ。
チャトル - 通貨。
ツァーク - 低い身分であることを示す鼻に付ける小さな鈴。
ペペラッツ - 宇宙船。釣鐘状をしておりプロペラのようなものを回して飛行する。
グラビツァーバ - ペペラッツを時空移動させるための加速器。モーター部品。
ルツ - ペペラッツに使われる燃料。水から作られる。
エツィロップ - 権力者、警察官。
エツィフ - 囚人を収容する小さな箱。
キュー - 公言可能な罵声語。
クー - それ以外の全ての表現。

 いったい『ク〜♪』って何なのですかw あの挨拶の仕方といい、歌やダンスといい、可笑しいったりゃありませんねw 大体、あの釣鐘型の飛行機械が、実は宇宙船にもなっちゃうって、「どんだけ〜〜w」って感じなのですよw と言うか、何で「マッチ」がそんだけ価値のあるものなんですかw その発想力にただただ脱帽ですね。それに淡々と進むストーリー展開が妙にこの世界の無情さを表していて、何時の間にかハマってしまいますねw それこそ私は全く予備知識なく観たので、最初は『ん〜?^^;果たしてこの作品は何がやりたい作品なのだろう?』っていう感じだった位なのですが、いつの間にかこの作品の魔力にヤラレテしまいましたw

 ホント、お金は掛かっておらず、チープシックで、実にナンセンスな世界。むしろ、お金が無い事を逆手にとりながらSF的なニュアンスを表現する事に成功しており、実は物凄く計算されていると言うか、ある種の上手さを感じさせる作品と言えると思います。

 それこそ、A.タルコフスキーのSF映画の名作『ストーカー』に匹敵する素晴らしい演出のセンスがあると言えるのではないでしょうか(あ、ちょっと褒めすぎかもw)。とは言え、あんなにシビアで暗い作品ではなく、ある種のスラップスティック・コメディと言うか、銀河ヒッチハイクガイドの方が近い雰囲気があるかもしれませんね。ちなみにヒッチハイクガイドも限りなくB級の匂いのする映画ですが、この作品の方が遥かにショボク、編集も雑で、汚ならしい映像だったりします(^^;

 でもそれが決してネガティブな印象にならないのがスゴイところ。それこそ、単に可笑しいだけでなく、思わずホットするようなシーンもちゃんと用意されてますし、ロシア本国はもとより世界中でカルト的人気を博しているというのも強く頷けるものがありました。(なにやら、ロシアではアニメ版の制作が進行している程なのだとかw)ホント、ある種の傑作だと思いますw

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2005年 / アメリカ / 119分
監督:スコット・デリクソン
製作:ポール・ハリス・ボードマン / ボー・フリン
脚本:ポール・ハリス・ボードマン / スコット・デリクソン
出演者:ジェニファー・カーペンター / ローラ・リニー / トム・ウィルキンソン /
■ 公式HP
■ wikipedia:エミリーローズ

エミリーローズ / The Exorcism of Emily Rose


 宗教というもの。信仰というもの。裁判というもの。人の良心というもの。そして、映画というものと広告メディアとの関係というもの。この映画を見ていると、本当に様々な事に思いが巡りました。

 早速ですが、ネタバレ有りの観想です。

 この映画が何処まで実話を忠実に再現しているのか判らず、あくまでこの映画の話をベースに観想を述べる事しか出来ないのですが、宗教というものを裁判で裁くというのは本当に難しいものだと感じました。それこそ、この2つは全く異なる原理に基づくルールであり、根本からして交わらない部分がある訳で。そうした意味で、この映画における判決というものは、現時点で取りえる最良の判断だったと言わざるを得ないように感じました。また、彼女が病気だったのか、それとも本当に悪魔に取り付かれてしまたのか、この映画だけでは判断出来ませんでした。

 私はそうした裁判の点よりも、エミリー自身が神父に書き残した手紙の内容の方が気になりました。その手紙によれば、神父が取った行動はあくまで彼女の同意があっての事だと証明されるわけです。むしろ神父の行動がどうのこうのと言うよりも、エミリー自身が自らに起きている異常な体験を「受難」として受け入れたという事実に驚きくと共に一種の戦慄を感じました。嘘か誠か、現実か、幻覚なのか判りませんが、エミリーがマリア様の声を聞くシーンが出てきます。それこそ、彼女は元々敬虔なクリスチャン。マリア様はこちら側にくればもう苦しまなくてもいいけど、残ることも出来ると彼女に告げます。(この場で天国に召される事も出来るという事)そもそも彼女が悪魔に取り付かれたのは、悪魔がこの世に実在することを世に伝えるためだというのです。そう、彼女の身には「受難」が降りかかっているというのです。

 私のような無宗教者にとってみれば、失礼ながら「なんじゃそりゃ」ってなものです。熱心な信者だからこそ、その犠牲になるのが宗教なのでしょうか。本当に神がいたとして、そんな行為をするのが神様なのでしょうか。もしも悪魔がいたとしても、彼女は単なる犠牲にしかなっていないのではないでしょうか。それこそ彼女は悪魔の存在を見せしめるため、そして神の力を世に示すために、見せしめに使われたというわけですか?

 また、もしも神も悪魔もおらず、彼女の病気が生んでしまった幻想だったとしても、この部分は異常な話だと感じました。それこそ、仮に幻覚だとしても、話しの内容によっては、死を受け入れてしまえれるというものが信仰というものなのでしょうか?実際、彼女はそのシーンにおいて、地上に残り、その「受難」を受け入れる事を選択します。しかし、その1日後に、実際には死んでしまうのです・・・。それこそ、長年にわたり洗脳されてきた「教え」が歪んだ形で彼女の生に対する渇望を断ち切ってしまったように感じ、一種の戦慄を感じました。

 現実として神が居る、居ないに関わらず、現世での彼女は救われませんでした。それとも彼女は「セイント」として救われたとすべきなのでしょうか? もしも神も悪魔も居なかったとして、結果として自ら死を選んだと言える彼女は、その死に納得出来ていたと言えるのでしょうか。どちらにせよ、ただただ彼女が気の毒で仕方がありませんでした。彼女のご冥福をお祈りいたします。

 あと、カーライト医師のあまりにタイミングの良い(いや悪いと言うべきですね)死や、深夜3時に弁護士のエリンや神父に忍び寄る「数字を読み上げる謎の声が聞こえる」等の不穏な気配が事実であったのか、映画としての演出だったのかが気になりました。また、悪魔祓いの儀式の様子を最初から最後まで収めたテープというものにも、どこまで信憑性があるのか気になるところです。それこそ、エミリーが馬小屋等へ移動した際、わざわざ録音デッキも持って移動する事が出来ていたのでしょうか? そしてそのテープには、悪魔の囁きがどこまで録音されていたのか気になる部分でもあります。とは言え、そのテープが聴ける事が出来たとしても、臆病な私はとても怖くて聴けそうにありません。それこそ、この難しいエミリーの役を演じたジェニファー・カーペンターには頭が下がりました。

 それにしても、この映画のCMのやり方は気に入りませんでした。デリケートなテーマを孕んだ作品なのに、単なるホラー映画として宣伝しているどころか、当時のフィギュアスケートの話題性を用いて、エミリーの苦痛の姿を、悪魔のイナバウアーと銘打っていた点に怒りすら感じます。確かに映画は売ってナンボ、集客があってナンボ。話題作りは大切なのでしょうが、あのコピーは、エミリーに対しても、荒川静香選手に対しても、技を生み出したイナバウアー選手に対しても大変失礼なのではないかと感じました。それこそあのCMは、この映画の品位を下げてしまう結果になっていると感じます。映画自体の出来が悪くないだけに、大変残念に思いました。

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1998年 / アメリカ / 119分
監督:トニー・ケイ
製作総指揮:ビル・カラッロ
製作:ジョン・モリッシー
脚本:デイヴィッド・マッケンナ
出演者:エドワード・ノートン / エドワード・ファーロング
音楽 アン・ダッドリー
■ wikipedia:アメリカンヒストリーX
■ wikipedia:白人至上主義

アメリカンヒストリーX / American History X

 ポスター画像だけでも強いインパクトがありますよね。それこそ、これがファイトクラブで弱々しい男を演じていた、あのエドワートノートンなのかと。この映画の為に鍛え上げられたという話ですが、物凄い体をしています。さらにはヒゲを生やし、スキンヘッドにするだけでなく、その胸にはハーケンクロイツ。このポスターを見た途端、一体どのような作品だろうと、否応なくひき付けられた事を覚えています。それこそロードショーの時点から観たかったのですが、あっと言う間に上映が終わってしまい、なかなかチャンスを作れないでいました。
先日ようやくにして見れたので、その観想を挙げてみたいかと。

 ネタバレ有りの観想です。未見の方はご注意を。

 ポスターから受けるインパクトそのままに、やはやり強烈なまでのメッセージと、深い問題提起がされていました。白人至上主義を掲げ、その実現の為には暴力を厭わず、身内すら省みない男を中心とした人間模様が描かれていたのです。

 黒人に父親を殺された事から、生活は不安定になり、白人至上主義を掲げる似非ネオナチに嵌る主人公。彼はその行動力から、グループのリーダーのような存在となってゆく。次第に黒人に対する暴力はエスカレートし、ついには殺人まで犯し、刑務所暮らしの身となってしまう。ところがその行為は伝説化され、彼の存在は益々神格化されていった。その男には弟がいた。弟もまた兄を神格化し、出所を待ちわびていた。ところが3年ぶりに出所して来た兄は人が代わっていた。グループを脱退したいと言う兄。彼は刑務所という黒人が圧倒的に多い世界では、今まで自分の信じて来たルール(白人至上主義)が通用しない事を思い知らされる。さらに、刑務所内の白人達に嫌悪感を感じるどころか、とある出来事から自分の価値観が崩壊したのだった。しかし、その実状を知らぬグループの首謀者は彼の脱退を拒む。結果として、彼は黒人のみならず、かっては仲間であった白人のグループからも追われる立場となる。そして彼を崇拝し、その行動を真似て来た弟も黒人から目を付けられ、結果として悲劇が訪れる事となる。

 人種差別・格差問題・宗教の問題。まるで先に記事に挙げたマルコムXの白人版とでもいうような話ですね。タイトルにXという文字も掲げているくらいですし、映画とは言わずとも、マルコムXの存在の事を相当意識して作られたのではないでしょうか。それこそ、マルコムXという存在、いや黒人差別問題は何も黒人社会だけで生み出された存在ではなく、アメリカ自身が生み出したものであると。そして、マルコムが姓をXとして、自身の未来に対する可能性を表現したように、この膿んだアメリカ社会の歴史も変わる事の出来る可能性を秘めていると訴えたかったのでしょうね。

 また、黒人が主人公の映画など見向きもしない白人の若者に人種問題を訴えたいからこそ、敢えてこのような過激な演出を用いたのでしょうね。実際、その暴力シーンはかなり過激で、一般向けではありませんでした。ある意味、よくぞ作ったと言うべきでしょうか。それこそ、アメリカの若者(白人・黒人共に)はこの作品を見て何を思うのでしょうね。願わくば、その過激さに目を奪われる事なく、真意を掴んでもらいたいものです。

 それにしても、この映画のエドワート・ノートンは凄いですね。彼の演技は定評があり、どの映画においても水準以上の演技を見せますが、この映画の彼は本当に見事でした。また、弟役のエドワード・ファーロングも素晴らしかったです。ターミネーター2の頃とは別人ですね。この作品での彼の演技力は、十分評価出来ます。(何故か、ギルバートクレイプでの初々しいデカプリオの事を思い出してしまいました。)万人受けする内容ではありませんが、私は見る事が出来て良かったと思っています。

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マルコムX / MALCOLM X


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1992年 / アメリカ / 202分
監督:スパイク・リー
製作:マーヴィン・ワース / スパイク・リー
脚本:アーノルド・パール / スパイク・リー
音楽:テレンス・ブランチャード
出演者:デンゼル・ワシントン / アンジェラ・バセット / アルバート・ホール
 アメリカ黒人の「姓」は本来の彼らの姓ではなく、奴隷所有者が勝手につけたものにすぎないとネイション・オブ・イスラム教団では考え、未知数を意味する「X」は、失われた本来の姓を象徴するものである。
■ wikipedia:マルコムX
■ wikipedia:映画マルコムX
■ wikipedia:ネーション・オブ・イスラム
■ wikipedia:イスラム教

マルコムX / MALCOLM X

 先日、久々にこの映画を見返しました。スパイクリーによる、マルコムXの自伝映画です。彼は1950年代以降のアメリカにおいて最も攻撃的な黒人解放指導者として名を馳せ、今尚語り継がれる人物です。

 果たして、イエスや使徒たちの肌の色は何色だったのか。彼等はヘブライ人であった。ヘブライ人の肌の色は何色だったのか。彼等は白人ではなかったはずだ。このようにキリスト教の牧師に問いかけるマルコム。

 白人が信仰するキリスト教が我々に何をしてくれたというのだ。黒人である自分を愛せ。黒人である事を誇りに思え。白人を憎めと言っているのではない。しかし、白人が自分の身を守るように、黒人も自らの身を守るべきだ。自らに尊厳を取り戻すべく、イスラム教を信仰すべきだ。このようにアメリカにおいて長らく迫害を受けてきた黒人達に訴えるマルコム。

 彼の言葉が正しければ、黒人は自らの肌に近しい存在が生み出したはずであろう宗教を白人に利用され、迫害を受けているという事になります。逆に言えば、白人は自らの肌と異なる人種の生み出した宗教の姿を真に理解しないまま信仰し、白人至上主義を貫いていると言えるのかもしれません。そう、宗教というものには様々な矛盾点が存在する。いや、それを伝え、広める人々の思考に、根強い偏見が存在していると言うべきでしょうか。

 しかし、改宗すれば全てが救われるのでしょうか。また、イスラム教の勢力がアメリカで増強すれば、事は単純に解決するものなのでしょうか。それこそ、肌の色の問題と、宗教の問題を同一視すべき問題ではないはず。彼自身、様々な過程を経て、そうした問題点にすら気付く事が出来ながらも、その領域から逃れきる事が出来なかった事が残念にも感じました。

 しかし、個人として過去に起こした行為の過ちに気付き、命を掛けて真摯に差別問題に取り組んだ姿には頭が下がります。であるにも関わらず、崇拝し、同士であると信じて来た仲間達に裏切られ、さらにその身に危険が及んでしまうとは無情というか、皮肉なものすら感じてしまいますね。ホント、黒人同士で争ってる場合ではなかろうに・・・。

 それにしても、こういう映画が作られるアメリカという国はいったいどういう国なのでしょうね。自由と平等と平和をうたいながら、平然と戦争を行い、有色人種への差別が消える事の無い国。そうした国でありながら、こうした映画が商業主義の象徴でもあるハリウッドで生み出される事に驚かされます。これは、こうした作品すら生み出す事に寛容である。というスタンスを見せたいアピールなのでしょうか。それとも、マーケットにおける収益性・話題性が見込めるのであれば、何にでも手を出すという柔軟性、いや、貪欲性の表れなのでしょうか。それとも、彼を取り巻く人、そして彼自身が身を置く組織が巨大になるにつてれ変化してゆく様を見せ付け、結局人は弱い心を持った存在だという事を伝えようとしているのでしょうか。

 映画の中で、同時代に非暴力で黒人解放運動を行っていたマーティン・ルーサー・キングの言葉が耳に残りました。

 マルコムXが暗殺された事は実に不幸な悲劇です。残念ながらこの国には今も意見の相違を殺人という形で解決しようとする人間が大勢いるのです。暴力を用いない解決法を学んでいないのです。
マーティン・ルーサー・キング

 そういえば、アメリカでの次期大統領候補を決定する予備選挙において、初の黒人大統領となる可能性を秘めたオバマ氏の動向を伝えるニュースが盛んですね。彼はその肌の色のみならず、スピーチが単純明快で、変革を望む姿勢が誰にも判りやすく伝わる事から、まるでJFKの再来とまで言われるケースも。果たして彼はその座を手にする事が出来るのでしょうか。可能ならばその姿を見てみたいような気もします。しかしその結果、J.F.Kや、マルコムX、M.L.Kのように暗殺されないかと不安を感じてしまいます。って言うか、大統領にもなってないのに、暗殺の不安を感じさせる国って、どういう国なのでしょうね。

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