この記事は、最近見た映画 その1の続きです。
最近見たアニメに続きます。(続きの記事は、保存フォルダがアニメの書庫に代わります) |

>
- エンターテインメント
>
- 映画
>
- 映画レビュー
こんにちは、ゲストさん
映画 (洋画)
詳細
この記事は、最近見た映画 その1の続きです。
最近見たアニメに続きます。(続きの記事は、保存フォルダがアニメの書庫に代わります) |
>
>
>
暑いですねえ・・・ホント、体が溶けちゃうっていうか、建物の中だろうが、外だろうが、始終サウナに入っているような感覚といったところでしょうか。この暑さも、まだ数日は続くようで・・・。こんなに暑いと何もやる気がおきませんよねえ・・・。それこそ、5月から7月の間に頃に訪れた美術館のネタも5つ程溜まっている状況だったりする私ですが、気合を入れて記事に起こす気力と時間がなかなかもてないでいます。 そんな事は言いつつも、映画はボチボチみています。ここ最近は映画の記事も殆ど書いていませんが、この半年から1年くらいの間でもそこそこ映画は見ています。って言っても、自宅において撮り溜めていたビデオテープを引っ張り出したり、ネットでの動画配信などを利用してなんですけどね。 こうした映画の感想も、1つ1つ記事にしたいのですが、ちゃんと纏め上げる時間もなかなか取れないまま、記憶が薄らいでゆくのも怖いので、不本意ながらも備忘録的に書いておこうかと。
その2へ続きます。 |
>
>
>
|
■ 原題 : Le Pays Des Sourds / In The Land of the Deaf ■ 1992年/フランス制作/99分 ■ 監督:ニコラ・フィリベール ■ 録音:アンリ・マイコフ ■ 出演:ジャン=クロード・プーラン 1992年ポポリ映画祭グランプリ受賞 1992年ベルフォール映画祭グランプリ受賞 1994年ボンベイ国際映画祭グランプリ受賞 1992年ロカルノ国際映画祭批評家週間正式招待作品 1993年山形国際ドキュメンタリー映画祭正式招待作品 ■ '''公式HP 音のない世界で先日見たこの映画の感想を述べてみたいかと。この映画は、少し前のフランスのドキュメンタリー作品です。この映画には、子供、若者、大人、老人、あらゆる世代の実在の人物が登場します。タイトルから想像出切る方もいらっしゃるかと思いますが、彼らは皆『耳が聞こえない』人々です。彼らの中には不断の努力を通じ、辛うじて聞こえる音や、口の動きから、健常者の言葉を読み取り、言葉を発する事も出来る者もいます。しかし多くの方は、耳の聞こえる人とは少々異なる文化や、コミュニケーション手段を用いて生活をしています。そう、『手話』の事です。この映画は、そうした『音のない世界』に生きる人々を、彼らの目線で映し出したドキュメンタリー作品なのです。私はこの映画を見て、本当に多くの事を考えさせられました。非常に心に残る、素晴らしい作品だと思います。 以下、ネタバレを含む感想です。気になられる方は、ご注意ください。 この映画で登場していた耳の聞こえない人達は、夫々において、このような感じの事を述べていました。「小さな頃、周りの友人達や家族が楽しそうに交流している理由を理解出来ず、仲間に入れなかった時、とても辛かった。家族の中でも手話を覚えようとしてくれるのは母親だけで、他の人は覚えようとしてくれなかった。しかも母親も、簡単な手話しか覚えてくれなかった。自分の子供がいつまで経っても「言葉」を話そうとしない事で、この子は頭がオカシイんじゃないかと、母親によって病院に送り込まれた事すらある。」と・・・。(記憶で書いているので一部正確性に欠けるのをお許しください) このような話を聞いたり、実際に手話でコミュニケーションをとっている人達を見かけた時、思わず「気の毒に」とか、「可哀相に」と口走った事がある人は多いのではないでしょうか。かくいう私も、そうした経験があります・・・。しかし、彼らは本当に劣った存在なのでしょうか?可哀相な存在に感じさせてしまうのは、彼等の側に問題があるからなのでしょうか?気の毒な立場に追い込んでしまっているのは、言葉を発する事の出来る側の行為による部分も、多分にあるのではないでしょうか? 実際のところ、彼らは決して馬鹿な訳ではありません。また、耳が聞こえないから、言葉を上手に喋れないからといって、感情が無いわけではありません。思春期や、大人ともなれば、当然ながら恋もします。 それこそ、彼らのコミュニケーション手段である手話すら完璧に理解していなさそうな、本当に小さな子供でも、明確な個性と感情を持っているわけです。ただ、そのコミュニケーション「言語」が、他の人と異なるだけなのです。 これって、「英語」とか、「フランス語」、「ドイツ語」といった、普段耳慣れない外国語を話す人と出合った時と同じ事のように感じませんか?別の見方をすれば、自分達が普段使う言葉が通じない相手であっても、ちょっと表現方法が異なっていたり、表現下手な相手であったとしても、その相手が高度な文化や、思想、知識、経験、感情を持っていないという理由にはならないという事です。 寧ろ、彼らは言葉を発する者よりも、驚異的に優れた面も持っています。彼らが使う手話は国によって、その表現手法が異なるのだそうです。なので、彼らも外国の耳の聞こえない人と出合った際は、最初は手話が通じないのだそうです。しかし、彼らは3日もすると、互いに理解し合い、かなりのレベルでのコミュニケーションする事が可能なのだそうです。それこそ、高度な口頭会話力を持っているはずの多くの者が、何故外国言を覚えるのに、何ヶ月、いや何年も掛かるのだろうと、冗談交じりに語っていた程です。 この事を聞いて、「言葉=言語」というものが、どれだけ思考やコミュニケーション能力を支配しているのかという事を深々と考えさせられました。また、彼らにそうした事が可能なのは、常に相手の事を深く観察し、考え、推察し、理解し、思いやる心があるからなのではないかとも感じさせられたのです。 そう、我々は義務教育などを通じ、英語といった外国語を学ぶ機会が増えています。職務によっては、高度な語学力も必要でしょう。しかし何よりも重要なのは、そうした異文化や異言語を持つ相手に対しても、「相手を理解し、歩みよろうとする気持ち」なのではないかという事です。 ちなみに彼らはこうも言っていました。英語などの外国語は、義務教育などの授業でも教えられる。 でも、同じ国に住む人が使っているコミュニケーション手段なのに、なぜ初歩の手話すら教えようとしないのだろうと・・・。本当に、様々な事を考えさせられる作品でした。 でも、決して暗いお涙頂戴の、ワザとらしい作品ではないのです。寧ろ、屈託のない子供達の可愛らしい笑顔に癒されると同時に、深い感動を覚える非常に素晴らしい作品だと思います。可能であれば、是非とも多くの方に見ていただきたい作品だと感じました。
|
>
>
>
|
■ 1999年/アメリカ・イギリス制作/159分 ■ 邦題:アイズ・ワイド・シャット ■ 原作:アルトゥール・シュニッツラー 『夢小説』 (1926年) ■ 監督:スタンリー・キューブリック ■ 製作総指揮:ヤン・ハーラン ■ 製作:スタンリー・キューブリック ■ 脚本:スタンリー・キューブリック/フレデリック・ラファエル ■ 出演者:トム・クルーズ/ニコール・キッドマン ■ 音楽:ジョスリン・プーク ■ wikipedia:アイズ・ワイド・シャット EYES WIDE SHUT先日、キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』を見ました。キューブリックの遺作であり、当時夫婦だったトム・クルーズとニコール・キッドマンが、夫婦役で出演していた事でも話題になった作品。賛否両論の作品ですよね。先日、ようやくにして見る機会を持てました。非常にスキャンダラスな内容で、万人にオススメ出来るような作品では無いように感じました。でも、個人的にはこういう作品は嫌いじゃなかったりしました。何時ものように、ネタバレありの感想を述べてみたいかと。 隠された想い。 隠された不満。 隠された欲望。 『仮面』を被る事で、表れてくるそれらの感情。それは、どれだけ親しい間柄であろうとも、曝け出す事を躊躇うもの。それこそ、身内にすら打ち明けられない胸の内と言うべきものか。それらは何故、別の顔を持った途端に、躊躇いなく曝け出せるようになるのだろう。それは、普段見せている姿こそ、自らの本性を隠すモラルと言う名の『仮面』を被っている事に他ならないのではないか。 職業、地位、社会的な役割 髪型、衣服、言葉遣い 自らが選択し、望み、たどり着く事で確立してきたはずのアイデンティティ。 ひょっとして、人はそうした普段の『仮面』を被り続ける事に疲れてしまっているのではないか。自分自身だと思い込み、作り上げてきた『仮面』の事を、窮屈な存在として感じている部分があるからなのではないか。だからこそ、抑圧された感情を曝け出す事に、強烈な好奇心と、開放感を覚えてしまうのかもしれない。だからこそ、人は別の『仮面』を被る事に強く惹かれてしまうのかもしれない。 であるならば、何故、全ての人がそうしてこなかったのだろう。いや、何故そうする事ができないでいるのだろう・・・他人に成りすます事は、すなわち自らを否定する行為であると感じているからだろうか。欲望のままに生きるという事は、他者を傷つけ、己の身の破滅を招くリスクがある事を、本能として感じているからだろうか。 しかし、常に『仮面』を被りながら暮らしている社会においては、自らのパートナーといえる存在であっても、その胸の内を何処まで理解出来ているというのだろうか。本音でをぶつけ合う事の無い関係というものは、果たして誠実な関係であると言えるのだろうか。それこそ、普段の生き方においては、自らの心の内すら、その全てを理解出来ているのだろうか。真実に目を向け、それに近づいてゆくには、自らの『仮面』を降ろす事から始めるしかないのかもしれない。そんな印象を感じる作品でした。 |
>
>
>
|
■ 1970年/ロシア制作/ 209 分 ■ 原題:Преступление и наказание ■ 原作:フョードル・ドストエフスキー (1866年著) ■ 監督:レフ・クリジャーノフ ■ 出演: ゲオルギー・タラトルキン, タリアナ・ベードワ wikipedia 罪と罰 罪と罰ロシアの文豪ドストエフスキーによる「罪と罰」。その作品を読んだ事の無い人でも、タイトルを耳にした事が有る人は多いのではないでしょうか。かく言う私もそのクチで、恥かしながら書籍の方は未読であったりします。とはいえ、そのタイトルは非常に強いインパクトを与えるもの。映画を通じてという形は邪道ではあるかもしれませんが、その世界の一端に触れてみたいと考えました。ちなみに「罪と罰」の映画化は幾度も為されてきたそうですが、この作品は最初に映画化された時のものです。209分と大変に長い作品で、前編・後編の2部構成になっています。そんな作品の感想を述べてみたいかと。 人は様々な過ちを犯しながら暮らしている。いや、過ちと言うより、罪と言っても過言ではないのかもしれない。時として私利私欲を満たすため、自らの理想を貫くために犯した罪もある。自身の生活のため、家族を守るため、あえて犯ざるを得なかった罪もある。人としての尊厳を守るため、望まずして犯す事もある。理性を失い、衝動的に犯してしまう罪もある とはいえ、どれだけどれだけ自分を正当化しようとも、どれだけ善行を重ねても、罪を犯した事実は消え去る事はない。仮にその事実が他人に知られていなくても、周りの者が同情しようと、神に縋ろうと、罪を犯した事実は消え去る事はない。それは、自らの記憶を消し去る事は出来ないからだ。その事実は、自らを苦しめ、さらなる狂気へと駆り立てられる事もある・・・ 果たして人は、罪を許せるものなのか。もしもその罪を償えるとするならば、一体何をもってして償えるというのだろう。どれだけの時間を掛ければ、自分を戒める事が出来るのだろう。どれだけの後悔と苦悩を味わえば、自分を許す事が出来るのだろう。 それぞれが背負ってしまった罪は、その人の人生を表していると言えるのかもしれない。いや、寧ろその罪の償い方にこそ、その人の人となりが最も表れると言うべきなのかもしれない。そんな事を感じる作品でした。 ちなみに映画を見た後でwikipediaを拝見したところ、ドストエフスキーがその著書を手掛けるにあたっては、当時の時代背景や、自身の裏事情なども色々と影響していたようですね。しかし本作は、原作が書かれてから100年経過してからの作品という事もあってか、変に思想的なニュアンスなどを感じさせるものはありませんでした。それこそ、2009年の現在からすると、この映画自体も40年近く前の古いモノクロ作品でしたが、大変見応えのあるヒューマンドラマであったかと思います。これだけ重みのある作品が、それだけ以前の時代に書かれ、映像化されていた事にも驚かされますね。いや、物語を生み出す事や、映画を作り出す事が、今の時代よりももっと困難な当時だからこそ、生み出す事が出来た作品だと評価すべきでしょうか。 ちなみに私は、主人公のロージャよりも、ソーニャの方に感情移入してしまいました。ソーニャの人生があまりに気の毒に感じながらも、その心があまりに美しくて・・・。でも、209分の上映時間は、流石にちょっと長かったかもしれませんね(^^;
|
>
>
>
| 日 |
月
|
火
|
水
|
木
|
金
|
土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | |||||
| 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
| 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
| 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
| 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
[PR]お得情報