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のんびり行こうぜ / 野田知佑

こぎおろしエッセイ 新潮文庫

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野田知佑

タイトルからしてイイですよね(笑)この本は大学生の時代に購入したものです。新潮文庫の100冊として店頭に並んでいるのを見た瞬間、そのタイトルに釘付けになり即買いしたのを覚えています(笑)

それこそ当時はアウトドアに興味がありながも、バーベキューやキャンプ程度しか経験が無かった私は、ビーパルのようなアウトドア雑誌をたまに覗く程度の人間でした。そして、何時かはカヌーやMTBをやってみたいと単に憧れていただけの人間だったのです。そんな時にこの本を通じてカヌーイスト野田知佑氏を知ったのです。いや、野田氏の事は既にCMを通じて観た事はありました。日清のチキンラーメンのCMに、カヌー犬のガクと一緒に「すぐ美味しい〜♪すごく美味しい〜♪」と出ていたのが印象に残っていたのです。ああ、あの人が野田氏なのか。それこそ一体どのような生活を送っている人なのだろうと、強い興味を抱いたのでした。

読んでみると実に豪快。気持ちがよいほどサッパリとし、自由奔放に生きている人でした。それこそ、変な気負いもなく、曲がった事には荷担せず、トコトン自然とお年寄りと子供を愛する男なのです。また、彼はアウトドアで活動する上で、独特のポリシーを持っているのです。

食べる為に魚を採る事はあっても、楽しむ為の釣りはしない。レジャーとして釣りをする者はキャッチ&リリースと体裁の良い事を言っても、結局魚の口は針で傷つく。傷ついた魚は結局弱り、他の魚に食べられたり、死期を早める事となる。そんな事は自然を愛し魚を愛しているなら出来ない事だ。例え小さな魚といえど、命ある者を対峙するのであれば、責任をもって食料として必要な分だけ命を奪うべきだ。だから自分は、キャッチ&ストマックを行う。食べる分だけ採り、採った魚はきちんと成仏させる(食べて胃に放り込む)。このように、堂々と公言する男なのです。しかもその採り方は、時に投網だったり、モリであったり、場合によっては素潜りでの手づかみを行い、針を垂らす釣りなどは滅多に行わないのです(笑)

川をこよなく愛し、川を汚す者に怒るだけでなく、無闇やたらな護岸工事によって魚の住めなくなった川を嘆き、行政にも怒りをぶつける男。作家、椎名誠・等、の友人との楽しい交流の様子も面白く、よくぞこの時代にこうした”大人の男”がいたものだと、感心すると共に惚れ込んでしまいました。

以降、私自身はカヌーイストでもないというのに野田氏のエッセイを17冊は読んでいたかと思います。
それだけ読んでも野田氏の主張がぶれる事ないのに驚かされると共に、いつかはこのような大らかでどっしりとした大人になり、カヌーで川をゆったりと下りたいものだと感じていました。

結局の所私はカヌーではなく、MTBやクライミングに手を染め、未だカヌーの経験は無いどころか、最近のこの人の書物を手に出来てはいませんが、自然に対する向き合い方をこの人から一番最初に教えてもらったような気がします。それこそ最近は思うような余裕がない状況ですが、この本のタイトルの精神はずっと忘れたくないものですね(笑)

植村直巳と山で一泊 登山靴を脱いだ冒険家、最後の世間話

■ ビーパル編集部・編
日本人初のエベレスト登頂や、北極点犬ゾリ単独行など、様々な冒険に挑み、挑戦した男 植村直巳。最後の冒険に出かける前の一休み、冒険家はビーパルのスタッフと共に、一泊二日のキャンプを楽しんだ。焚火に顔を火照らせながら、とつとつと彼は彼でしかありえない生きかたを語る。翌’84年冬、マッキンリーで消息を絶ってしまう冒険家にとって、これが最後の世間話になってしまった。

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■ 植村直巳 冒険の略歴 wikipedia植村直巳
・1966年7月 ヨーロッパ大陸モンブラン 4807m 単独登頂に成功。
・同年10月 アフリカ大陸 キリマンジャロ 5895m 単独登頂に成功。
・1968年 南アメリカ大陸 アコンカグア 6959m 単独登頂に成功。
・1968年 アマゾン川6000kmのいかだ下りの冒険を実施。
・1970年5月 アジア大陸 エベレスト 8848m 日本人初のエベレスト登頂に成功。
・同年8月 北アメリカ大陸 マッキンリー 6194m 単独登頂に成功。この時点で世界初の五大陸最高峰登頂者となる。
・1974年12月から1976年5月まで1年半かけての北極圏12000kmの犬ぞり探検に成功。
・1978年 単独犬ぞりで北極点到達。同年にはグリーンランド縦断成功。
・1982年 アルゼンチン軍の協力のもと、積年の夢である南極最高峰ビンソン・マスチフを目指す単独犬ぞリ探検を計画するが、フォークランド紛争勃発により断念。
・1984年2月12日 自身の43歳の誕生日でもあるこの日、世界初であるマッキンリーの厳冬期単独登頂を登頂を果たすも、翌2月13日以降が連絡が取れなくなり、消息不明となる。

世界に名だたる冒険家、植村直巳。その偉業はあまりに有名です。氏は自身の冒険を数冊の本に記載しており、「青春を山に賭けて」は、冒険家:野口健 等に多くの影響を与えた事も知られています。冒険家とはいえ大柄な体格をしている訳ではなく、自己主張が強い訳でもない。かえって物腰は低く、謙虚で、小柄ながらも頑強な男。

そんな冒険家の普段の姿はどのようなものだったのでしょうか。植村氏と気の知れた文藝春秋の湯川氏とビーパルのスタッフが焚き火を囲みながら行ったインタビューが本書となっています。その文体は録音テープをそのまま文字起こししたもので、正に植村氏のぼくとつとしながらも、熱の籠もった口ぶりが伝わってくるものでした。本書の項目を羅列てみると本書内容に思いを巡らせていただけると思います。

■ 僕は魚の頭専門みたいです。(極所での食事)
■ やっぱり人が一番怖いですね(冒険について)
■ 冒険が商売だとしたら、かなり水商売的なものです(植村直巳の歴史)
■ サバイバル技術は生きる基本を知る事(冒険の道具)
■ 東京に帰ってくると、孤独を感じます。(世間話と夢)

とても読みやすい本ですので、興味をもたれた方は是非ご一読ください。以下ネタバレを含みます。
インタビューを行った時期がグリーンランドや北極点等の冒険を済ませた後の事である事から、エスキモー達との生活が多く取り上げられていました。北極圏を犬ぞりで渡る為に、冒険前からエスキモーの村で生活を共にし、エスキモー犬を操る為のムチの使い方から、食事や餌となるものの狩の仕方から覚えようとした様子が事細かに語られるのです。

汗は即座に凍り体温を奪う為、エスキモーはそうした処置には細心の配慮を行うという。それこそ、現代の科学技術をもってして持ち込んだ最先端の化繊類よりも、その土地に古くから生活する先住民の生活の知恵が生み出したモノの方が、その土地の生活に適している場合が多いとの事。植村自身もエスキモー達が愛用するカリブーやトナカイの革の上着を着用した。それこそ、最新の機材を好む訳では無く、手間が掛かっても一度使って極限下でも必ず機能するという安全を確信しているモノを好んでいた。軽量である事はもちろんの事、緊急時には他の目的に代用出来る応用性がある事も重視していたのだという。

また、アザラシの内臓を取り出した皮下脂肪の塊に、アパリアスという鳥を羽の付いたまま詰め込み、発酵させる『キビヤック』という保存食は客人に対する最高のもてなしであるのだとか。しかし折角のもてなしであっても、その料理は唯でさえ強烈な異臭があるだけでなく、羽が付いたままの鳥の肛門から、発酵した内臓を啜るように食べる姿は、外界から訪れた者には苦痛以外の何物でもないのだとか。実際、植村も最初は吐き気を催したが、慣れてくると、かえってこれが大好物になったとの事。痩せた極寒の地ではそうした生肉や保存食が貴重な蛋白源・ビタミン源あり、そうしたものが自然と食べられるようになるというか食べなきゃ生きていけなくなると肌で感じたという。

もうね、流石と言うしかないですよね。業に入りては業に従えという事を地で行っている人とでも言うのでしょうか。特に『キビャック』の件はインパクトが強いですよね。それだけの事をしてまで土地に受け入れられようとし、土地の伝統を重んじ、その土地で生きるノウハウを肌で感じようとするとは。登山家のイメージが強い方もいるかもしれませんが、正に冒険家であるという事が少しは感じていただけるのではないかと思います。エスキモーの村でやっかいになっていた一家では狩などの生活を助けてきた事から、本当の息子と同然に受け入れらていたのだとか。しかもこれだけの事を行ってきていながらも、少しも偉ぶる事は無く、ぼくとつと話す口ぶりには、こちらの頭が下がる思いです。

そんな植村氏は世間の評価と自身の感情にギャップを感じていたようです。(注:表現の一部を省略しています)「自分は読み書きは嫌いだが、肉体的には意外と自信がある。 そして僻地へ出かけて行く事、未知の人たちの生活を知ることには凄く好奇心というか、興味がある。 フォークとかスプーンとかを使わないで食事をする人々が何を食べて暮らしているのか、そういう事に凄く好奇心がある。 そういう事情が自分の中にまずあるような気がする。 しかし、自身を高く評価してもらっているのは、世界最高峰に登ったとか、単独で北極点に立ったとか、あくまで記録から出たもの。 それはそれで有りがたいが、ちょっと違うと感じる部分もある。 確かに自分は記録を求めているところはある。 しかし、さらにそれよりも、まず自分に遣り甲斐のあるものを求めている。 終わってから、ああ遣り甲斐があったと自分で思う為にまずやっている。」

成る程、正に未知なるものを求め、探求したいという衝動が全ての源であり、それを実際に行動に移して来た根っからの冒険家という事のようです。そんな植村氏も、恐怖心は大切であると述べています。「自分が不安に思う。 それが漠然とした不安のもとだとしたら、不安というものはあってはならない。 しかし恐れというのは常に必要だと思う。 行動の中ではいつでも引き返せる体制が絶対になくてはならないものであり、その判断は、やはり恐れがあるからだろう。」しかし、こうも言っていました。「一日一日の体験はやっぱり未知の中にあるものだと思う。 しかし簡単にはシッポを巻かないで進んでいく事は その中に凄い充実感があると思う。」

成る程、考えようによっては、極地でなかろうと、我々一人一人が未知なる人生を歩む者。その心意気と生き方によっては、充実感を持った人生を送る事が出来るのかもしれませんね。これだけの事を実践し、サバイバルに長けた植村氏でありながら、ついにこの日本の地に帰って来る事は出来なかった事は悔やまれますが、その人生は充実したものであったのに違いないのでしょうね。


ソロ 単独登攀者 山野井泰史 / 丸山直樹

■ 山と渓谷社

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wikipedia山野井泰史

『ソロ』のクライミングとは、滑落時の安全をロープで確保するパートナーを持たず、ベースキャンプ以降の作業の一切を誰の力も借りずに、独りで岩山を登る行為。絶対にミスの許されない世界であり、完璧な自己コントロール・類稀な自制心・絶対に諦めない闘争心・等、技術面のみならず個人としての強さが求められる世界である。故に最高のエクスタシーもたらす世界でありながら、誰にでも出来る世界ではない。一度ソロに手を染めた者であっても、その恐怖に耐えれずに一般的なスタイルにいる者も多い。また、高度なソロクライミングを続ける者も居るが、その危険度故に命を失っている者も多い。

そんなソロクライマーの中で、凍傷によって手足の指の多くを失い、幾度も生命の危険に身を置いたにも拘わらず、今尚、高度なアルパインクライミングに挑む男がいる。それが世界最高のソロアルパインクライマーとの呼び名も高い、山野井泰史である。

山野井氏自身も山岳雑誌に業績を発表したり、自身でも本を書いているが、この本は彼に強い関心を抱いたフリージャーナリストの丸山氏の取材によって書かれたものとなっている。

「(滑落後に)潰れて死ぬのはイヤ」「(ルートの出だしへの)取付きまでの一時間のあの緊張感は生涯忘る事は無い」「死ぬ事自体はそれ程怖い事じゃない。むしろ死そのものよりも独りで死ぬ事が怖いんだ。誰にも看取られずにたった独りで死ぬ事が寂しいんだ。」

自己矛盾にも聞こえる台詞を吐きながらも、ソロに拘り続けた山野井氏。その行動の果てにある可能性として、常に死を意識しながらも、緊張感を楽しむその行為は、危険を克服し得る自身の技量に酔い、究極の快楽に捕りつかれていると言えるのかもしれない。しかし、その死の恐怖を常にリアルに感じているからこそ、極限環境下において如何に生き延び、目的を達成出来るかに全力で挑んでこれたと言える。そう、必死で生きた証を得る為に行っている行為とも言える。

しかし、そこまでソロである理由はあるのだろうか。難度の高いルートであればある程、己の最高のコンディションと岩場や天候のコンディションとのマッチングを行う事が難しくなる。年に数度も無い千載一隅のチャンスともなれば、誰にも邪魔をされたくない。誰の邪魔もしたくない。誰かを傷つけたいわけでも無く、また、不要に傷つきたくも無い。クライマーが岩にかける想いとその命の重みを知っているからこそ、他人の命など、どれだけの技量があろうと最終的には背負えるものでは無いと判っているからこその行為だと感じる。何の雑念も無く、岩と対話し、自然と溶け合い、克服したい。そうした想いを抱くのは、クライマーであれば誰しもある感情であろう。しかし、それを想うのと実行するのは別の次元の話となる。高度なスキルと経験が必要なだけでなく、確固たる強い意志を持った個人でなければ、為し得ない。得てしてそうした人間はエゴの強い人間と想われ、自然と社会からも隔絶してしまう要素が無いわけではない。

しかし彼は全くの孤独な個人であるという訳ではない。その業績が世界に知れ渡っているだけでなく、9歳年上の妙子夫人が居る。妙子氏も日本を代表するトップアルパインクライマーの一人であり、公私に渡り泰史氏を支えて来た。それこそ、時には共にザイルを結び、登るだけでなく、遭難事故にも難度も合い、彼女も手足の指を数本無くしている。高度なスキルと経験を持つクライマー同士の夫婦だからこそ、理解しあえる部分もあるだろう。しかし、いくら応援しているとはいえ、泰史氏をソロクライミングに送り出す場合は、1人の女性であり妻として不安が過ぎるのであろう。以前、この夫婦を取り上げたTBSの特番での様子を見た際、意地っ張りで無鉄砲な息子を戦地に送り出す際の、不安を隠しきれない母親のようにすら映った程であった。

それこそ口に出さずとも、彼にとって妙子氏は還るべき場所であり、安らぎを得る場所。ザイルを結んでいなかろうと、登攀中は岩の事しか頭に過ぎるものが無かろうと、無意識下においては大きな存在であろうかと思う。泰史氏はなんだかんだ言っても、彼女という支えがあってこそ、今の今までやってこれたように感じた。

それこそ山野井氏本人は決して攻撃的な性格をしている訳ではない。むしろ控えめな性格に映り、小柄な体をしている事から、失礼ながらとても高難度のソロクライミングを続けてきた男には見えない程だ。

究極のクライミングを行う行為。傍から見れば自己陶酔に陥っている輩の行為と言うのは容易いが、その領域に至るには、自らの心の中に描く理想のクライマーの姿を追い求める強い意志が無くては到達できない領域であると感じさせられる。また、本人の技量と資質もさる事ながら、目に見えない多くの犠牲と多くの支えによって生かされている世界でもあるのではないかと感じた。


アルジャーノンに花束を / ダニエル・キイス

■ 早川書房
1960年 ヒューゴー賞 中篇小説部門(中篇版) 1966年 ネビュラ賞 長篇小説部門(長篇版)長編版は、一度発表されている中篇版に対し登場人物や物語のシチュエーションを幾つか追加したものです。

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■ wikipedia アルジャーノンに花束をwikipedia ダニエル・キイス

先日から、BMI、バイオテクノロジーや脳科学の書物を読んでいる際、ずっと思い出していた本がありました。それが本書、ダニエル・キイス著の『アルジャーノンに花束を』です。高校生の時に読んで以来、何度も読み返してきた作品です。私にとってとても大切な位置をしめている本の一つです。それこそ、本書を友人へのプレゼントにもしてきた程です。何故この本を思い出したのか。既にお読みになった方は十分お分かりでしょう・・・。

産まれながらに知的障害を持った主人公「チャーリィ」。彼は純粋無垢で、学習に対する強いモチベーションを持ちながらも、同年代に比べてはるかに低い知能しか持っていません。そんな彼に突然振って沸いたような出来事が舞い込んできます。その出来事で彼の生活は一変するのです。そう、その出来事とは特殊な脳外科手術によって、脳障害を取り除き、高い知性をもたらそうというものだったのです。果たしてそれは彼にとってどのようなものをもたしたか・・・このSFは、そういった物語となっています。以下はネタばれを含みます。お読みでない方はご注意ください。

この本を読むと、本当に色々な感情がこみ上げてきます・・・。自分が置かれている状況を人はどれだけ把握出来ているのだろう。どのように他人から見られているのか理解出来ているのだろう。自分の事はどれだけ理解されているというのだろう。自分は他人をどれだけ理解できているのだろう・・・。確かに人と人の間には様々なギャップがある。しかし、そのギャップを埋めようとするからこそ、共感が生まれ、他人に対する感情移入が生まれ、愛が生まれるのかもしれない。それぞれの立場において、見えている世界や感じているモノが違うからこそ、それを伝え、理解し合うために知恵は存在するのかもしれない。しかし、多くの知識を得る事が出来たとしても、「それ」が全てに勝る価値であるとは限らない・・・。まして他者との結びつきを得られない知性は、結果として強い悲しみしか得られないのかもしれない・・・と。

それと同時に、主人公チャーリィが持っている人としての純粋さに触れると、自分という人間が、とても不純な存在にも感じてしまうのです。そう、大人になるにつれて、自分という人間は、いかに純粋な気持ちを失ってしまっているのだろうと思い知らされてしまうのです。そんな純粋であったチャーリィが、悲しみと孤独を味わいつつも、必死で獲得したものですら、その手からすり抜けていくのを見ると、本当に居た堪れなくなくなってしまうのです。彼が手書きで書いているであろう、定例の報告書の文面が、結局は数ヶ月前の様相と変わらぬものになってしまっていく様子を見ると、ページをめくるのすら辛くなってくるのです。

しかし、チャーリィを取り巻くパン屋の連中や、手術を施した者達をを卑下する資格など、私には無いのかもしれないとも感じてしまいます。そう、彼らもまた、生きる事に必死なだけであり、悪意など持ってはいないのですから・・・。とはいえ、彼らにおいても、そしてチャーリィ自身においても、もう少し互いの立場を思いやれる余裕があれば・・・。せめてもう少しだけでも時間があれば・・・違った結果にたどり着けていたかもしれない・・・。そう思わずにはいられなくなってしまうのです・・・。

そう、こうした革新的な技術が齎すであろう可能性と、その影に潜むリスクというものは、現実社会における遺伝子治療やBMIの技術においても、全く変わらないものがあると思うのです。どれだけ技術が、進歩したとしても、その急速な変化には人の心や身体は簡単に追いつけるものではないと思うのです。そしてこうした技術が齎すものは、手術を受ける被体験者のみならず、よくも悪くも周りの者にも多大な影響を与える可能性があると思うのです。そしてその影響は、どれだけ考え抜いても、簡単に導き出す事が出来るようなものではないのではないかと思うわけです。

今現在、人間への医療技術の研究・開発が進む上で、実験動物であるネズミの『アルジャーノン』は大量に生まれ、そして死んでしまっているでしょう。(ロボラットや、知能拡大の遺伝子治療を受けたラットがそうであるように・・・)実際、医薬品の研究には既に数え切れない程の生き物が我々の為に犠牲になっています。そうした事実を目のあたりにすると、この架空の物語のような悲しい出来事が、現実に起きないように。と、願わずにはいられなくなります・・・。

進化しすぎた脳 / 池谷祐二

■ 中高生と語る[大脳生理学]の最前線

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■ 池谷祐二 東京大学大学院薬学系研究科講師。科学技術復興財団さきがけ研究員。専門は神経薬理学。光生理学。海馬の研究により薬学博士号を取得。2006年に日本薬理学会学術奨励賞と、日本神経科学学会奨励賞をダブル受賞

本書は著者によって、慶應義塾大学ニューヨーク学院行動学部で少人数の高校生に対しで特別に行われた脳科学講義4回分と、東京大学大学院薬学系研究科・薬品作用学研究室で行われた講義をまとめたものです。その内容は、脳科学の専門化が、中高校生の何気ない質問に答えながら、判りやすく脳について解説する様子を、口語調で書面化しているとの事。面白そうな内容と共に、本書の帯には『しびれるくらいに面白い!』と銘打たれていた事により、本書に興味を持ちました。実際にその内容は幅広く専門的な事を扱いながらも、初心者の私にもわかりやすく書かれており、刺激に満ちたものでした。また、脳科学として、科学的な立証をもとに、脳の働きや特性といったものを扱うだけでなく、誤解をおそれずに哲学的な領域にまで言及しています。その姿は、若く勢いがあり、素直な研究者であると感じさるものでした。

■  脳は場所によって機能が違う。またそうした脳の機能の地図は進化する。
肝臓等は、80%以上を取り除いても、数ヶ月のうちに再生してしまう。これは、肝臓のどの部分も同じような機能だからとも言える。でも脳は違う。これだけ働きがそれぞれの場所に分かれて専門家している臓器は他に無い。その分業の仕方が頑固なものなのかフレキシブルなものなのか調べる為、目から入った視覚の信号の行き着く先を視覚野ではなく、聴覚野に繋ぎ替える動物実験「リワイアード」を行った例がある。結果、光が聞こえるというのではなく、(正常な程ではないものの)見えているらしい。人差し指と中指が生まれながらにして繋がって産まれてきてしまった人がいるとする。その人の脳を調べると、5本目に対応する部分の活動が見受けられなかった。後に、指を切り離す手術を行った。多くの人は、分離してもその2本の指は同じ動きをすると考えていた。すると、1週間後には5本目に対応する部位の活動が出来ており、5本とも指を別々に使えるようになっていた。このことから、脳の機能の地図は1回出来上がった後でも、臨機応変に変化しうると判る。と、同時に、体が脳の機能を決めている。脳の機能は体があって初めて生まれるといえる。それこそ、他の動物と違い、人間は「咽頭」をもったからこそ、言葉をしゃべれるように脳が再編成され、言葉を自由に話せれるようになったと言える。

■  進化しすぎた脳
脳だけ見ると、人間よりイルカの方がシワが多く、体積も大きい。しかし、手も指も無い。また、正直言って人間の方が賢いと言える。たまたま良い脳を持っていても、体がヒト程優れていないため、イルカの脳はそれ程使い込まれていないと言える。逆にイカやタコは足が多くあり、自在に使っていても、非常に小さな脳しか持っていない。ある統計によると、頭蓋骨の95%が空洞の脳水症のヒトでも、酷い障害が生まれる人は10%に満たなく、50%の人はIQ100を超えているという。つまり人間が人間らしい生活を送るためにはそんなにデカイ脳はいらないのかもしれない。それこそ、現代人とほぼ変わらない脳の大きさを持ったクロマニヨン人の赤ちゃんを現代に連れてきて教育したら、現代人と同じ知能を持てるだろう。人が成長していく際、脳そのものよりも、脳が乗る体の構造と、その周囲の環境の方が重要である。(それこそ、英語圏で産まれれば、英語が話せるという事)脳に関して言えば、環境に適応する以上に進化してしまっていると言える。これは将来予期せぬ環境に出会った時に、スムーズに対応出来る為の「余裕」「柔軟性」だと考えられる。

■ 『意識』の最低条件
池田氏は3つのポイントを条件に挙げている。
1)表現の選択
・呼吸を一時的に止める。・敢えて歩こうとしない。・表現の内容を選んで言葉を発する。・同じ内容を表現するにしても、話す相手の立場によってその内容を変えたりする。これらは意識が働いている典型と言える。
2)ワーキングメモリー(短期記憶)
単語を発したり聞いたりする際、単語としての文字の羅列・文章・話の流れなど、ある程度の情報を脳にとっておく能力が必要である。
3)可塑性(過去の記憶)
選択肢がある場合、意思を反映させるにも、デタラメに選んでいるのだろうか。多分、意思は選択の際、何かしらの根拠をもっている。その根拠は「現在の状態」や「過去の記憶」に依存する。脳は経験を価値判断の基準にしている。過去の状態によって脳の状態が変わる事を、『可塑性』という。これら3つがそろって働いているものを『意識』定義できるとしている。

■ 『クオリア』は表現を選択出来ない。'
痛い。苦い。悲しい。すっぱい。等の『感情』は一般的には意識という言葉のくくりで表現されるが、本来は意識的にコントロール出来ないものと言える。つまり、言葉のラベルが貼られる前の、原始的な感覚と言える。こうした抽象的な感覚は、『クオリア(覚醒感覚)』と表現される。リンゴが甘酸っぱいと感じるのはしょうがない。そういう実感は変えられるものではない。これは意識とは言いがたい。つまり、悲しいから涙が出るのではない。悲しみを感じる源の細胞が刺激されると、涙が出る。その涙の回路と悲しいというクオリア自体には関連性は無い。抽象的なもの=凡化は、言葉が産み出したモノといえ、クオリアもまた、言葉によって産み出された幻影である可能性もある。

■ 人間は言葉の奴隷
連想ゲームをやってみたとする。暗い⇒寝る⇒疲れる⇒運動 と、色々で来るかもしれないが、言葉として存在しないものを連想する事は殆どない。思考が言葉に束縛されているのが判る。言語を司る「ウエルニッケ野」に障害を持った失語症の患者がいたとする。その患者は抽象的な事を考えられなくなってしまった。例)何を飲みたい?と抽象的に聞いても答えられない。ジュースが飲みたい?と具体的に聞いて、初めて返答が出来るようになってしまった。このことから、モノを想像したり、抽象的な概念を操ったりするのは、おそらく言葉に依存していると考えられる。逆に、言葉というものは、抽象的な思考や、形而上学的なものを考える上で、重要な働きをしていると言える。

■  記憶の凡化
下等な生物は記憶が正確で、一度覚えるとなかなか消えない。これは融通が利かないともいえる。それに比べ、人間の記憶はあいまいである。逆に、おかれた状況の中で、何かしらの特徴や、ルール、共通項とかを無意識のうちに記憶しようとする性質がある。2度と同じ事が起こらない多彩な状況変化に対応する為に備わったもの。これはあいまいな記憶ともいえるが、その分応用力があるといえる。仮に学習のスピードがあまりに速いと多くの特徴を抽出する事が出来ない。こうした共通のルールを見つけ出し、一般化する事を『凡化』と言う。『凡化』のために有利なプロセスが『抽象化』である。抽象的にする事で、応用が利く。また、抽象的な考えが出来れば出来る程、凡化も得意になる。人間は言葉があるから、抽象的な思考が出来る。言葉が無いと抽象的な思考は難しい。

■ 直感とは
脳の自発的な活動を一般的な表現で例えると「ゆらぎ」だと言える。シナプスの細胞膜のイオン(所謂脳の電気的信号のモト)の量はいつもゆらいでいて、沢山溜まっている時も、そうで無い時を繰り返している。直感とはつきつめていくと、「ゆらぎ」に行き着く。膜電位(イオンの量)が浅いか深いか(多いか少ないか)といったタイミングで神経の反応は相当に違ってくる。タマタマ無意識に判断を下した時の脳の「ゆらぎ」の状態でシナプスが繋がる、繋がらないといった事が異なる。一種の単語テストを実施した所、テストの成果が正解になる場合と、不正解の場合の脳波が異なり、脳波を測定している研究者には、問題を出す2秒前の脳波の状態で、被験者の次の回答が正解になるかどうか判るくらいであるという。これは所謂集中力とは違うもののようで、もっと純粋な脳のゆらぎの状態に起因するものらしい。

非常に面白いですよね。体あっての脳という話は、聞いていて非常に納得できます。以前からBMI等を容易に受け入れる事が出来る程、脳にはフレキシブル性があると見知っていましたが、まさか「リワイアード」まで可能だとは思いませんでした。

また、柔軟性を得るために記憶を凡化し、言葉がそれらの抽象的な記憶をコントロールしているというのは、成るほどという感じですね。私も思考というものは、生きていく上での汎用性や多様性を得る為に獲得したものだと勝手に想像していましたが、こうしてスッキリと提示されると、とても気持ちよく受け入れる事が出来ます。とは言え、『意識』の定義や、『クオリア』や『ゆらぎ』に関しては、まだ理解し難い部分があるのも事実です。

ともあれ、この本の内容は、大変に面白く刺激的なものでした。それこそ今回ピックアップさせていただいた事は本書のごく一部。まだまだ面白く、専門的な話が山のように詰め込まれています。このすばらしい授業を直接受けた学生や、書物に刺激を受けた学生の中には、実際に脳の研究職の道に進んだ者もいるようです。ただでさえ興味深い脳の世界に対し、これだけの話をしてもらえたら、多感な年頃の者が深く影響を受けて当然ですよねw。実際に私も、さらに興味が増してしまいました(^^)

それにしても脳科学の視点というより、哲学的な領域なのではないかと思われる意見が意外なまでに多い事にも驚かされました。特に『意識』に関する点はそうですよね。それこそ、哲学における『意識』の定義は、こうした脳科学やロボット研究の領域においても多大な影響力を持つ、重要なキーであると改めて感じました。

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