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「理系」という生き方 理系白書2


理系白書の続編です。先日読んだ理系白書が非常に興味深かったので、早速読んでみました。(下記の内容は個人の主観で勝手に要約したものであり、本書の通りの内容とは限りません)

■ 文理分けのメリット、デメリット
● メリット
大学受験に対して有利になる。というポイントに集約される。大学の入試において、試験科目はそれぞれの大学によって指定されている。よって、自分が進みたい将来図、職業やキャリアパスをきちんと描ける場合は、初期段階から専門的な勉強に集中しやすいと言える。大学の進学実績が高校の教育レベルの評価と捉えられやすい現状や、予備校・塾との兼ね合いもあり、受験対策に特化した教育を望む声もある。

● デメリット
中高生の時期に自らの将来図をきちんと描くことは非常に難しい。にも関わらず一度選択してしまうと、文理の変更はかなり難しい。(それぞれのクラスに所定人数がある。未収科目を受けなおす時間が無い。)また、生物は得意だけど数学が苦手だから、とか、就職口が多いから・・・文系へ・・・と、消極的な選択をしてしまう者もいる。結果として、選択肢の自由度の高い教育を目指していたのにも関わらず、逆にその選択を狭めてしまっている。無論、この事は大学での選択科目にも当てはまる。

■ 科学が面白くない学生が増えた理由
暗記した知識の量や、試験の点数ばかり評価され、純粋に抱いた疑問をとことんまで追及するような教育がされてこなかった。また、パソコン、ゲーム、携帯等に親しんでいても、その中身は高度に進化しずぎたため、ブラックボックス化している。スポーツマンや、ミュージシャンは努力した者が成功する姿をイメージしやすいが、研究者などは、ごく一部の者(ノーベル賞受賞者)位しかイメージが沸かず、将来像に期待を持ちにくい。科学、数学、生物学などを学んでも、実際の世の中でどのように結びつき、どう役に立っているのかイメージが沸きにくい現状がある。また、ゆとり教育の導入は理系の教科書のレベルやボリュームを大幅に下げ、授業の割り当て時間も減ったため、しわ寄せとして実験の時間を削るしかないという悪循環を生んでしまったという意見もある。

■ 見直しを求められる大学入試の体制
これらの問題を是正しようと、文理変更を出来るだけ受け入れたり、文理分けを3年になってからでないと行わないとする高校や、そもそも別けない高校も存在する。しかし、受験対策の面で見ると、不利であると言わざるを得ない現状がある。また、少子化によって、各大学は人員確保に必死であり、入試科目を減らす所もある。学生の多くは入試科目に集中する事から、それ以外の科目を、ろくに学んでいないというケースも起きている。そのために、さらに基礎学力、総合学力の無い大学生が増大し、大学や企業が基本を教えなおさなければならないケースも出ている。大学の文理別け入試科目を見直さなければ、現状は変わらない。

■ 理系の壁を壊す
折角理系大学に進んだものの、製造業での限界を感じ、文系(金融・等)の業界へ進む学生も出始めている。逆にそうした分野は、数学的分析力を求められる要素も多く、研究職とは違うやりがいや、適正を感じる者もいる。科学の知識を広く伝えるサイエンスライターや、工業系の知識を活かして、特許取得に特化した業務をこなす者もいる。

■ 科学技術立国として求められる「意識」
また、理系の分野といえど、数学・物理・電気・工学・生物・医学・情報通信・等、それぞれで学んでいる事は相当異なる。例えば、最先端の医学機器の開発、バイオテクノロジー、ロボット工学・等を成功させるには、理系の様々な分野が必要なだけでなく、経済感覚、社会情勢、倫理感、デザイン、プレゼン能力・等、文系分野の知識も必要となる。国際社会で活躍する研究者を目指すには、語学力、世界史、地理、宗教、政治に対する知識も必要。自らの専門性を高める必要はあるが、広く視野を広げ交流していく事もこれからの時代には求められている。それこそ、最先端の医療技術や、農業生産技術、環境対策技術などは、日本のみならず、世界的な問題を解決する力になり得る。世の中の生活に密着し、役に立つ技術を生み出す為に学んでいるのだという、良い意味での自負が必要なのではないか。そして、そういう意識を持った子供達を育ていける環境を作り上げてゆく必要がある。

■ 感想
確かに大学の入試というものは見直すべき点が多いように思えますね。やはり、高校のカリキュラムがかなり偏ったものになってしまった原因はそこにあるように思います。まあ、大学側もこのような状況になると思って、入試の科目を選択しているわけではないと思いますが。とはいえ現状を必要悪として認めるのであれば、小中でもっと広範囲の基礎を学ばせる必要があるのかもしれませんね。

ちなみに政府は、2007年10月発表による次の学習指導要領の改訂によって、小中の授業の増加を行うとしています。特に理数系は従来より2〜3割ほど増加する予定だとか。しかし、時間を増やしただけで理系が好きな子供が増えるのかは、少々疑問な点もあります。増えた時間がそのまま詰め込み教育に当てられては、現状を打破する力にはならないように思えるのです。はやり、実験等の時間や、生徒からの質問に丁寧に答える誠意ある教育が必要な気がしますね。

また、大学に関して見直すべきは、入試体制の問題だけでは無いように思います。それこそ、最近の大学は少子化対策として、新しい校舎だの、高いホスピタリティだので話題作りをしているのを見かけます。
大学も一種のサービス業なので、そうした点に気を配る必要はあろうかと思います。でも、どのようなカリキュラムを学ぶ事で、実社会にどう役に立つ知識を学べるのかが最も大切な事のはず。どんな教授がどのようなゼミを開いているのかとか、どのような知的好奇心を満たす事が出来るのか、もっと具体的にPRする必要があるように思うのです。

それこそ、自分達の授業に自信があるなら、もっと授業内容や授業風景を情報公開して、その内容でやる気ある学生を呼び込んだ方がベターだと思うのです。そうすれば、閉鎖的で自分の地位を守る事に必死にになりがちな旧体制的な教授陣にも、時代性と社会性を敏感に感じ取る緊張感が生まれ、良い意味で大学が活性化する原動力になると思います。まあ、これは文理としての話題には関係が無いというか、もっと根本的な問題ですけどね。

そういえば、私の学生時代に、マイクを使っても何を喋っているのか聞き取れない年配の教授がいたりしました。それがまた、必須科目だったりして泣けてきましたね^^;

理系白書 この国を静かに支える人たち

日本の高度経済成長を支えながらも、文系優位の社会で、その存在がかすみがちな「理系」。深刻な科学離れが叫ばれるいま、その地位、報酬、研究、カルチャー、教育、結婚など、理系のすべてを初めて浮き彫りにした渾身のレポート。果たして、理系は報われているか? 〈第1回科学ジャーナリスト大賞受賞〉 発売日: 2003/6/21

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毎日jp:理系白書 wikipedia:理系離れ

様々な所で話題を目にする理系白書。ようやく読む機会を作る事が出来ました。

■ 日本は文系社会
・官僚、政界、財界、経営者の上位にいけば行くほど、文系出身者で埋められている。(経営者に言わせると、上位に行けば行くほど、専門知識ではなく、マネジメントやコミュニケーション能力等の個人の資質が重要との事。)
・アメリカ政府には科学補佐官がおり、積極的に科学分野に関する情報を毎週のように大統領に進言するが、日本にはそこまでの頻度のレベルのものはなく、政府の科学音痴ぶりが目立つ。
・高い技術の工業製品で外貨を稼いできた日本だが、その資金は製造業(研究者)に還元されるのではなく、土地、株等の投資にまわされバブルを生み、文系がその益を享受して終わった。

■ 冷遇されてきた理系
・日本の特許法三五条は社員の職務発明を会社が特許として所有出来る代わりに、「相当の対価」を支払うように定めている。しかし、その「相当の対価」に明確な基準が無い事から、社員との軋轢を生んできた。ノーベル賞クラスや、何百億という市場効果を生む発見、発明を行っても、それを生み出した研究者に支払われる対価は少なく、訴訟問題に発展するケースもある。アメリカであれば、とっくに億万長者になっているとして、海外へ向かう者もいる。

■ 企業が求める研究者像
・高度に発達した専門分野の研究を推し進めるには、膨大な費用が掛かる。結果として『必ず成果の出る研究』『その成果によって、投資費用が回収出来る研究』を推し進めざるを得ない。つまり、実現性や、実用性の問題から、既存技術の応用研究が非常に多くなる。様々な部門やスタッフと業務を行う必要もあり、スピード感やコミュニケーションスキルも求められる。研究者側にとっては思い通りの分野の研究に携われるとは言い切れない世界でもある。

■ 大学・公的機関での研究者像
・企業等とは異なり、アカデミックな基礎研究が大きな比重を占める世界。知的探究心を追える世界ではあが、社会に実益をもたらすものとは言い切れない。また、古くからの縦社会の構造がはびこり、教授の下で働く者には自由が無い。また、最近は大学の研究も、実益のある成果を求められるようになってきている。民間共同研究等も増えたが、結果として大学ならではの基礎分野の研究が減るという弊害もある。また、過去の実績を元にして助成金の決済が下される事から、有名大学に資金が偏りがち。

■ ポストドクターの実情
国は1990年、若手研究員を増加する目的で、大学院の定員を倍増。1996年には、職に就けなかった人材を支援すべく、「ポスドク一万人支援計画」を実施。任期期限付きの研究員として、公の研究機関等で雇用する等の措置を行った。ポスドクは研究施設を渡り歩く事で、様々な知識を深める良い機会という意見もある。また、基礎研究を行える仕事を求め、敢えてその立場にいる者もいる。実際、アメリカ等では、ポスドク時に幾つもの研究施設を渡り歩き、キャリアを積むのは通例となっている。しかし企業側からすると、これらの世界に長く生きる研究者は、基礎研究に知識が偏り過ぎ、スピード感に欠け、柔軟性が乏しいと判断され、採用をためらうケースも多い。結果として、長年に渡り正規雇用に辿り着けない者を生み出すという弊害も生んでいる。

■ 理系離れは何故起きた
ゆとり教育の実施により、従来よりも理系授業のボリュームが低下した。また、受験重視、丸暗記の学習となってしまい、純粋な疑問を探求させる姿勢や、科学が好きだという気持ちを育ててこなかった。さらに、1994年の学習指導要領で、高校の理科が選択科目になり、物理・化学・生物・地学をまったく勉強した事のない人が増えた。教育学部が文系と認識され、理系嫌いの人ほど、小学校教員を目指すという傾向もある。その為、理科の実験もままならない教員が増えてしまった。こうした事が原因なのではないかと考えられる。

■ 世界と張り合える独創的な研究を生むには、どうすれば良いのか
日本は減点主義が蔓延し、失敗を許す投資家や再起を許す土壌が無い。失敗を恐れるあまり、守りに入った研究になりがちで、個性的な研究が行いにくい。下手をすれば、失敗を隠すため、捏造や、隠蔽を行うケースも出てくるかもしれない。
成果主義をそのまま導入するのは危険がある。このままでは、世界と張り合えなくなってしまうのではないか。果たしてこの現状をどうすれば良いのか。

・優秀な人材の流出を避けるため、最近では国内企業もインセンティブ制度を見直しつつある。
・企業研究者が独立したり、大学内ベンチャー企業が発足しつつある。
・大学が既に取得している特許を企業に販売する事業者も出てきている。(しかし基礎研究が多いため実用に適さないケースも多い)
・ノーベル賞クラスの発見は、思わぬ失敗から発生した意外な反応結果を辿る事で見つかったケースも多い。失敗を許さぬというというのではなく、失敗を見つめなおし、考える風土を育てる必要がある。
・助成金支給を決定する側の評価眼も高めていく必要がある。
・やはり基礎研究は大学が担う必要がある。しかし、今の縦社会には問題が多い。助教授を補佐に使うのではなく、早く独立させ、気長に支援し、人材を育てる必要がある。
・日本は理系同士であっても、その分野を超えてやってくる新参者を拒む土壌がある。欧米のように、それを面白がるような自由さを持つ必要がある。
・大学における学部と大学院の専攻を替える制度を導入する事で、学内での徒弟制度も崩れ、異文化交流が盛んになるのでは。
・とにもかくにも、若い研究者が柔軟な発想の研究を行いやすい支援体制を作る必要がある。

■ 文理融合をめざして
・今の社会は、食の安全性に対する危機管理や、高度な数値的分析を要求されるマネジメント業務が増えている。こうした分野に理系的な知識が必要とされてきている。
・研究者側の意識改革も必要。膨大な資金を必要とする研究を何故行う必要があるのか、社会にどう役に立つのか、そうした事を常に意識し、社会にわかり易く説明する義務と責任がある。(所謂文系のセンスと言ううべきか)
このように文系理系の垣根を崩してゆく事が必要なのではないかと思われる。


■ 感想
なるほど、事態はなかなか深刻なようです。理系離れが叫ばれる中、せっかく苦労して研究者の道にたどり着いても、思うように報われないのではたまりませんよね。国際競争が激化する状況において、このままでは独創的な研究結果が出てくるどころか、士気が下がる一方。それこそ、この本を若い中高生が読んだら、その道に行くのを躊躇ってしまう人も出てくるのでは。もしもそんな人が増えたなら、日本はますます窮地に立たされてしまいますね。

とは言え、どんな仕事にも予算があり、社会性のある成果が求められるのは当然の事。大学での研究に企業が関わる事で成果を求められるのは理解出来なくもありません。しかし、その為に学生が望む独創的な研究や、自由な発想を活かせないようになったら、元も子もありません。それに、一部の大学に資金が偏りがちになってしまうというのも大きな問題だと感じます。これでは一部のエリートしか恩恵を得る事が出来ず、全体の底上げが出来ないのでは?様々な意味で、意識改革・構造改革が必要だと感じます。

こうした現状をきちんと曝け出し、日本国内での理系、文系という狭いの枠で捕らえるのではなく、「国際的な競争力を維持するには本当にどうしたら良いのか」「日本が次世代の子供たちに住みやすい社会であるためにどうすれば良いのか」を積極的に取り組んでいかなければならないのでしょうね。それこそ、この本の続編である「理系白書2」では、教育分野に多くのスポットを当てているのだとか。そちらも是非拝見したいと思いました。

生物と無生物のあいだ / 福岡伸一


以前「爆笑問題のニッポンの教養」にも出演した、福岡氏による本書。他のメディアでも取り上げれら、ベストセラーとなっていますね。
既に40万部以上を売り上げているのだとか。なかなか読む時間を作れませんでしたが、このGWにようやく機会を作れました。

■ ウイルスは生物か?
ウイルスは増殖能力を持っている。では、生物と言えるのだろうか。
・ウイルスは栄養を摂取しない。呼吸しない。一切の代謝を行っていない(自らの能力ではエネルギーを生み出す事は出来ない。)
・一切の混じり物がない状態に精製し、濃縮すれば、結晶化すらする。
・DNA又はRNAという遺伝物質を持ってはいるが、増殖するには他の生物の細胞の力(養分やエネルギー)を借りねばならない。
ウイルスは生物と無生物の間をたゆたう物であろう。しかし、決して生物ではない。逆に言えば、増殖できる能力だけでは生物とは定義し難い。


■ 生物とは何か?
『生物とは動的平衝(ダイナミック・イクイリブリアム)にある流れである』
生物は絶え間なく食料(アミノ酸≒タンパク質・等)を摂取している。これは単に、エネルギーとして摂取している訳ではない。摂取されたアミノ酸は、表層に成長が認められる髪の毛、皮膚、といった部位のみならず、筋肉、骨、内臓の至る所の細胞を構成するタンパク質と常に入れ替わっている。これは、大量に食料を摂取して体重が増えている時だけでなく、体重が減っている時ですら起きている。現に存在する秩序が、その秩序を維持していく能力と、秩序ある現象を新たに生み出す能力を持っていると言える。

根本的な物理の動きとして、濃度あるモノは、濃い部分から、薄い部分へと拡散し、やがて平衝状態に至ろうとする性質がある。物理学者は、これを「熱力学的平衝状態」、あるいは「エントロピー最大の状態」と言う。これはは生命を構築する細胞の原子レベルにも当てはまる。何も手段を講じなければ、エントロピー最大の状態に至り、やがて死に至ると言える。生物はエントロピー最大の危機に瀕しない為=周囲の環境から自らを守るために、「負のエントロピー=秩序」を取り入れた。

生命は絶えず外界からの影響を受け、表層的なダメージはもちろん、見えない放射線等からの影響も受け、遺伝子レベルでも傷ついている。であれば、その破損した細胞が増殖するよりも先に、自ら細胞を構築する物質を取替え、常に正常な状態を作り上げてしまえば良い=秩序のある破壊があれば良い。といえる。逆に言えば、『秩序は守られる為に、絶え間なく破壊されなければならない』それが、『動的平衝の状態である』といえ、そうした活動を行うモノこそ、生物と言える。 (それこそ、原子レベルで言えば、数ヶ月前の自分と、今の自分とでは、すっかり別の物質で構成されていると言える)

※ 一般的生物学における生物の定義 (後日wikipediaより追記記載)
下記の能力をすべて備えたものを生物という。
・自己増殖能力
・エネルギー変換能力(呼吸・エネルギー摂取・老廃物の排出、等の代謝能力)
恒常性(ホメオスタシス)
・維持能力
(著者の言う、負のエントロピー=動的平衝は、ここで言う恒常性・維持能力に当てはまりそう)

地球上の生物で言えば、タンパク質からなる酵素を中心とする代謝の働きと、核酸からなる遺伝子による遺伝の働きが、生物が生物であることを維持するためのしくみであると言える。現在の地球上の生物に限って言えば、最も明確に生物を定義する特徴は、細胞から成り立っているということである。細胞は先述の生物の定義に於いて、生物と見なせる最小の単位である。(ウイルスは細胞が構成単位として成り立っていない。)

■ 生物がこれだけ大きい訳
我々の体を構成する原子は、なぜ目に見えない程小さいのか。体を構成する原子が、もしも極端に少なければ、『秩序』の枠から離れる原子の割合が増え、エントロピーの法則を受けやすい。逆に構成する粒子が増えれば増える程、平方根の法則により、誤差率は急激に低下する。故に、生命現象に必要な秩序の精度を上げるため、「原子はそんなに小さい」=「生物はこれだけ大きい」必要がある。それこそ、重要な活動をする遺伝子が何らかの原因で欠損してしまっても、他の眠っている遺伝子等によって、生命活動がフォローされるという対応力にもつながっている。

■ 生物には時間がある
生命には、一度折りたたまれたものは、二度と元には戻らないという不可避的な時間の流れがある。固体としての生命と環境の相互作用は一回限りのものである。また、動的平衝は人工的な紛い物には対応出来ない。それを乱すような介入を行えば、動的平衝は取り返しのつかないような乱れを産んでしまい、死につながる事となる。

まず驚いたのは、著者の文章力です。本当に滑らかで、見事なまでに情感に溢れた文章で綴られています。手馴れた感すらあり、生物学者の方が書いたものとは思えぬ程です。

とは言え、本書は『生物とは何か?』についてばかり書かれたハードな専門書ではありませんでした。
それこそ、ウイルスに関する類の話や、生物誕生の起源の話が多いのかな?と思って手にしたのですが、そうではありませんでした。むしろ生物界の過去の偉人達へのリスペクトや、自らがポス・ドク(駆け出しの研究員)であった頃の懐古シーンが非常に多いといえます。むしろそうした要素が多いからこそ、一般の人にも読みやすいものになっているのかもしれませんね。

それにしても『秩序は守られる為に、絶え間なく破壊されなければならない』というのは面白いですよね。常にスクラップ&ビルドと自己改革を行い、積極的に新しい分野へ目を向けていかなければ、競争社会では勝ち残っていけないというのは、まるで現代社会の事を指しているかのように感じてしまいました(笑)また、「内部の内部は外部である」という話も大変面白かったです。

あと、過去のノーベル賞の受賞者にまつわるダークサイドの話は考えさせられるものがありました。ピア・レビュー(最先端の研究成果は、最先端を知る科学者同士しか、その成果を正しく評価出来ない)という審査基準が科学界には定着していますが、その審査員が、思いがけずライバルに情報をリークしてしまった可能性があるとは。以前読んだ「背信の科学者たち」にも通じるものを垣間見てしまったように思います。

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真贋のはざま


先日重要文化財の高精細複製の話題を取り上げた際、この本の事を思い出しました。東京大学が企画運営する東京大学総合研究博物館において開かれた企画展の図録です。6,000円もする図録だけあり、ボリュームがあるだけでなく、非常に充実した内容となっています。それこそ中古市場では、定価の倍以上で取引されている程の代物。実はこの書物、既に完売されているのですが、東京大学総合研究博物館の公式HPでその内容の全てが公開されているので、有難く拝見させていただきました。

■ オリジナリティとは
「オリジナリティ」とは「芸術家の並外れた創作力が作品に記す、新しい・類例のない・個性的な性格」。それゆえオリジナリティをもつ作品に対する賞賛はそのまま作品を生み出した作家に与えられている。模作や複製品などに対して低い価値しか与えられないのは、コピーによって作られたものが、オリジナリティという価値をもち得ないからである。


■ 模倣は全て悪か?
アリストテレスは『詩学』の中で模倣行為は人間の本性に根ざした生まれつきの自然な傾向であるとしている。これは模倣自体の価値づけではなく、模倣すべき対象「模範」が存在する事を示している。模範の例として「キリストの模倣」と呼ばれるものがある。信者は身体的な行為の模倣を通じて精神的にキリストに近づこうとするというもの。そのような模倣においては結果としての模像関係ではなく、模倣のプロセスに価値があるとみなされる。


■ コピーの定義
1)技術習得のためのコピー
これは伝統・文化の継承および方法論の習得を目的にしたもの。模倣する事そのものが目的と言える。

2)教育・啓蒙のためのコピー
コピーされた対象物を介してオリジナルのもつ情報を伝達し、ある程度の理解および知識の習得が目的とされている。ファクシミリ、出版・印刷物、教材レプリカ等を挙げることができる。

3)芸術等の創作活動の一部として行われるコピー
制作者はオリジナルである対象からインスピレーションを得たり、それをイマジネーションの源として利用する。教養の発露としての引用、パロディ、イメージの共用を利用するシミュレーション・アート、ポップ・アート等の現代の創作活動をも含む。

4)科学技術的な目的のコピー
現実を模倣する状態を作り出し、その推移を観測する技術。シミュレーション技術やヴァーチャル・リアリティ等を挙げることができる。

5)市場流通を目的としたコピー
蒐集趣味から派生したコピー。対象に対する需要の増大から発生し、製作者の任意のもと複製品として広く流通する物もあるが、希少性の高いオリジナル作品を悪意のもとで模造した「贋作(フェイク)」等を産む場合もある。最初から数多く生産されることが意図されている版画や鋳造彫刻は複製芸術(リプロダクション)とよばれ、模刻や模写とは区別される。しかし年代や制作者を偽り、鑑賞者や蒐集家を欺くことを目的として制作された場合には、贋作と呼ばれる。悪意がまったくなかったとしても、既存の曲に酷似したメロディーを作り出した場合、著作権の侵害であると訴えられ、敗訴する可能性がある。逆に、悪意に満ちていたとしても、法に触れさえしなければ、盗作に限りなく近い「別の作品」を作ることもできる。

6)オリジナルを保護する目的のコピー
多くの物は老朽化し、製作当初のコンディションを維持しきれなくなる。そこで、希少性の高い品に対し、忠実度の高いコピー品を作成。コピー品である事を謳って展示したり、代替品として使用する事で、オリジナルを保護する場合もある。(本書による紹介は無いものの、追加する事としました)


■ 現代アートにおけるオリジナリティと複製の関係
コピーの多様化は、高度に概念的になった現代芸術における問題を生む事となった。かのマルセル・デュシャンは「画家の用いる絵具も既製品であり、したがって芸術とはすべて既製品である」と述べた。現代においては、絵具のみならず、芸術家の感覚や思想さえも決して既成のものから自由ではあり得ないという意見である。実際、彼は既製品にサインのみ書き記した「レディ・メイド」と呼ばれるシリーズを発表。最初の作品は既に失われているが、全く同じ既製品(泉=小便器)のコピーが複数の美術館に納めている。さらに、他人が同様のコンセプトをもって古い小便器を彼に持ち込んだ場合も、観客に対し同じメッセージ性を伝えうるとして、「レディ・メイド」として認知したケースもある。また、マイク・ビドロはピカソの絵画を忠実に再現(剽窃/アプロプリエーション)し、『これはピカソではない』というタイトルを付け、自身の作として世間に提示した例もある。これらの行為は、芸術家のオリジナリティは、もはや存在し得ないという問いかけを産み、「芸術家の独創性」に対する不信を産んでいる。
さらに、複製が容易く手に入る時代となった事で、鑑賞者側の鑑賞方法や楽しみ方も変化し、作品に対する評価基準も刻々と変化してきている。対象をインスピレーションの源として利用したり、人々の共通のイメージとして他の作品を自らの作品の中に利用したりすること既に日常化している。そのような芸術作品の受容の過程においては、その編集行為の過程で、敢えて編集者による創造性(演出)が強調される場合もある。技の鍛錬と追求だけでは作品を評価しきれない時代が到来している。

稀少性は価値と直結し、その需給バランスが崩れた場合、悪意ある贋作が生まれてしまう。という事ですか。(利権に絡み、悪意ある石が働く事で、無知なる者を欺くという行為は、情報社会における、情報の捏造にも同様の事が言えるかもしれませんね。)

とは言えコピーそのものは、その正体をきちんと明らかにし、目的をもって行われるものであれば、大変な有効性をもたらしてくれるもの。そもそも、美術作品の中心的存在である自然・人物・静物をオブジェとした作品を作る行為は、既存のモノをコピーしようとする行為。模倣する事で対象をより細かく理解し、自らの一部として取り込みたいという人間らしい知的好奇心の現れと言えます。(私がこのような記事を作る行為も、対象を簡素かつ深く理解したいという意識が働いての事ですし。)

そもそも我々は生まれてから、親や周りの人間を手本として、生きてゆく術を模倣して生きています。こうして列記している言葉も、既存の文化を流用し、思考をする上で学ぶべき教本や、入手すべき情報媒体の多くが他人によって生み出されたもの。我々は、全ての行動において、他人の影響を受けていると言えますし。本当に、完全なオリジナルなどあり得ないのかもしれません。むしろ、コピーの歴史は、そのまま文明の歴史とも言えそうですね。

因みに、上記に要約させていただいた内容は、本当にこの書物のごく一部。過去から続いてきた複製と贋作の歴史について、数多くの実例が丁寧に紹介されていました。特に、第3部 複製美術論のデュシャンにおけるコピー問題の項や、第4部複製教育論のカースト・コート形成史の項のイチジクの葉をめぐる真贋論は、大変面白かったです。とは言え、状況に応じてコピーやデジタルアーカイブの有効性がどれだけ増そうとも、オリジナルに勝るモノは無いのも事実。それこそ、この企画展を現地で直接見てみたかったです。

SF小説の大家、アーサー・C・クラーク氏が死去

英国人小説家アーサー・C・クラーク氏が19日、移住先のスリランカで死去した。享年90歳、死因は心肺機能不全。ロバート・A・ハインライン、アイザック・アシモフとともに三大家とされた同氏の死去により、SF小説の1つの時代が終わった。

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クラーク氏は、英国サマセット州マインヘッドで1917年に誕生。成人後は英国空軍の将校としてレーダーの開発に従事したのち、ロンドン大学キングス・カレッジで物理学と数学の学位を取得、教員として勤務する傍ら1946年に「太陽系最後の日」でプロ作家としてデビュー。1952年に発表した「幼年期の終わり」でSF作家としての地位を確立、後年「宇宙のランデヴー」と「楽園の泉」の2作品がヒューゴー賞とネビュラ賞を同時受賞 (1973年、1979年) 、名声を確かなものとした。1998年には、エリザベス女王よりナイトの称号を授与されている。作家としての活動以外にも、静止軌道上の衛星間通信に関する論文を科学雑誌「Wireless World」へ寄稿、後年実用化されるなど、科学技術に対する鋭い洞察と見識の高さで知られる。1960年代後半には、故スタンリー・キューブリック監督とともに映画「2001年宇宙の旅」 (1968年公開) を制作。地球外文明との遭遇と人類の進化をテーマとした本作は、SF映画の記念碑的存在として現在も高く評価されている。クラーク氏の訃報に接しアメリカ航空宇宙局 (NASA) は、「地球での個人的な旅は終わりを告げたが、彼のビジョンは著作を通じて生き続けるだろう」との声明を発表している。

ニュースソースマイコミジャーナル
wikipedia:アーサー・C・クラーク
wikipedia:2001年宇宙の旅
関連記事HAL伝説 2001年コンピュータの夢と現実

またもや、SF界の巨匠が他界されたそうです。私にとって、クラーク氏による「2001年宇宙の旅」という作品は、本当に掛け替えの無い作品でした。それこそ、初めて読んだ早川文庫SFであっただけでなく、小学生時代に初めて自分のお小遣いで買った2冊の小説の一つでした。小学4〜5年生の頃の私には、難しい漢字が多く、難解な部分もあったかと。しかしそれだからこそ、冷たくもハードで妥協の無いSFの世界とはこういうものなのかと、戦慄が走るような感覚を覚え、夢中で読んだ記憶があります。

それこそ、映画2001年宇宙の旅における難解な部分が、事細かに記述され、作品に込められた真意というものはこうであったのかと深く納得しました。無論、必要以上の説明を排除し、一見難関に取られがちな映画の演出は、キューブリックの意図したものですが、その気になれば小説という媒体には、映像表現以上に表現能力を秘めている部分もある。いや、むしろ文章だからこそ、表現できる世界というものもあるという事を思い知らされた出来事でもありました。

それこそ、当時のSF映画や、SFアニメなどは、SF小説からすれば、足元にも及ばないのではないかと感じ、ハインライン、アシモフ等の作品にも手を出す切欠ともなった程です。結果として、私は生粋のSFマニアと胸を張れる程SFを読んでいるわけではありませんが、クラークに関しては、後に出版された、2010年、2061年、失われた宇宙の旅2001、3001年や、幼年期の終わり、等の一連の作品を手にとって来ました。(それこそ、HAL伝説まで読んだ位ですからw)

とは言え彼の作品は、後年の作品になればなる程、近未来における精緻なまでの科学考証力や、未知な存在に対峙した際の緊張感とか、細かい状況描写がなりを潜め、殆どが登場人物の会話で物語が進行するようになり、クラーク氏も歳をとったのだなぁと感じ、正直な話し、魅力的な作品はもう書けないのではないかと感じていました。それこそ、3001年終局への旅は、もう物語の展開がやっつけ仕事的にすら感じた程で・・・。それでも、宇宙関連のTVの特番とかでホンの数分間、シワだらけになった彼の姿を見かけたりするだけでも、「ああ、まだ元気でいるんだw」と、往年のSFファンは嬉しく思ったりしたものです。

そんなクラーク氏も、ついにこの地上から離れる時が来てしまったようです。昔から親しんで来たSF作家が軒並みこの世から離れていってしまう事にえも言えぬ寂しさを感じてしまいますね。クラーク氏のご冥福をお祈りいたします。
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