橋本さんのブログ

科学は偽りであり、オカルトに真実が隠されている

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田布施村系譜 メモ

(1)田布施村系譜とは、李氏朝鮮の両班を祖とする派閥である。

●山口県熊毛郡田布施町  
*田布施の朝鮮人は、大内氏の系譜。本姓は多々良氏。百済の聖明王の第3王子の後裔と称していた。

伊藤博文(首相)
河上肇(共産党・学者)
難波作之進(衆議院議員)
難波大助(虎ノ門事件)
松岡洋右(外務大臣)
賀屋興宣(大蔵大臣)
木戸幸一(内大臣)
安倍源基(内務大臣)
宮本顕治(共産党)

●鹿児島県高麗町
*高麗町という地名は、島津義弘が慶長の役で連れてきた朝鮮人達をこの地に住まわせた事に由来する。その後朝鮮人達は寛文 3年と同9年に日置郡伊集院郷苗代川村(現在の日置市東市来町美山)へ移された。鹿児島の田布施村は、伊集院村を含む合併で、現在南さつま市となっている。

西郷隆盛、
東郷平八郎、
大山巌
山本権兵衛

(2)新明治維新時代考

●薩摩と長州は、両班派閥で最初からつながっていた。
●長州の武器調達のために坂本龍馬は利用されていた。
●坂本龍馬を暗殺したの薩摩。坂本龍馬は孝明天皇殺害を批判していた。
●明治維新ではなく明治革命である。(
武士から両班派閥への権力交代)
明治革命は寺田屋事件が、ターニングポイント

山口県田布施村と鹿児島高麗町の朝鮮人はネットワークを持っていた(以下、両班派閥とする)。

長州や薩摩の郷士が主張した尊皇攘夷とは、朝鮮人が祖である天皇を中心に自分たちの政権を立てること。

寺田屋事件

1862年の島津久光が兵を引きつれて上京(京都へ)したのは挙兵である。

この挙兵に長州が合流する段取りだったが、時の藩主毛利敬親は動かず、島津久光は下関から海路で京都に単独で入城。

土佐の下級藩士は倒幕の動きに呼応し、武市半平太率いる土佐勤王党は脱藩して京都に集結。

長州の協力を得られなかった島津久光が京都御所の制圧をためらっているなか、両班派閥の有馬新七らは、関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃するべく寺田屋に終結していた。

島津久光は、同じ両班派閥の藩士、奈良原繁以下9名を寺田屋に向かわせ決起を翻意させようとしたが、有馬らは拒否し同士討ちとなった。

島津久光は挙兵の真意をごまかすために、朝廷の勅使を護衛するという名目で江戸に入り公武合体論を展開。

島津一行の帰路の1862年8月に、薩摩の両班派閥の奈良原喜左衛門と海江田信義は、幕府と英国との戦争を企て、生麦村でイギリス人を殺害する。これは、翌年1863年7月、薩英戦争となる。

長州の両班派閥も、幕府と諸外国との戦争を企てて、1863年5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えた馬韓戦争を仕掛ける。

米仏軍艦は、馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えたが、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖した。

1862年9月24日、薩長の両班派閥の動きを察知した幕府は、天皇を守護するために京都守護職として会津藩の松平容保を送る

長州の海上封鎖に対して仏蘭米の艦船17隻で、1864年8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。

この2つの軍事衝突に幕府は関わり会いを否定し、外国軍の日本の侵略にはならなかった。

この事件以降、長州では、経済封鎖されるが、薩摩の両班派閥は、土佐の坂本龍馬に亀山社中をつくらせて、薩摩で調達した武器弾薬を長州に運ばせた。

長州藩内では両班派閥が藩内のクーデターに成功し、今度は長州を主力として京都で天皇を奪回するクーデターを起こす。1864 蛤御門の変である。

しかし、このクーデターに同調する手はずだった会津と御所を守っていた薩摩が動かず政変は失敗する。薩摩藩では、両班派閥は島津藩内を掌握していなかったのである。

1862年の薩摩の挙兵と1864年の長州の挙兵で、双方の足並みが揃わなかっことが後世に軋轢として伝えられている。

しかし、1866年に薩摩の西郷隆盛が島津藩の藩内クーデターに成功し、薩長の両班派閥の足並みが揃い、倒幕へと走る。

幕府側の降伏宣言である大政奉還のあと、薩長の両班派閥は孝明天皇を殺害。長州の田布施村出身の大室寅之助を天皇と挿げ替える計画を立てた。

この計画を知った坂本龍馬は激怒した。薩長の両班派閥は坂本龍馬を寺田屋で殺害する。第二の寺田屋事件である。

翌、1868年、大室寅之助を明治天皇と挿げ替えた薩長の両班派閥は、王制復古を宣言。

両班派閥の考える階級社会は、良民(両班、中人、常人)と賤民(奴婢、白丁)の2階級で、良民の中で官僚である両班と、世襲制の専門職の中人とそれ以外の常人との格差が大きい社会である。

薩長の両班派閥は、朝廷を構成する華族と、薩長の両班派閥の新華族を両班とし、それ以外を平民とした。つまり、朝鮮人以外は平民となる。

これに激怒したのは、薩長の両班派閥の実態を知っている九州地方の士族であり、山口県の萩や、佐賀など各地で士族の決起が起きた。

両班派閥の内部抗争の敗れた佐賀の江藤新平は、この士族の乱を利用して復権を目指すが失敗。やはり征韓論で下野した西郷隆盛も、士族の反乱の棟梁となるが、孝明天皇を殺害して明治天皇をすりかえた張本人である西郷隆盛は、反乱軍である士族の人質であったかもしれない。

薩長の両班派閥の山形有朋と大久保利通は、西郷隆盛をあえて救出せずに、士族を滅ぼし、徴兵制による国民皆兵の軍隊を作った。

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