木の葉神社

和歌山県東牟婁郡串本町田原、JR紀伊田原駅横に木葉神社があります。
なんとも愛嬌のある社名です。
祭神は木花咲耶姫で神社名は祭神からきている様です。
また、「祢んねこの宮」とも言われ古文書には「不寝児為寝宮(ねざるこねさすのみや)」や例祭の節に奉納する子守唄の「ねんねこおろろんよう」などの言葉から呼ばれるようなったと考えられています。
また、神功皇后が三韓征伐から凱旋して、田原の浜に上陸し、産気づき、当社の木の葉の上で安産したという伝承もあるようです。

この神社には社殿が無く石を積んでるだけです。古い祭祀の形態を今に伝えています。ですから元の祭神は木花咲耶姫ではないのではないかとの思いもあります。

他に境内には八幡神社 金比羅神社 大地主神社 若宮神社も祀られておりそれらには社殿があります。

また不思議なのは金比羅神社の祭神には武内宿禰と金山彦命で金比羅とはまったく関係がないのも気になります。金山比古が金比古となり金比羅と変わったのではないでしょうか?

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嘉永五年子九月の狛犬です。風化して顔が分かりません

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親の子供に対する思いが込められている前掛けが奉納されています。

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白い小石を積み上げた神籬

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紀ノ川の河口部は大正十二年(1923)から始まった護岸工事や埋立てによってそれまでとは一変しました。

この地図は大正11年の地図に現在を合成したものです。
紀ノ川の川幅が広げられているのがわかります。また、市堀川が紀ノ川から分離されています。

江戸期、紀ノ川は度々氾濫を繰返していた、河口に堆積した土砂で浅くなっていた為だが元々は砂丘を突いて出来た流路の為に浅いのは当たり前です。

また現河西橋付近の紀ノ川から土入川に流れる川があり北島村の西は「中州」になっています。その為に大水の時は土入川に逆流して付近は冠水したらしいです。
そこで、
嘉永六年(一八五三)二月、土入川の流域十二か村の庄屋たちから大庄屋に対して、土入川が紀ノ川に流れ込む河口に棒堤を築立するように願い書が出されました。
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今もその時の百間堤が干潮時に少し顔を見せます。

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紀ノ川北岸河西橋(旧加太軽便鉄道鉄橋)側から見た百間堤、干潮時に姿を現します。

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淡路街道にある御旅所

那賀郡内の和泉山脈山麓に上岩出神社と式内社海神社が鎮座しています。
なぜか御旅所は淡路街道沿いにあります。

上岩出神社の御旅所には「秋季例大祭(十月)において、御輿(みこし)巡幸の途中、神様が休憩される場所です。神社の本殿と同様、「耕作の現場にも神様をお迎えしたい」という願いから造られたものだと言われています。

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上岩出神社御旅所

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海神社御旅所

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七瀬祓

紀伊国一宮の日前国懸神宮には古来「七瀬の祓」という神事が行われていたらしい。
紀伊名所図会によると「国造一代一度の大神事にて、日前国懸両神宮御榊御鉾をはじめ、神寶等渡御ありて右七箇所にて国造自ら修禊せらるるなり」書かれています。
国造一代一度といううことは国造職に就任した時の行われたのだろうか?そこは書かれていなかった。
紀伊国造と出雲国造だけは大化の改新以後国造制度が廃止になった後も国造新任時に朝廷の太政官にて祝詞式の神吉事が執り行われていた。特別の存在だったことが記録されています。七瀬祓は朝廷での神事の後なのかは不明です。
紀伊名所図会には記されているという事は文化八年(1811)までは行われていた事になりますが現在は途絶えています。

この七瀬祓の場所も見つけたのはこの菖蒲井がはじめてでした。
名所図会によると、

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千壽河原 同村にあり。古名祓川と云ふ。
此地は當所日前宮七瀬の祓の其一なれば、祓川といふなるべし・・・

場所は千手川。現在も和歌山直川に千手川は存在する。

以前調べてた時は旧淡路街道沿いに見ていったが発見でませんでした。旧淡路街道は河岸段丘の崖下と上を登ったり降りたりしながら走っている。道沿いの崖上には式内社の伊達神社や近くで弥生時代の遺跡が発見された射矢止(いやと)神社が鎮座しているからです。
しかし、河岸段丘下の紀ノ川の氾濫原を通る旧淡路街道では古代危険が大きかったと思われるので今回は段丘上の道を探す事としました。
この道は「歴史の道調査報告書」によれば古代の南海道に比定されており探す価値は十分にありました。

今回はJR六十谷駅を出発して北に進みJR阪和線の踏切を東に渡ったら道は下り千手川の橋を渡ったてそのまま道なりに進むと民家の影に看板を発見!道より1mぐらい下に畑と共に石組みの井戸を発見したのです。其の井戸には「菖蒲井」と刻まれていました。井戸を覗くと水を湛えており井戸としての使命を辛うじて保っていました。

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現在は畑の水に使われているのでしょうか?

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上の写真はいつもの1953年米軍の撮影した航空写真です。現在千手川が流れているのは崖の西岸で東岸は菖蒲井の東にあります。この東西の崖間が千手川の川幅で田が出来るまでは河原に井戸があったのだと思います。元は井戸ではなく河原で祓をしていたのでしょう。

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祈りの共通性

先日鹿児島に行ってきたのです。
鹿児島にはモイドン・モイヤマという木や森を御神体依代とした所が存在します。
モイドンのモイは森、ドンは殿で西郷隆盛の事を西郷ドンというのと同じです。モイドンは森殿モイヤマは森山なのです。
数あるモイドンの中でも有名なのが上西園のモイドンです。
畑と家が混在する集落の中にコンモリとした森が存在を主張してるのです。

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入口が見つからず畑と小屋の間を通り森の中に、その時は心の中で「お邪魔しますと」一言。
なぜかというと、気性の荒い神で祟られると言われているからです。
木を触ったり草木や枝をもって帰ってもいけないらしいです。

目を引くのは径2Mのアコウの木。圧倒的な存在感、不気味さの中に神秘さが共存しているのです。

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近付いて見上げると絡み合った幹が筋肉の様な血管の様な生きてる様な・・・

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根元には二本の木に注連縄が掛けられておりココがモイドンだという事を示していた。
周りには割れた彫り物がある石を祀ってる所とお社が存在しています。それは山ン神(内神)とイナイドン(稲荷神)らしいです。沖縄の方言に近い言葉に聞こえます。
沖縄との文化の近似性が見えると思います。

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ここで和歌山県東牟婁郡串本町のある矢倉神社です。
この矢倉神社には社がありません。コンモリとした森が住宅地の中に存在し石の鳥居が神社であることは示しているだけなのです。
鳥居をくぐると右手に石灯篭が一つ正面には石で囲まれた長方形の窪みが有るだけです。
この窪みが元は井戸だったらしいです。

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この矢倉神社は牟婁の海岸部と河川沿いに点在しているらしいです。
海人の信仰とかかわりは深いと思われているらしいです。
黒潮が運んできた信仰の形なのでしょうか?

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祈りの共通性

神社のカタチは自然崇拝から発生しそれに人物が乗っかる形で今に至ってるのは知られていると思います。
その流れは南から伝播し北に至り先に伝わった地域は政治経済の中心地から取り残され古い容が今に残されているそれが現在だと思います。それも明治以降は交通通信の発達と中央集権的文化価値観により合理化が行われて失われようとしています。それには少子化も継承を困難にして衰退の速度を加速させているのです。

交通手段が貧弱だった古代は唯一の大量輸送手段は海上交通でした。海は無限の可能性を秘める存在として恵みをもたらし又は未知の世界として恐れの対象としても思われていたでしょう。それには潮の流れや干満を月の満ち欠けとの関係性を感じとりそれを崇拝の対象としてきた事はごく自然的な流れではなかったかと。
月の崇拝は字の如く月読でいて海の信仰は恵比寿で蛭子(ひるこ)そして海神信仰に至のではないかと思うのです。

琉球のニナイカナイ信仰と御嶽信仰とその形態、鹿児島のモイドンやモイヤマ、熊野地方の矢倉信仰や那智の滝・神倉神社のゴトビキ磐・花の磐屋神社・玉置神社の玉石社などがつながりが無いとは言えないのではないかと考えるのです。

下の写真は共に似すぎています。特に斎場御嶽と花の磐が・・・
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斎場御嶽(沖縄県南城市)

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花の磐(三重県熊野市)

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神倉神社ゴトビキ磐(和歌山県新宮市)

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茅輪祭

紀伊国一宮は何故か三ヵ所あります。

日前国懸神宮と伊太祁曽神社と丹生都比売神社ですが

今回は伊太祁曽神社の茅輪祭(わくぐり)に行ってきました。

開催日は毎年7月30日と31日に行われています。

はじめは30日の夕方に様子を見に行ったのですが参道には夜店の屋台が多数出店しおり賑わっていました。

そこで、静かになっているだろう31日の昼におじゃましました。

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県道前の鳥居(一の鳥居?)を抜け南進すると右手に鳥居(二の鳥居?)鳥居をくぐり橋を渡ると神社にたどり着きます。
ここは以前から気になっていた鳥居の反対側の森の中にある古墳に行きました。
この古墳の名は「ときわ山古墳」。
最初に目に入ったのが足元の土の色です。それは赤いのです。

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赤い土は鉄を含んでいます。ただの山ではなく鉄の山なのです。

斜面に造られた古墳は円墳と思われます。

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石室は横穴式で驚くのは石棚が備わっているのです。

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石棚のある古墳は紀伊独特ですがそれは紀氏ゆかりの古墳が大前提です。

伊太祁曽神社は紀氏によって日前国懸神宮のある地から追いやられた歴史を持っています。

その地の古墳が紀氏と同じ様式なのです、不思議です。

日本書紀は勝者の歴史です。

敗者である名草の首長は今まで祭っていた出雲系の神から天神系の神を祀る事を強要されたのではないかと?思われるのです。

日前国懸神宮の摂社に天道根神社と中言神社が並んで建っていますが上座の東側から国懸神宮、中言神社、天道根神社、日前神宮と鎮座しています。

すると、日像鏡(天照大御神)を御神体としてる日前神宮よりも日矛鏡(鏡なのか矛なのか不明)の方が上位になるのです。日矛で思い出されるのは新羅国の王子、天之日矛を思い出されますが・・・

国懸神宮の次が中言神社の名草彦、名草姫が上位に来る事になりますよね。

名草彦、名草姫は名前の如く名草の地の祖神です。当然一番重要です。

最後に天道根神社は大和に対する紀氏の護身の為の神社でしょう。

そこで伊太祁曽神社に戻りますが、祭神は五十猛命で素戔嗚尊の御子神です。

日本書紀によりますと素戔嗚尊は新羅のソシモリに降りてその地を嫌い渡ってきたと記されています。

天之日矛と素戔嗚尊の故郷が一緒なのがわかります。

紀氏は幾度となく朝鮮半島に出兵している事も・・・

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今回はもう少し紀伊名所図会を詳しく見て行きたいと思います。

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幡降寺は現在も同じ場所で現存します。

これが現在ですが名所図会がかなり大きく描かれているのがわかります。

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名所図会に描かれて鳥居と幡降寺の位置関係は一緒です。
間に描かれてる翁池は田になっている様です。
鳥居を潜って上っていくと住宅地に行き着きました。そのため祠跡は確認できませんでした。
それでは幡降寺の前まで移動しましょう。

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鳥居からと寺からの道が交わる所、すなわち宮井川に橋が架かっています。名所図会には「大門橋」と記されていますが現在は名も無い橋が架かっています。

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寺に向かいます。

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寺に登る道からも鳥居と翁池跡がよく見えます。

山門前に進むと。かなりこじんまりとしていますが配置は同じなので名所図会が大袈裟に描かれている事がわかります。

石段も名所図会にきちんと描かれています。

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また、馬場村の薬師堂も図会と同じ様に村内に現存しています。

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お堂内には薬師如来像が安置されていました。

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上の画像は現在、中が米軍撮影1953年、下が紀伊名所図会です。

現在確認できているのは幡降寺、丹生神社、薬師堂、白山神社鳥居です。

現在の丹生神社の位置は栗栖紀氏神社であったと思われます、馬場栗栖村の薬師堂は現存しています、紀伊名所図会の薬師堂から下った位置に栗栖神社があるので正解かと思われます。
また、
日本歴史地名大系によると、丹生神社は

栗栖丹生神社・紀氏栗栖神社ともよばれる。現在は日本武尊・宇摩志摩治命・丹生津比很拭ε憩産命を祭神とする「続風土記」は紀氏栗栖神社と記し、保延年間(1135〜41)に丹生明神を紀氏栗栖神社の相殿に祀って二座とし、以後二神共に栗栖一村の産土神として信仰を集めたと記す。「紀伊国神名帳」には「正一位紀氏栗栖大神」が見える。延亨三年(1746)の「南紀神社録」は、祭神は紀氏祖天道根命と栗栖姓の祖宇摩志摩治命であるが、後世土地のものが紀氏・栗栖二姓の祖廟であることを知らずに丹生明神と称していると記す。一方「続風土記」は「紀氏の此地に住する者、其祖神を祀れるならむ、祀神は天道根命なるへし、栗栖神社は栗栖村に坐するを似て称するなり、或は栗栖姓の祖を祀るといふは誤なり」と述べている。いずれにしても江戸中期には丹生神社とよびならわし始めたらしい。

紀伊名所図会はの初編は文化9年(1812)で丹生神社と栗栖紀氏神社が共に記載されています。ところが、文化三年(1806)から編さんが始まり天保十年(1839)に完成した「紀伊続風土記」によると、「保延年間(1135〜41)に丹生明神を紀氏栗栖神社の相殿に祀って二座とし」と矛盾が生じています。丹生神社の旧地には何らかの祠の様な物が置かれていて祈られていて明治の神社統合令で完全消滅したのではないかと思われます。

名所図会の鳥瞰図では旧丹生神社は白山神社の北に位置していて白山神社から道が伸びています。江戸期や明治期の当地の地図はありませんが戦後米軍が撮影した1953年の写真によると北に1本同じように道が伸びており現在の写真でも同じように道は残っています。その行く先は西和佐小学校です。現在の西和佐小学校は校門を入った場所は大木が立っており何やら曰くが有りそうです。僕は此の地が丹生神社跡地ではないかと思っています。

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和歌山県和歌山市栗栖(くるす)は市の中心部から東に行った地にあります。
「日本歴史地名大系」によりますと、

栗栖村
名草郡に属し、西は松島村、南東は岩橋(いわせ)村。
小名に西栗栖・南栗栖・東栗栖・馬場栗栖・八軒屋、枝郷に出島村がある・・・・・・・

文政六年(1823年)の「宮和佐郷中騒動」によると、
水不足の宮井用水井末の村々が五月七日鳴神村の夫頭の家を打ちこわし、翌二十八日は当村花山へ大勢が集まって村々の川筋を調べている。
八軒屋は街道の要所で、城下大手口から田井ノ瀬の渡しで紀ノ川を渡り北東に向かう大坂街道と、東に向かい岩出の渡しを渡る大和街道とがここで分岐する。
ここまで城下のものが旅に出る縁者などを送るので旅館・茶店が多く、商人宿もあった。

「続風土記」は社寺として紀氏栗栖神社・丹生明神社・総社権現・陶ノ宮、旛降寺・観音寺・栗栖寺・高倉寺・浄土寺・教蓮寺・智天寺、出島村に薬師堂を記す。


現在も交通の要所で阪和自動車道和歌山ICや国道24号線が通っている。

ここで気になるのが花山の北側に位置している事で古墳の存在です。
花山は岩橋千塚古墳群の一部で現在も紀氏の墓があります。
ですが栗栖郷は平野で古墳の存在が確認できません。
古墳時代紀ノ川の流路がこの花山まで近付いていたのだと思われます。

時代は下って1906年の神社統合令によって合祀が多数見受けられます。
栗栖郷では丹生神社の一社になってしまいました。

丹生神社に合祀されている神社(社・神)は
白山神社・淡島神社・八幡神社・陶ノ宮神社・里神社・紀氏栗栖神社です。

そこで、これ等の神社の旧地を訪ねる事にしました。

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次回は空撮と紀伊名所図会で見る栗栖郷で旧地を探してみたいと思います。

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