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今日はネット喫茶から更新してます 久々の幕末モノの更新というわけで 8月18日は文久3年(1863年)に「8月18日の政変」があった日です 20年前の「白虎隊」では露口茂が扮する秋月悌次郎が 長州藩を御所の警備から外すように働きかけて勅許を頂き 禁裏で会津、薩摩と長州がにらみ合い、歯軋りしながら長州が引き上げていったシーンですね この「8月18日の政変」から一連の出来事が起こります まず、新撰組が浪人古高俊太郎を捕まえ 京都における長州勢力回復のため市中に火を放ち 混乱に乗じて天皇を誘拐して長州へ奪うという計画を未然に手に入れる この計画を練るために集まった長州藩士や浪人を一網打尽にしたのが「池田屋事件」 この事件に激怒した長州藩が武力を以って京都に攻め上ってきて 会津、薩摩と各諸藩が激突し、長州藩を退けたのが「蛤御門の戦い(禁門の変)」 御所に向けて刃を向けた長州藩に征討の命が下ったのが' 「第一次、第二次長州征伐」'に繫がっていきます 歴史が苦手な人はどの出来事がどんな順で起こったのかが難しく感じると思うけど (オレは戦国時代の流れが良くわからんのだけどね・・・) こうして、原因と結果を結び付けて考えていくと(年代までは難しいけど) なんとなく歴史の流れが見えてきませんか ただ、歴史が急激に方向転換するときもあり 幕末においても、朝敵だった長州が官軍になり、 京都の治安と孝明天皇の信頼を受けていた会津藩が 気がつけば賊軍になっていたりするんですね 理由は長州藩がイギリスをはじめとする諸外国と戦って近代戦に目覚めたことや 薩摩藩が裏で長州藩と手を組んだことなど色々と理由はあるけど 勝海舟が西郷隆盛に「幕府はもうダメだね」と言ったことが 薩摩藩が幕府を見放し、長州と手を組ませた原因になったとも言われています そう考えると、責任ある一人の言葉っていうのは よくよく考えてからしゃべらないとダメなんだなって思いますね
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戊辰戦史
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桑名城跡 辰巳櫓跡 辰巳櫓跡に置いてある大砲 吉之丸堀に浮かぶ東屋 桑名藩は幕末時には高須藩から松平定敬公を藩主として迎えている 松平定敬公といえば、会津松平容保公と兄弟であり 会津藩が京都守護職として京にあるときに 京都所司代として共に京の地の治安を守っていた藩である 鳥羽伏見で幕府側が敗れた後は藩主と桑名藩兵は越後(現新潟県)にある飛び地に転戦し 後に会津入り、そして会津落城前に函館へ渡り徹底抗戦して終戦を迎えた 【辰巳櫓】(案内板より) 桑名城本丸の東南角にあり、三重櫓であった 元禄14年(1701年)天守閣が焼失し、再建されなかったので 以後は辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在であった このため、明治維新の時、降伏のしるしとして西軍に焼き払われた 現在、辰巳櫓跡には大砲が置かれているが、由来は不詳である 桑名城跡は高須城跡から揖斐川と長良川の間を走る 県道106号線を真っ直ぐ南下すると揖斐川沿いにある ナガシマスパーランドの近くといえば場所をイメージできる方もいると思う 今は九華公園となり、神社、野球グランド、市民プールなどがある 今回訪れたときは雨が降っていたので人気がなかったが これからの時期は子供の遊び声が聞こえる憩いの場所になっているみたいだ 【追記】
1枚目の写真、中央に2つほど白い小さな丸が映っているが 雨が降っていたので水滴が映って見えるだけです 気にしないでください |
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名古屋から西側、大垣の南に位置する場所 そこが会津松平家に養子に入った容保公の故郷、高須である 高須藩は名古屋尾張藩から分家した松平家10万石であり 徳川家康の血を引く由緒正しい家系なのだ 市内に城址公園があるが、実際はそこから 1kmほど北に流れる川辺にお城ではなく陣屋が建っていた 現在、その場所には石碑もなく昔に想いを馳せる術もないが そこから南東にある海津市歴史民俗資料館は陣屋の平面図を参考に建てられている そこでは高須輪中の歴史、それにまつわる薩摩藩との関わり 高須藩主の略系など予想以上に面白い展示物がある もし、高須に興味がある方はここを見にきてください きっと高須について興味深い色々なことを知ることができるでしょう
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幕末の本や話を聞いてるとなんのこっちゃわからん言葉が時々出てきませんか |

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