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伊藤忠出身の丹羽在チャイナ大使が、フィナンシャル・タイムズの記者とのインタビューで、尖閣諸島を東京都が購入すれば日中関係に重大な影響がある、と述べたと報じられた。政府が、あわてて、政府見解と異なると異を唱えたが、後の祭り。チャイナでは、日本の大使が述べたことを大々的に報じ、尖閣は、疑う余地のないチャイナの領土である証拠とした。 もともと商売人の丹羽のような人物を民主党が大使にしたのが間違いだ。丹羽は、チャイナ政府の要人とはまったく面会できず、軽んじられているという。チャイナ政府も、大使としてではなく、単なる商売人として扱っているのだろう。 丹羽は、何に使うかわからない大運動場の広さのチャイナの新潟領事館用地買収に対して協力する旨の口上書も出している。昨年の在チャイナ大使館の改築許可との交換条件として要求されて応じたという。丹羽は一体どこの国の大使なのだろう。 丹羽のお粗末ぶりは、尖閣という国民的関心事だからたまたま目をひいた。しかし、その影には外務官僚の売国メンタリティーがあり、それが、この機会に噴出したものと見るべきだろう。 外交官になって赴任するとき、外務省はどういって送り出すか。受入国を愛し、その国の人から愛されなさい、という。間違っても、日本の国益を守りなさいとは言わない。なぜか。何が日本の国益か不明だからだ。不明なものは、守りようがない。戦後憲法で、平和主義が宣言され、諸外国とも、みんなで仲良くが国是となった。官僚が独自に国益と思われるものを突出して追求すれば、反対意見の持ち主から国内で追及され、失脚してしまう。かくて、相手国から愛される外交官の誕生だ。 外務省は、在外公館の職員の拡充に熱心だ。他国と比較して、要員が少ないという。しかし、それをいうなら、仕事の比較をしてからにすべきだろう。他国の外交官は、目指すべきものがある。しかし、日本の外交官は、存在することだけが、目的だ。 小人閑居して不善をなすという。日本の外交官もやることがないから、自分の生活を安楽にすることに注力する。生活安定のために最も重要な要素は、面倒な問題を起きないようにすることだ。なにせ、ステータスだけは高い。問題が起きなければ、王侯貴族に準じた生活ができるのである。在留邦人も、天皇陛下も名代としてちやほやしてくれる。かくて、懸案は隠す。隠し切れず顕在化した時には、ひたすら火消しにまわる。その過程では、妥協に妥協を重ねる。 問題回避・事なかれ主義の行動は、官僚全般のものだ。しかし、国内では、回避しようとしても限度がある。国民の監視の眼がある程度光っているからだ。しかし、外交には、国民の目は行き届きにくい。たとえ、関心事となっても、憲法にいう平和協路線に従ったといえば許される。 戦後、60年以上こういうことを続けてきたなれの果てが、日本の国益より相手国の国益を重視する外務省のメンタリティーだ。日本の国益を守ろうとしても、誰もその苦労を評価してくれない。へたをすれば、鉄砲玉が飛んでくる。それよりも、相手国から感謝されて、居心地よく暮らしたい。「生活第一」だ。丹羽の発言は、この外務省文化の当然といえば当然の産物だ。 日本外交の問題はなにか。確固とした外交目標がないことだ。しかし、それは、国家目標がないことの裏返しだ。普通の国は、自国の国際的ポジションの明確化、国際社会における望ましい国家理想像の策定、それを実現するための方策の研究と実行、という手順で外交を実施する。 戦後、アメリカの属国に甘んじた日本にはこれがない。属国には、意志は必要ないのだ。ただ、生活していればいい。突き詰めれば、日本には、外交は必要がない。その、論理的帰結が日本のお粗末な外交官を生んだ。 さて、外交を立て直すにはどうするか。まず、憲法を改正して属国意識を払拭することだ。アメリカの国力は相対的に衰退していくだろう。いまでは、日本の甘え根性は、アメリカにお足手まといになりつつある。アメリカは、自国の国益のためなら平気で日本を見捨てるだろう。(これは、国際社会の厳然とした事実だ。しかし、アメリカを責める訳にはいかない。アメリカに限らずどの国でもとる行動だ。シリアで虐殺が起き、チベットで今年だけで40人を超える僧侶が焼身自殺しても、どの国も助けには行かない。)自主憲法を制定し、自らの立ち位置を決定してから、初めて普通の国の外交目標の設定ができるようになる。しかるのち、初めて外交官の統制が可能になるだろう。 |
政治
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大阪市の橋下市長の維新の会が注目を集めている。その背景にあるのは、日本の現状に対する不満だ。しかし、単なる不満ではなく、不満自体を解消する努力自体ができていないことに対する二重の不満だろう。 人間は自由な動物だ。不満があれば、それを解消すべく努力する。個人であれば、それで済む。努力しても解消しないことはあるが、人事を尽くした後は、諦めるしかない。しかし、社会となると別だ。解決法があるのに、その実行について合意が得られない。これは、フラストレーションだ。 端的には、「何も決められない政治」という言葉に象徴される。橋下氏は、この現状に対する処方を提示している。だから、注目に値するのだ。 戦後、民主主義は少数の意見を聞くことだという、誤った理解が、日本の異常なメディア・教育空間の中で増殖してきた。結果、日本は、何も決められないシステムを張り巡らし、かつそれらを強化してきた。 日本が戦前の遺産に乗っかって高度成長した時代には、それでも、金で反対者を黙らせてなんとかやりくりできた。ごね得社会にはなったが、成長力が勝っていた。しかし、ここにきて、やりくりが行き詰まった。なにせ、ばらまく金がなくなったからだ。 ゼロサム・ゲームとなった今、日本人は、トレード・オフという社会の事実に直面しなければならない。みんながハッピーということはあり得ないのだ。ある決定は、人生であれ社会全体であれ、必ずトレード・オフを伴う。もちろん、不利益を蒙る程度を最小限に留める努力をすべきではあるが、切り捨てるべきものが必ず生じる。 民主主義とは、自由な言論の後、多数者の意見を実行することだ。定義上、少数者の意見は切り捨てる。日本では、少数者の意見を尊重することが、民主主義だと、全く違うことが教えられ、宣伝される。結果、少数でも反対があれば、実行されない。かくて、社会は漂流し、自己決定力が発揮できず、緩慢な死に向かって漂うこととなる。 もちろん、マゾヒストを除いて、死にたくないと願っている人が多数だ。しかし、今の制度は、普通の人の当たり前の願望を実現させない。橋下氏は、そういう戦後体制に対するアンチ・テーゼを提起したものだろう。社会全体として、きちんと自己決定したい。そんな普通のひとの当たり前の欲求に答えるものだ。 橋下氏の選挙では、朝日を中心とする支配メディアは、あからさまなネガティヴ・キャンペーンをおこなった。同和問題までキャンペーンに利用したのにはたまげた。戦後民主主義者が偽善者ということをあからさまに示したものだろう。しかし、社会の生存本能を体現する橋下氏に打ち勝つことはできなかった。大阪市民は、メディアの妄言に惑わされず、まともな判断を行なった。 橋下氏の勝利は、戦後体制を一新するための、ささやかな一歩にすぎない。まだ、何も具体的にシステムが変ったわけではない。お粗末な支配メディアもそのままだ。願わくは、この動きが日本全体に広がることを期待したい。そして、当たり前に、自己の将来を自己の意思で決定できる社会にしたい。 |

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河村市長の南京事件発言 河村市長の南京事件に関する発言が、波紋を広げている。事件当時、国際的には何等問題とされなかった案件であるが、東京裁判でチャイナが持ち出し、日本は反論の準備ができていなかった問題だ。 その後、日本における民間調査が進み、少なくとも民間人の大虐殺はなく、日本軍の支配の実態は他地域と差がなかったことが推定されている。また、事件は中国国民党の国際世論を操作するための戦時諜報活動の一環としてのプロパガンダとの証拠がでてきた。しかし、米国などではこのような調査結果がほとんど知られていない。 この問題に対し、2月22日、官房長官は、「旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている」といういつもの事なかれ主義の政府答弁をくりかえした。大虐殺があったと積極的には言ってはいないが、文脈からすれば、チャイナの主張を認めると国際的に解釈されるであろう。まさに、霞ヶ関文学の世界であるが、こういう文学が日本の国際的立場を破壊していることに気がつかない。 日本は、戦後ずっと「占領国史観」のもとに戦争に関する事実解明をタブー視してきた。その主役が、所謂「戦後民主主義者」の腐った歴史学者とマスコミだ。現在の主要メディアは、すべからくこの占領国史観に毒されているといえる。その実態は、戦前の皇国史観賛美と変わらない。戦前は皇国史観、戦後は占領国史観というわけだ。 河村発言は、この占領国史観に対する日本人としての素朴な疑問だ。これまで多くに人が抱いてきた疑問を、戦後民主主義者と戦後体制は、事実を捻じ曲げ圧殺してきた。これは、戦前の皇国史観の強制と同じ罪を犯しているのといえる。 河村市長は、この体制に対する勇気ある意義申し立てを行った。しかも、疑問があるなら、日中で討論会をやろうと提案している。しごく全うな主張だ。事実について疑問があるなら公に解明するのが筋だ。 問題は、日本のメディアだ。河村発言に対し、社説で問題誌視した新聞社が出たのには唖然とする。メディアは、事実の解明が命だ。南京事件は、まだ当時の経験者が生存している。事実の究明は、メディアの組織力をもってすれば、そう困難なことではない。それをずっとサボって政府とともに事なかれ主義を決め込んできた。これは、記者の名にもとる行為だろう。日本の主要メディアの記者は、すべからく記者ではなく政治ゴロと自称すべきだろう。 日本は謀略詐欺の被害者だろう。詐欺罪の加害者に対し被害者は頭を下げろと加害者が要求する。そして、それを支持する自虐自称知識人がいる。いったい、この国はどうなっているのか。 河村市長、頑張れ。くれぐれも、自虐主義者の不当な圧力の前に腰砕けにならないように祈ります。 |

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今次震災に対し、アメリカでは暴動も起こさず対応する国民に対する驚きが報道されている。日本人に特有の「我慢の精神」によるのだそうだ。しかし、日本でも、一揆や米騒動はおきている。政権交代も怒りの発露だったろう。まだ、福島の事象は継続中の事態出はあるが、現在までの経過をみる限り、これは、東電社長と菅総理による人災だ。国民は、怒らなければならない。
福島原発事故は、非常電源の機能不全が大本の原因だ。このこと自体過去の経験を学習すれば、対応が可能のことだった。阪神淡路でも、非常時用の衛星通信回線は、非常用電源が機能せず無用の長物となった。非常用電源を含め全体のシステムを耐災仕様とするのは、重要インフラ防護の基本原則だ。それが、不備であったのは反省すべきであろう。
しかし、問題はそれではない。いかに、システム防護体制をとっても想定以上の事象は常に発生する。たとえば、津波に対して高さ50メートルの防潮堤をつくることは非現実的だ。津波危険地域では、住宅建設を高台のみに限定することの方がいいだろう。(ちなみに、被災地域の復興計画では、自治体が被災土地を買い上げ、大規模な高台宅地造成を行うべきだろう。日銀引き受けの国債発行で賄えばデフレ脱却にもなり、買収資金は、被災者への資金援助ともなる。被災地では、津波に耐える鉄筋建物以外は建築させない。)
問題は、想定以上の事象が発生した時の危機管理だ。今回の事象は、ポンプを回し原子炉を冷却すれば回避できた。そのために必要なのはポンプとポンプを回す電源だ。震災発生後、東電は、事故の性格を把握した後、復旧努力を行ったと思われる。しかし、欠けていいたのは最悪事態の想定と最悪に対に対処するための準備行動だ。
最悪事態事の想定自体は、専門家には簡単のことだ。しかし、課題は、組織防衛・自己防衛本能により、関係者が最悪事態を避けられるとの楽観に囚われることだ。リビヤのカダフィの息子は、インタビューに応え、われわれには、プランA、プランB、プランCの3つの選択肢があると語った。一般的に、ある事態に対し、楽観、悲観、中立の3つの予測を立てるのは基本中の基本だ。東電の復旧努力は、復旧が可能という楽観シナリオにのみ対応している。東電の対応は、危機管理の観点からは、リビヤ以下といっていいだろう。
復旧不可能という悲観予測に立った準備行動を取っていれば、どうなっただろうか。直ちに政府の連絡するとともに、電事連を通じて他の電力会社にいざという場合の協力体制の準備を要請している筈だ。例えば、電源に関しては、震災後一週間たって初めて実現した恒久電源の東北電力からの調達準備は直に開始された筈だ。放射能の放出後の作業は手間のかかるものとなったが、事故直後であれば、一日程度の作業で済んだものという。非常用電源復旧見込みが困難となった時点ですぐに対応しておれば、これで、対応が済んでいた。また、各電力会社からの原発要員の応援を得るのいう決断を早期にしていれば、その作業は更に早まっただろう。
この、対処を妨げたものは何か。想像するに、組織長の面子であろう。原発所長は、自らの面子を気にし、東電社長は自らの面子を気にした。それが、判断を鈍らせた。もっとも、社長はそれ以前かもしれない。日本のリーダーは、危機に際しても、部下に何とかしろと言うだけで自らの判断をしないリーダーが多い。損な役回りを避けてうまく立ち回った人間が出世するという日本型組織の欠陥だ。東電の社長が、どちらの人間かを判断する情報は残念ながら持ち合わせていない。いずれにしても、組織単独では対処できない自体を想定し、他組織に支援を求めるという判断は、組織長のみが可能な判断だ。それを直にしなかった所長・社長の責任は極めて重い。
次の責任は、総理をはじめとする政府首脳だ。政府は、2日後の最初の原発爆発以後、東電に任せておけば解決するという楽観を捨て最悪シナリオに対処する準備をするべきであった。それは、まず非常事態宣言と国内・国外のあらゆる資源の自主的および強制的動員準備であった。これは、対策本部といった協議機関ではだめで全権を持った危機管理官が必要だ(意見を広くき聞くことは必要)。官僚組織は、民間以上に面子のかたまりだ。誰も率先して火中の栗は拾わない(これは、官僚非難ではなく、あらゆる官僚組織に共通する性向だ。リーダーは、それを承知で官僚を使いこなさなければならない)。抵抗を抑え、意見を聞いた後は不確実下で困難な決定をするのがリーダーだ。残念ながら、政府の対応は後手後手にまわり、外国では、日本政府の統治能力に失望が生まれた。非常用発電機は、結果的には米軍が提供したが他に国内にもいくつか調達可能であったのではなかろうか。放水車にしても、一週間後に初めて自衛隊、東京都のものが到着したという体たらくだ。対処が遅かったため、放射能で作業も停滞した。米国は当初は政府の対応を好意的に見守っていたが、あまりのお粗末さに米国は見かねて全面支援声明を発表したほどだ。危機に際しての総理の危機管理能力さえあれば、事態はこれほどになることはなかったであろう。この意味で、これは人災だ。
今回の事故を通じて思うことは、これは、第2の敗戦ではないかということだ。大東亜戦争は、国のリーダーの面子維持と不作為により開戦せざるを得ない事態に追い込まれ、超楽観シナリオの下になし崩し的に戦端を開いてしまった。陸軍と海軍の面子と組織拡張という官僚根性を当時のリーダーは誰も抑制することができなかった。結果、未曾有の大惨事となった。今回も、性格は異なるが、外部環境の変化に対しリーダーが的確な対処をしなかったという意味では同じだ。我々の行動様式は、戦前と何も変わっていない。
日本人の現場力はすごい。我慢の精神とは違うと思うが、各自の使命に対する忠誠心や協調力は一級品だ。それに比べるとリーダーは三級品だ。思うに、その理由は、日本文化に潜む人間関係重視の要素があると思われる。欧米では、組織は使命遂行にために存在する。リーダーは、使命達成のために組織を率いる。しかし、日本では、組織はそれ自体が構成メンバーの福利のための存在に転化する。当初の使命は忘れ去られ、組織の拡大がリーダーの役割となってしまう。
これは、戦前の軍、政府官僚に顕著であるが、現在の官僚も同様だ。更に言えば、これは日本特有の性向ではなく、一般的に長期間存続する組織にはどこでも発生する問題だ。ただ、日本では特にその傾向が顕著だ。国際的には、日本の非常任理事国立候補も、何をやりたいのかわからないのに地位だけ求めると揶揄された。また、いま流行に地域政党の動きも同じだ。地方議会議員は、地域住民の福利ではなく議員自身の利益をはかっているとことに根本的な原因がある。さらに言えば、国会自体も与野党を問わず議員の利益を図る集団に転化していることが問題だ。一部の議員個人には、良心的な人がいると思うが、議員間、利害組織間のしがらみに絡みとられそういう人は動きがとれない。
第3の敗戦を避けるにはどうするか。これは、憲法を改正して首相公選制を目指す以外にないと思う。そして、国民が試行錯誤を重ねながら本当に能力のあるリーダーを直接選ぶしかないだろう
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検察審査会が、小沢一郎氏の起訴を議決した。日本の民主主義が新しい段階に入ったと言っていい。
国家権力とは何か。それは、畢竟、裁判権とその強制力にある。我々は、国家というと行政権を思う。近代社会においては、国家が提供する様々なサービスなくして生活することはできない。しかし、近代以前、国家の役割は裁判であった。逆にいえば、裁判権が及ぶ範囲が国家の範囲であり、裁判権に服する範囲が国家の領域であり、その領域に住むのが国民である。
民主主義とは、定義上、人民が権力をコントロールすることだ。つまり、人民による裁判は、民主主義の不可欠の要素ということになる。中世日本では、村落共同体内で、神社の神人が湯起請(熱湯に手を突っ込みただれ具合で証言の信ぴょう性を判断した)などを利用して裁判権を行使した。残念ながら、明治以降の中央集権化により、地域の裁判権は否定されることとなった。今回の検察審査会の決定は、裁判員裁判と並び、裁判権を人民の手に取り戻す歴史的な具体例となった。
日本では、臭いものに蓋という諺にあるように、当事者が処理すべき不快な事項を他人まかせに転嫁する傾向が強い。裁判員制度に反対する意見もその現れだ。しかし、他人が自分のために誠実に働くというように世界はできていない。経済学では、この問題は、agency理論として研究されている。
官僚バッシングが盛んだ。国民の思うように官僚が働かないというのである。これも、agencyの問題といっていいだろう。政治家は、国民のagentの筈であるが、菅総理の行動をみれば、国民の代理人として機能しているか、大いに疑問となるであろう。Agentは、誰でも依頼人の利益よりはagent自身の利益を優先するものだ。
国民が、自らの利益を確保するにはどうすべきか。一つの手段が、自ら権力を行使することだ。この意味で、検察権を国民が行使した今回の仕組みは画期的なものであろう。
折しも、日本の検察は、尖閣と証拠ねつ造問題で崩壊状況にある。その中での、一点の明るい動きが今回の起訴だ。是非とも有意義な展開を期待したい。
なお、アメリカでは、一般人で構成するgrand jury(大陪審)の制度があり、重大事件において起訴を決定するのは大陪審だ。日本でも、単に検察の結果を審査するだけではなく、すべての起訴案件自体を審査する制度将来検討すべきであろう。 |





