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僕って、そんなにワルなんやろか?
『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ。近松門左衛門作)』、読んだ。最悪や。
まあ、無理もないよな。何しろ僕は先生を裏切った男やからね。
先生って、そう、菅家(かんけ)、菅公(かんこう)、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)、つまり、菅原道真大先生。
僕は先生を尊敬していた。畏怖していた。嫉妬といったものは自分では気づかんかったけど、心の奥底にあったのかもね。
嫉妬という観点では、僕が学んだ勧学院という藤原家の学問所があって、その先生である大蔵善行というお師匠が露骨に道真先生を嫉妬、いや憎んでいたのよ。
善行師匠のことを悪く言うんは何やけど、善行師匠、すべてにわたって、道真先生に劣ってたからねえ。和歌、書、漢詩、知識、頭の回転、容姿容貌・・・・・。そやから、全然モテんかったのよ。
一方、道真先生の学才は詩歌だけやない、文学・歴史・儀式・宗教・祭祀(さいし)・その他雑学、あらゆる事物に精通していたのよ。書も極めて達筆で、空海・小野道風とともに「書道三聖」のひとりとされているのねん。
おまけにモテたのよ。そっちの道は、かの色男、在原業平に学んだのよ。業平と道真先生って業平の方が年上やけど、どういうわけかウマが合って、二人であちこちでナンパしまくっていたらしい。道真先生はそっちの道は業平さんに教わったらしい。
結果、妻子はたくさんいた。数人の妻から二十三人の子女をなしている。
886年、道真先生は讃岐守に左遷されて四国に渡った。父の基経と善行師匠の排斥運動の結果でね。
道真先生が都にいない間に、父の基経がストをするという、阿衡の紛議が起こったけど、讃岐国府(香川県坂出市)でこのうわさを聞きつけた先生は、父に対して意見書を送った。その内容は橘広相先生を擁護し、これを罰することは摂関家にも大きな損失になるであろうと父を諫めるものであったのよ。
これに父の基経は「やはりすごい。菅家はすごすぎる。」と父はそれを何度も読み返していたのを憶えてるよ。
その父が亡くなる時に僕を呼び寄せてこう言ったのよ。「菅家を敵に回すな。たとえ万人が敵に回ったとしても、決して敵に回すな。ヤツの文才はあらゆる敵を凌駕する。ヤツを敵に回した時、摂関家は滅びると心得よ」と。
僕も若かったせいか、まだまだ力もなく、父の基経がなくなると、宇多天皇は摂関政治をやめたのよ。
それからの道真先生の昇進は目覚しいものがあった。宇多天皇は道真先生に何でも相談するもんやから、他の公卿はおもしろくないよね。
中でも中納言の源光(みなもとのひかる)は怒ってたなあ・・・・。「帝はなぜ先任の我らを差し置いて、公卿の末席の菅家だけに相談するのか、おかしいではないか」ってね。
でも、そんな中、大納言の源能有は温厚で寛容な人やったなあ。「まあまあ、仲良くしようよ」って、みんなとの調整をやってくれたねえ。人格者や。
能有さんは摂関家と菅原氏両者の親類で、僕とも道真先生とも親密やった。もちろん、僕と道真先生との間も親密やったのよ。僕の弟、藤原忠平なんかはもっと親密で、先生の姪(めい)と結婚したくらいなのよ。
だから、みんな僕と道真先生はライバルで争ったって言ってるけど、そんなことは全くなかったのよ、ホンマに。僕は道真先生のやることに腹の立つことはなかったのよ。どっちかというと、道真先生に反感を持つ人を抑えてたのよ。誰も信じてくれへんけど。悲しいなあ・・・・・。
でもねえ、私の師、大蔵善行は怒りが収まらんのよ。そらそやねえ、道真先生が執政官の参議に昇っているのに、善行師匠は内閣の書記やからねえ。藤原家学問所、勧学院の学長が書記ってねえ。確かにも門下生には顔向けできんわな。
このころの学閥というのは、大蔵善行師匠率いる勧学院の大蔵学閥と道真先生の私塾の菅家廊下と呼ばれる菅原学閥があったんやけど、それぞれのトップが書記と執政官ってバランス悪いよなあ・・・。
ただし、両学閥は流動的で、それぞれのテーマや課題によって、勧学院の藤原菅根や弟の忠平は道真先生にも師事していますし、道真先生も勧学院の紀長谷雄と仲良しやった。
善行師匠はいろいろと道真先生に意地悪をするんやけど、道真先生はそれを全部はねのけてしまうのよ。また、その意地悪が度を越えそうなときには、お師匠を諌めたこともあったんやで。エエやつやと思うよ、僕。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した時、宇多上皇は醍醐天皇に申し送り事項として「何事も時平と道真の両名に相談するように」と書き置いたのよ。すると、時の権大納言・源光、中納言・藤原高藤、中納言・藤原国経の三納言は怒ったのね。「つまり、わしらに用はないっちゅうことやな」と、三人の納言はいっせいに政務をボイコットしたのよ。
僕は三人に「そんなことないって〜」とか「頼むから、出仕してくださ〜い!」って、何とか僕と道真先生が彼らをなだめて出仕させたのよ。
宇多天皇の譲位は、私の師大蔵善行を喜んだらしい。善行師匠の弟子は「菅家は敵ばかりで味方がいなくなりましたねえ、でも、あえて挙げるとすれば、時平だけですね。菅家は時平と親密ですからねえ」と善行師匠に吹き込んで、事もあろうに、僕と道真先生を引き裂く策を練り始めたのよ。僕はそれに気ぃつかへんかった。
その後、僕と菅原道真先生は並行して出世していった。僕が中納言に昇進した二年後に、道真先生も中納言になり、僕が大納言になった時、道真先生は権大納言に、898年には僕と道真先生に共に準関白ともいえる内覧の権限を賜り、翌年には、僕を左大臣に、道真先生を右大臣になったのよ。
依然として、僕と道真先生の関係は良好で、いまだ政治や年中行事に疎い若輩者の私には、道真先生は参考書や辞書のような人で、なんでも優しく丁寧に教えてくれた。道真先生もまた、僕と良好な関係を保つことが失脚を逃れる最善の策だとよく知っていたのよ。道真先生は僕とさえ仲良くしていれば、源光ら公卿は決して手を出せないことを見透かしていたのよねえ。
さて、先代の宇多天皇は、源能有、菅原道真先生、私、私の師・大蔵善行、三統理平の五名に国史編修を命じたのよ。清和天皇・陽成天皇・光孝天皇三代三十年間の歴史を網羅した『日本三代実録』。これが完成して醍醐天皇に献上されたのは、901年やった。でも、そこに編者として名が記されたのは、僕と善行師匠の二人だけやったのよ。能有は編修途中で没し、道真先生は左遷され、理平は転任したため、名前を削除した。
ある日、善行師匠が『日本三代実録』の原稿を持って、相談にきたのよ。善行師匠と道真先生の内容が違うからどっちが正しいか、決めてくれって。
善行師匠が書いた陽成天皇が廃位された経緯についての部分を読んだ。何度か父に聞かされている通りで、陽成院は病弱だったため、父によって廃位させられた、と書かれてあった。
で、道真先生の原稿を読んだ。読み進めていくうちに、体が震え、息が荒く、動悸が激しくなって、原稿を放り出し、ととても最後まで読むことができなかった。
僕はあまりの衝撃に、しばらくガタガタ震えてしまった。やっとのことで、善行師匠に聞いた。
「父は、僕の父は、こんなに悪いことをしていたの……?」
善行師匠は否定した。
「だからそれはウソです。時平公の父君は、偉大なお方でした」
「では、この記述は何や!僕の父はワルではないかっ! まるで極悪人ではないかっ!」
「いいえ、それは偽りです。ウソ八百なのです。すべては菅家の小ざかしき悪計なのです!菅家は摂関家を悪とする偽書を公表することによって、自らを正当化し、権力を奪取しようとたくらんでいるのです!」
「菅家に野心はない!」
「なぜ菅家を信じなさいます?天才とは、何を考えているか解らぬものなり!」
僕は絶叫して突っ伏したのよ。信じたくなかった。父が悪だとは絶対に信じたくなかった。 僕の知っている父は、優しい父。どんなときも穏やかな、善の善の模範の父親やった。
「僕は信じへん!こんなもんは信じへんぞーっ!! 信じてたまるかー!!!」
善行師匠が肩をさすりながら、「そうです。信じなければいいのです。時平公は運がよかった。このような偽書が世に出ていれば、とんでもないことになりました。要はこれを世に出さなければいいのです」
僕は泣いた。
翌日、僕は道真先生に会った。
「読んだよ」と僕は先生に声をかけて、原稿を全部読ませてほしいと頼んだのよ。道真先生は惜しげもなく全部の原稿を貸してくれた。
それらにはこれでもかと言わんばかりに衝撃的なことがたくさん書かれてあった。父の悪事だけではなく、祖父・藤原良房のとんでもない権謀術数も満載。道真先生の原稿を返さないことにして処分することにした。
このことの一切を弟の忠平に相談したのよ。
忠平は「悪いのは兄上です。兄上は原稿を返して菅先生に謝るべきです!父も祖父も人間です。いいところも悪いところもそのままに記せばいいではありませんか!父や祖父のいいところばかりを伝えようなんて、虫が良すぎるのではありませんか?」
僕は言い返した。「何とでも言うがいい。僕にとって、歴史とは理想だ!父祖を敬って何が悪い! 先祖を崇拝しないことのほうが許しがたき悪行ではないかっ! 忠平! お前は父祖をおとしめる気かっ!」
「おとしめてはおりません!ただ、父祖は神ではなく、人間だと申したいのです! 『日本書紀』を御覧ください! 神ですら、とんでもない悪さを行っているではありませんか。悪は隠すべきではありません!悪も歴史の一つなんです! 断じて残すべきですっ!」
僕はこの時から、道真先生を謀反人だと思うようになったのよ。そして僕は醍醐天皇に讒言した。醍醐天皇が道真先生を左遷する宣命を下した。
道真先生が醍醐天皇や僕に抗議することはなかった。
その代わり、弟の忠平が血相変えて押しかけてきた。「兄上!今すぐ帝の宣命を撤回させてください! 菅先生に逆心がないことは、あなたは誰よりも御存知のはずではありませんか!菅先生が公卿に疎まれて四面楚歌(しめんそか)に陥ったときも、あなたは最後まで先生をかばっていたではありませんか!国史編修なんて、何度でもやり直せます! 先生は日本の至宝です! このような些細(ささい)なことで、何にも替えがたい、かけがえのない国の宝をつぶしてはなりません! 撤回をっ!」
弟の必死の説得にも、僕の心が動くことはなかった。動かされることは許しがたいことだと、自分に言い聞かせた。
今から考えると、忠平という弟はホンマにエエ奴や。忠平は道真先生の大宰府に食料などの物資や励ましの和歌や文を送って、ずっと面倒をみてくれた。忠平の血筋は藤原の本家の血筋となって栄えた。一方、僕の血筋は子供のほとんどが早死にし、廃れてしまった。
そして、道真先生を祀ってくれたもの忠平の子、師輔。師輔が道真先生を天神さんにした。
そして、909年に僕の両耳から蛇に化けた道真先生が現れ、その蛇を退散させるために色々と祈祷させるが全く効果は無いどころか逆に蛇となった道真先生に「控えよ!!」と一喝されて祈祷師はスゴスゴと退散してしまった。道真先生、すんませんと謝ったんやけど、気付いた時は遅かった。気を病んで、死んでしもた。
僕はたった一つの判断の間違い、というより学者の妬みというか策略に乗ってしまい、天下の悪役になってしもた。ずっと、嫌われもんや。だ〜れも、同情を持ってくれへん。
私は藤原時平のファンです、なんていう人に今まで会ったことないもんなあ・・・・・・。 ホンマに人気ないよなあ・・・・。
十分祟りを受けて、えげつない死に方をしたので、みんなちょっとだけでもエエから大目に見てくれへんかなあ・・・・・・・・・。
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歴史の人のつぶやき
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思えば、14歳で侍従になったんはええんやけど、なんと14年も侍従のままやった。和歌詠んでる場合やないで、って皆に言われてたけど、ホンマやった・・・・・。
俺、和歌やってるから、穏やかなように思われてるけど、宮中で何回か殴り合いの喧嘩してるのよ。それも出世が遅れてたのと関係あるのかな。まあ、腹立つ奴が何人かいたので、思い切り殴ってやった、がははは。
家系を遡ると、藤原道長さんに行きつくのよ。そやから、決して血筋は悪くはないんやけどね。
そういえば、爺さんの俊忠さんは順調に出世していたけど、参議になってから突然停滞して、参議を16年のまま、そこから全然出世せんかったのよ。そのあたりから、ウチの家系がちょっと・・・・。
ただね、爺さんは清廉な人で、付け届けとか、ゴマすり、べんちゃら、出世のお願いなんかは一切やらんかったのよ。当時、みんなに頭下げまくって、付け届けしまくって、権中納言に昇進した源顕雅さんと対比して、爺さんの俊忠さんは素晴らしい人で、このような立派な人はみたことがない、と褒められたのよ。
で、お父ちゃんの俊成さんやけど、爺さんの年とった時の子やった。そういうこともあって若い時に爺さんの俊忠さんが死んでしまって、後ろ盾がなく、苦労したのよ。
ただ、和歌の才能があったんで、和歌でなんとかあっちこっちの有力者に顔売って、付き合いを広めていったのよ。その甲斐あって、なんとか公卿になれたけどね、参議になれんかったのよ。やっぱり、貴族は参議になってナンボやからなあ・・・。
父ちゃんのお付き合いの中に九条兼実さんっていう鎌倉幕府と仲が良い、摂政、関白の大物がいたのよ。その兼実さんに父ちゃんが和歌を教えていたので、その関係から引き続いて、俺も九条家に出入りさせてもらった。
おまけに、幕府の源実朝クンからも和歌を教えてくれって言われて、実朝クンにも和歌を教えていたよ。実朝クンってなかなか熱心な人で、毎月和歌送ってくれたよ。武家のわりにはヤツには素質があったよ。でもねえ、ヤツの回りの東国の武士って和歌を理解できない連中やからねえ。北条政子って言う、ヤツの母ちゃんがまったく和歌わからん人やったみたいで、和歌作る時間があるのなら、弓矢の稽古しなさいって、ガミガミ言われていたようで、実朝クンは苦労していたみたいよ。
まあ、九条兼実さんに尽くした甲斐があって、14年のくすぶっていた侍従生活から脱却できて、左近衛少将になれたよ。そこから、トントン拍子で出世できると思ってたけど、そこからまた13年、近衛の少将のままやったのよ。
もちろん九条家からは金銭的、物質的な恩恵を受けて、貧乏ではなかったけど、公の官位はまたまた停滞したままやったのよ。どうやら、幕府と親しい九条さんと対立する勢力、反幕府、親朝廷(後鳥羽天皇派)との人事の兼ね合いで、割を食っていたみたい。それにしても13年ってねえ・・。ちょっとひどいな。
おまけにその政争で九条兼実さんが失脚してしまった・・・。九条さんが権勢を誇った時期でも出世がままならんかったのに・・・。もうアカン、進退窮まった。
どうしたらエエねん・・・・・。ここで一大決心をしたのよ。恥も外聞もかなぐり捨てて、お世話になった九条さんに申し訳ないけど、九条さんと対立していた権力者の内大臣源通親さんにすり寄ることにした。我ながらホンマに情けないよな。でも、仕方がない。爺さんと正反対の人生を歩むことにした。
人事の発表の前の日に、源通親さんの家に行って、何とかお願いしますって、頼み込んだし、藤原兼子さんっていう、人事を握っている後鳥羽天皇の乳母にも、何とか近衛中将に昇進させてください、って手紙を毎日書いたよ。ホンマに情けないし、九条さんにも申し訳ない。
その甲斐あって、ようやく左近衛中将にさせてもらったよ。何かすっきりせんけどね。なんであんなオバハンに取り入らんとあかんのや、ってね。
でも、まだまだ参議への道は遠い。そやから、兼子さんに通じるあらゆるツテを求めて、あっちこっちに和歌をネタに営業したよ。
ある日、兼子さんが熊野にお詣りに行くという情報が入った。そこで、その途中、馬一頭プレゼントしたよ。そんなことばっかりやってた。内心は「あのくそババア」と憎みながらも、ずっとゴマすり、追従していたら、努力が実って内蔵頭になった。我慢の甲斐があった。それでも左近衛中将になってから8年もかかってるんやで。ホンマにゴマすり疲れしてしもた。
それでも、ようやく参議、三位の公卿が見えてきた。しかしなあ、その時50歳よ。早めに何とかせんとなあ、と姉ちゃんの九条尼に相談したのよ。そうしたら、姉ちゃんが助けてくれた。
姉ちゃんは古くは建春門院さんに仕えてその後、後鳥羽さんの娘の養育係をしてた。そういうこともあって、姉ちゃんは兼子さんとは顔見知りやった。そこで、姉ちゃんは自分の土地を兼子さんに「弟をよろしく」って貢いでくれたのよ。これは効いたね。
おかげで、ついに1211年9月7日に従三位なれた。あまりの嬉しさにその日の晩に兼子さんの家に行ってお礼言上してきたよ。念願の公卿や。14歳に任官してから36年の年月。長く苦しかったなあ・・・。
その3年後には参議。ついに議定官(今でいう内閣の一員)になれた。そこからは打って変わったような昇進ぶりで、2年後には治部卿、正三位、その2年後には民部卿となった。
それでも、官職位階の昇進を求めるのがクセになってしまったのか、あっちこっちに営業しまくって、最後には従二位権中納言に達した。この時71。やっぱり、和歌は効くねえ。一首、さらっと詠むとみんな喜んでくれたなあ。
まわりの人は何でそこまで地位が欲しいのか、と言うんやけど、この時代、そこそこの地位を得ていないと俺の和歌も評価されないと思うのよ。そやから、公家の世界でしっかりとした土台を築きたかったのよ。
やっぱり、お父ちゃんに俺も昇進で苦労しているからね。そやから、息子の為家の出世にも心を砕いていたのよ。それには為家の嫁の実家の格が低いので嫁を追い出して、名門の娘を娶わせようとしたのよ。
すると、知り合いの藤原実宣さんが、俺と同じようなことをしたら、息子が怒って出家してしまい、ウチには後継ぎがいなくなったと嘆いていた。それを聞いて、「ああ、俺はアホな父親やなあ」と反省したよ。ホンマにあかん親父や。
親馬鹿やけど、我が子孫が公家の社会で立身できる態勢を作りたかったのよ。その結果、我が子孫は冷泉家として明治まで続いたらしい。
和歌をやっていたおかげで、俺がガリガリの出世の亡者ということは知られずに、優雅な人であるとカモフラージュできてよかったかもね。
出世の活動の合間を縫って、「新古今和歌集」とか「小倉百人一首」つくっておいて、つくづく良かったと思うよ。
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