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10月21日はトラファルガー海戦のあった日。
フランスのナポレオンさんがヨーロッパを席捲している中、唯一イギリスだけが頑張っていた。
そこでナポレオンさんはイギリス侵攻を計画し、イギリス艦隊が封鎖しているイギリス近海や地中海を突破することを命令した。
それは西インド諸島にフランス艦隊を集結させて、そこからイギリス艦隊に搖さぶりをかけて、その隙にアイスランドからイギリス本土を攻撃しようとするものであった。
ところが、イギリスの封鎖が厳しくてなかなかイギリス艦隊を突破できずにナポレオンさんはイギリス侵攻を一時断念した。
そしてナポレオンさんは、目先を変えてオーストリア攻撃を決意し、その支援作戦としてフランス艦隊にナポリ攻撃を命令した。
そのフランス艦隊を監視していたのがネルソン提督率いるイギリス地中海艦隊でありました。
これがトラファルガーの海戦。
ネルソンさんはネルソンタッチという戦法を採用してフランス艦隊に突撃していくのであります。
当時の海戦において砲撃で敵艦を沈めるのは困難でありました。なので、はじめに大砲を撃ち合って最終的に接近戦で決着をつけるのは普通であった。つまり、まず砲撃戦で敵艦の戦闘能力を削いだ上で、接舷するのが普通であった。接舷された側も反撃手段が残っていないため、白兵戦に移行する前に降伏するケースが多かった。
ところがネルソンさんはいきなり超接近戦を挑むのであります。
敵方の艦隊に突っ込んで艦隊を分断して、分断した敵方艦隊を集中砲火を浴びせて水兵さんに突入させる
フランス艦隊は数で勝っていたけど、スペイン海軍も混じっていて指揮系統が複雑な上、士気や錬度が低く、艦載砲の射速も3分に1発と劣っていた。一方イギリス海軍は士気も錬度も高く、射速も1分30秒に1発と優れていた。
海戦は、午前11時45分に開始。ネルソンさんは「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」という信号旗を掲げて各艦に伝達した。
Z旗の原型でんな。
激戦の末、フランス艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊18隻、戦死4,000、捕虜7,000という被害を受け、フランス艦隊司令長官ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。壊滅状態に。
一方イギリス艦隊は喪失艦0、戦死400、戦傷1,200という被害で済んだ。
イギリスの圧勝。
ネルソンさんは以前にナイル沖の海戦をやっていて、この時も超接近戦でフランス艦隊を撃退しているのね。
いきなりぶつかってくる勢いで迫ってきて、超至近距離でバンバン大砲を撃ってくるので、その恐怖がトラウマになっているフランスの軍人さんがいっぱいいたらしい。
それぐらいの命懸けの接近戦をやるのでこのナイル沖の戦いにおいても、「明日の今頃にはウエストミンスター
に葬られるか、貴族となっているかだ」との言葉を残している。
フランスのヴィルヌーヴ提督はもしネルソンさんと対決することを予測して、狙撃手を多数軍艦に乗せていた。
ネルソンさんは突撃する際は必ず先頭の軍艦に乗り、常に身を敵に見せていたのであります。
そのために、トラファルガーの時は右目を失明し、右腕を失っていた。
旗艦ヴィクトりー号で指揮を執るネルソンさんは4つの勲章(正確にはそれを模した布製のレプリカ)を胸にしており、狙撃をおそれた副官らからコートを羽織るように進言されても、「立派な行いでこれをもらったのだ、死ぬ時もこれをつけていたい」と退けた。
先頭艦での修羅場の中、ネルソンさんは動じることもなく悠然と指揮を執っていたけれど、ついにフランスの狙撃手の狙撃によって深手を負い、「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い遺して絶命した。
ネルソンさんは国葬としてセントポール大聖堂に葬られた。
ネルソンさんは、終生艦隊決戦に重きをおいた。この考え方は海尉時代のかなり早い時期からのものだったらしく、「自分が艦隊司令官だったら、敵艦をすべて沈めるか、自分の艦をすべて沈められるかどちらかだろう」との手記も残っている。その手段が超接近戦で決着をつけるという方法やったのね。
当時は相当数の艦艇を保有してさえいれば、それだけで敵対国への圧力となるとする当時の艦隊保全主義に反するものであったけど、ネルソンさんが実戦での実績を重ねるうち、海軍のみならず英国民すべての認識となっていった。
逆に、敵艦隊と交戦し、一定の戦果を得ながら、艦隊の保全を重視して追撃戦を行わなかった提督が軍法会議にかけられるような事例も生じた。
でも、ネルソンさん自身はそうした提督を擁護する立場を取った。なかなかやさしい人であった。
戦闘では先頭に立って常に危険に身を晒して厳しく指揮を執るけれど、それ以外は同僚や部下には滅法やさしい。オトコマエの人でありました。なので、軍人には人気があった。
実際、ネルソンさんの遺体をイギリス本国に移送するときに遺体を腐らせてはいけない、とブランデー漬けにしたらしい。ところが、その遺体がロンドンに着いた時に、ブランデーは残っていなかった。水兵さんは士官さんが、偉大な提督にあやかろうとして、そのブランデーを盗み飲みしてしまった、とお話があるぐらい人気があったらしい。
で、ネルソンさん、女性にもモテた。地中海艦隊司令長官の時にイタリア駐在のイギリス大使の奥さん、絶世の美女エマ・ハミルトンさんと不倫するのであります。ネルソンさんも妻帯者だったのでW不倫ということになりまんな。
ちょっとやらかしたのね。
おまけに娘さんができてしまった。
ネルソンさんは自分の子である、と潔く認めて、娘さんにホレイシアと名付けた。この娘さんは長寿であったけれど、終生自分がネルソンさんの子であることは否定し続けた。
まあ、トラファルガーで戦死したほうがネルソンさんにとってはよかったかもね。
長生きしていたら、エロ提督とかゲス提督とか言われてたのかも。
トラファルガーの戦いは1805年、ナポレオンさんの没落の約⒑年前の話である。
この2ヶ月後にアウステルリッツの戦いがあり、ナポレオンさんは大勝する。イギリスの首相、ウィリアム・ピット(小ピット)さんは味方のボロ負けの敗戦に落胆、失望し、現職のまま死んでしまうのであります。
イギリスはトラファルガーの大勝に喜びまくっていた直後に地獄をみるのであります。トラファルガーの喜びは一気に吹っ飛んでしまった。
軍事の専門家は、トラファルガーで海を制圧した時点でイギリスの勝利、ナポレオンさんの没落は確定した、とピット首相に進言する人がいたら、ピットさんはもう少し生きて、ナポレオンさんの没落まで見られたのでは、と言っている。
炎の提督、ネルソン提督、歴史的海戦勝利の日が自身の命日でもありました。
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歴史
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真田丸
いよいよ大坂の陣。
幸村さん、九度山を脱出して大坂城に。
大坂入城
真田丸
いよいよ大坂の陣。
幸村さん、九度山を脱出して大坂城に。
大坂入城の際に受付をしていたのが、長門守重成さま。
大坂城一のイケメン、オトコマエ。
といっても、これからもあんまり出番はないよなあ〜。
重成さんは秀頼さんの小姓として豊臣に仕えたのね。
出自はいろいろあってはっきりしない。
有力なのは木村重茲さんの子である、ということでありましょうか。
木村常陸介重茲さんは秀吉さんに命じられて秀次さんの家老をやっていた。
が、秀次さんが切腹するにあたり、秀次さんを弁護したこともあって、切腹を命じられるのであります。
その時、重成さんは1歳であったこともあり、命はたすけられた。
重成さんのお母上は秀頼さんの乳母であった関係で、年齢が近い重成さんは小姓になった。
頭脳明晰、容姿端麗、所作美しく、美男子であったらしい。
ただ、戦の経験がなかったので、大坂城内では結構馬鹿にされていたらしい。
でも、重成さんは平然としていた。
そこで、重成さんは自ら後藤又兵衛さんに申し出て戦を教った。
その際、数では劣っているにもかかわらず、徳川方の軍勢と対等に渡り合い、その戦いぶりは敵味方から称賛された。
その時、敵中で負傷した大井某さんを捨ておいて引き上げるのは忍びないと、単騎敵中に駆け込んで大井さんを探し出し、救援に駆け付けた家臣たちに大井さんに預けて、自分は最後尾を引き受けて、堂々と引き上げた。
この戦いで重成さんは秀頼さんから感状と名刀一振りをもらうことになったけど、重成さんは辞退している。
その理由は、武功は自分一人のものではない。又兵衛さんの主導の作戦やほかの武将の働きがあってこその成果である、ということと、感状などというものは他家に仕官する際に有効であって、一生豊臣家に仕えるつもりである自分は、豊臣が栄えれば自分も栄える、よって自分には感状やご褒美なんて要らない、ということであった。
さて、幸村さんと重成さんであるけれど、どのようなかかわりがあったか。
重成さんは真田丸の戦いに参加している。
真田丸に徳川方が攻めてきた。
重成さんは攻め手の中に六文銭の旗印を見つけるのであります。
そこで、重成さんは幸村さんに問うのであります
「もしかしたらあの六文銭の旗印はご身内では?」と。
すると幸村さんは「その通り、六文銭は兄の信之の旗印で、柵に取り掛かっているのが甥の信吉、信政でござる。しかし、ここは戦場である故、身内と言えど敵であるので、討ち取って手柄にしてくだされ」と答えた。
それを受けて重成さん、「いえいえ、一族が引き裂かれての戦い、心中お察し申し上げます。いずれはこの戦は和睦となるでしょう。その時はめでたく対面なりましょう。」と。
そして、信吉さん、信政さんを狙わないように家臣に命じたのであります。
まあ、重成さんにはオトコマエなお話がもっとありますが、ドラマではこのお話ぐらいでしょうか。
これからの戦いを楽しみにしましょ。
頬杖で電話待ちたる夜長かな
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真田丸。
家康さん、征夷大将軍になっちゃったねえ。
将軍に任命されるにあたって、お公家さんで朝廷に根回しした人がいるのね。
それが武家伝奏、広橋兼勝さん。
武家伝奏(てんそう)というお役目は公家(朝廷)と武家(幕府)を取り持つ朝廷側のお役人であります。だいたいの場合、大納言や中納言が兼任する。
もともとは鎌倉に頼朝さんが政権を樹立した時に、朝廷が関東取次というお役目を作ったのが起源で、南北朝、室町幕府の時に武家伝奏というお役目が確立した。
戦国時代になると、武家が朝廷から何か大きな官位なり特別なお役目をもらう場合、朝廷(公家)側からお武家さんに接近するお公家さんがいるのね。
秀吉さんの場合は、菊亭大納言今出川晴季さんという人が秀吉さんに知恵をつけたのね。
秀吉さんは小牧長久手の戦いで家康さんに敗れたあと、征夷大将軍をあきらめた。
当時、将軍になるには東の敵をやっつけるという条件があったらしい。
実際、右大臣織田信長さんは、甲斐の武田家の勝頼さんを滅ぼしたあと、朝廷から「関白」「太政大臣」「征夷大将軍」のいずれかを選んでね、という文書が発見されていた、信長さんは「将軍」を望んでいた、とのこと。
まあ、その前に本能寺で討たれてしまったので、この話はなくなってしまった。
その例があって、秀吉さんは東の敵をやっつけたら、将軍に任命されるように運動するよ、とお公家さんからの提案があった。
が、秀吉さんは家康さんを討つことができなかった。
その失意の秀吉さんに、将軍が無理なら朝廷で出世しなはれ、と囁いたのが今出川晴季さんであります。
そこで、一気に公家の官位を駆け上がるのね。
1584年10月に従五位下左近衛権少将、その50日後に一気に従三位権大納言。異例の7段階のランクアップであります。
その4ケ月後の1585年の3月に正二位の内大臣。
そして、そのまた4ケ月後の7月に策を弄して藤原家の養子になり、内大臣のまま関白になってしまうのであります。
で、その翌年の1586年の末に関白太政大臣。
2年で関白なんてよっぽどのことがないとここまではいきまへんな。
今でいうと初当選議員がいきなり大臣になり、その翌年に総理大臣になるようなもの。
そのお膳立ては菊亭今出川晴季さんでありました。
さて、家康さんの場合はどうか。
まず、家康さんは秀吉さんの養子秀次さん以来、空白になっていた関白職を1601年に公家の九条兼孝さんにしたのね。なぜ九条さんまで空白だったかといえば、秀吉さんが生きている間は関白職に誰も就けなかった。まあ、秀頼さんが成人したら、と思っていたのであろう。
その策士は、広橋兼勝さん、その後ろ盾は関白になった九条兼孝さんでありましょう。関ケ原以降、兼勝さんは武家伝奏になり、京都所司代を通じて家康さんに接近していくのであります。
そして、朝廷に右大臣、征夷大将軍、源氏長者、淳和奨学院別当などの宣旨が下りるように働きかけるのでございます。そして、1603年に家康さんに征夷大将軍になる旨、伝えたのであります。
本来、幕府というものは、近衛大将のお役目を担っていなければ開けない。
家康さんはその10年くらい前に左近衛大将をやっていて、その数年後に辞任している。そこで、家康さんの跡継ぎの秀忠さんに右近衛大将に任官させて、また家康さんを源氏の氏長者にして、誰からも文句を言わせないようにしてしまった。
本来、源氏の氏長者は公家の源氏のポストであった。それを武家に渡したのね。
家康さんとの協議で1611年には武家官位を員外官(いんがいのかん)として公家官位と切り離す。これによって武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。公家の官位奪還を成し遂げた。
例えば、秀吉さんの晩年は、内大臣に家康さん、大納言に前田利家さん、中納言に毛利輝元さん、小早川秀秋さん、上杉景勝さん、参議に宇喜多秀家さんなど、本来お公家さんのポストに武家(大名)が就いてしまい、定員があるポストにお公家さんが就任できなくなってしまっていたのであります。
そういうことにも兼勝さんは尽力したのであります。
ただ、この話も交換条件のようなものがあって、お公家さんの叙位叙任は幕府の許可が必要、というのがそれであります。
兼勝さんの娘さん、時の天皇、後陽成天皇のお気に入りであった。要するにお妾さんでありました。家康さんの後ろ盾もあって兼勝さんは朝廷で大きな力を持つのね。
ところがその娘さん、大事件を起こしてしまう。
イケメンで歌の上手、在原業平さんの再来と言われるお公家さんと浮気してしまう。で、このイケメンのお公家さんは業平さんばりのプレイボーイでいろんな女性を誘ってはHしまくっていたのであります。
それがだんだんエスカートしてしまい、イケメンお公家さんの友達を誘い、天皇の女官(お妾さん)数人と夜ごと夜ごと乱交パーティーをするのであります。
当然、その中に兼勝さんの娘さんも参加していた。
ついにそれが露見して、後陽成天皇は激怒するのであります。自分のお気に入りを片っ端から中級のお公家さんに食べられてしまったからね
この時期には、警察権も幕府が持っていて、京都所司代が調査結果を朝廷に提出し、その中に自分の娘が一番目、筆頭に書かれていたことに兼勝さんは廟堂で卒倒するのであります。
で、天皇は関係者の全員の死刑を主張するのであります。
もっとも関白以下のお公家さんは、死刑だけは避けようという雰囲気であった。
ここで、家康さんが仲介に入る。死刑だけはやめなはれ、と。
兼勝さんは伝奏なので、天皇と家康さんの間で、両方から責められるのであります。家康さんからは天皇を宥めて「死刑はあきまへん」と言え、と迫られ、天皇からは「何が何でも死刑にせんかい」、と怒られて、板挟みになったのね。
結局は、イケメンのお公家さんと女官を外に出す手引きをしたお医者さんを死刑にして、その他のお公家さんと女官さんは島流しになった。
その上に兼勝さんは家康さんからお公家さんの風紀紊乱を咎められ、お公家さんは夜に出歩くな、といったお公家さん対する締め付けを行った。大納言でもあった兼勝さんは朝廷の風紀委員をやらされたのであります。
また、後年大坂の陣では、天皇の意向を受けて、徳川と豊臣に中を取り持って何とか和平を、と家康さんと秀忠さんに頼み込むが、家康さん親子に無視されてしまう。
その後、後陽成天皇を継いだ後水尾天皇の女官に子ができた、ということが発覚し、これも咎められてしまう。後水尾天皇は徳川秀忠さんと奥さんのお江さんの子、和子さんが後水尾天皇の皇后になることが決まったいたのね。これは兼勝さんと幕府と相談の上、兼勝さんが進めていたお話でありました。
進めていたというより、幕府が兼勝さんを締め上げて、脅かしまくった結果、兼勝さんが動かざるを得なかった。
生前、後陽成天皇は次の天皇に別の親王を考えていた。が、その親王は結婚していた。そこで幕府は朝廷に影響力を持つために、強引に独身であった親王(後水尾天皇)を立てて、次の天皇にしてしまった。そして、秀忠さんとお江さんの子、和子さんを皇后に決めた経緯がある。
前述のとおり、和子さんの旦那、後水尾天皇にはすでに隠し子がいる、という話が発覚し、秀忠さん、特に奥さんのお江さんにとってはいたたまれないことでありました。当然、秀忠さんはプンプン、というよりお江さんが怒り狂ったのね。「兼勝さん、婿どのにお妾さんがいて、その上に子供がいるってどういうことや」、ということやね。
兼勝さんは面目を失った。
天皇側の言い分は「あんたのお父上の家康さんは、側室がいっぱいいて、10人以上も子を作った。おまけに秀忠さんにも隠し子(保科正之さん)がいるくせに、それを棚に上げて、こっちを説教するのはおかしいやんけ」ということであります。
その旨を兼勝さんはやんわりと伝えると秀忠さんに「あんたと進めていた娘の嫁入りどないなりまんねん、文句があるんやったら、朝廷がどうなっても知らんでぇ〜」、と脅されてしまうのであります。
このあたりは、兼勝さんは今でいうパワハラされまくりやね。
幕府側からは散々説教され、ついて兼勝さんは幕府の代弁者のような存在になってしまい、幕府と一緒に天皇を締める側に回るのであります。 朝廷に対して幕府はお金を出していた。朝廷の儀式や御所の修繕、補修費、お公家さんの給料の一部などいろいろと面倒をみていた部分がある。そういった援助はどうなるのかねえ、と幕府側は藤堂高虎さんを御所に乗り込ませて朝廷に迫るのであります。
兼勝さんは幕府の威を借りて、天皇を脅して押さえ込むんですな。
この時期には禁中並公家諸法度が施行されていて、その11条に関白や武家伝奏(この時期は兼勝さんたち)に従わないものは流刑、と定められていて、この11条を幕府と兼勝さんは行使したのであります。
関白はともかく、武家伝奏のいうことを聞かないものは流罪、というのは幕府は武家伝奏を通してお触れを出させて、天皇やお公家衆に有無を言わさず押さえ込むぞ、ということやね。
結局、後水尾天皇の子を産んだ女官さん(お妾さん)はクビ。そして、監督不行き届きということで、女官さんのお兄さんや天皇の側近を流刑にした。
兼勝さんはこの直後に内大臣に昇進し武家伝奏を退く。
武家伝奏権大納言広橋兼勝さん、「出頭無双」といわれ、朝廷内での権勢は大きかった。が、幕府に譲歩も強いられ、天皇からは「奸佞の残賊」と罵られる存在でもあった。
はじめのうちは、幕府との融和を図って良かったけれど、幕府の体制が整っていくに従って、家康さんや秀忠さん、京都所司代からことあるごとに文句を言われ、お説教され恫喝され、最終的に禁中並公家諸法度を呑まされた。
気の毒なのは後陽成天皇で、浮気した愛妾やそのお相手達の処罰も思う通りにならないし、自分の跡継ぎとした親王も引きずれ降ろされ、何度も譲位したいと言い出しても天皇をやめさせてもらえず、なにもかも思い通りにならなかった。このような二進も三進もいかない状態に「ただただ泣きに候」と何かの書物に書かれていたのを思い出す。
そういうことから、「奸佞の残賊」と罵られた所以でしょうな。
当然、後陽成天皇の跡継ぎである後水尾天皇も兼勝さんを間に幕府からプレッシャーをかけられ、反幕気分の高い天皇であります。
幕府に対しての意趣返しを後水尾天皇は行うのでありますが、それはもっと後年のことであります。
葵三代という大河ドラマがあって、たまに兼勝さんが登場するんですな。ドラマに出てくる兼勝さんは、家康さん、秀忠さん、京都所司代に脅されまくりで、面白かった。
ところで、兼勝さんが武家伝奏をしていた時って、その心の内はどうやったのかねえ。
天皇や朝廷の考えることもわかるし、幕府の理不尽な要求も拒めないし、公武の間で悩める板挟み人生やったのかしら。
それとも、楽しかったのかしら。
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久しぶり。
なかなか記事を書く気にもなれず・・・・。
世の中、なかなか厳しいものであります。
久しぶりに真田丸を観る。
犬伏の別れと関ケ原というか第二次上田合戦。
次は関ケ原をちょこっとやるのかな。
犬伏で、真田家が父、弟の三成チームと兄の家康チームに分かれることに。
徳川についた兄貴は大変苦労するんですな。
まず、父上の昌幸の「幸」を受け継いだ信幸から「幸」を捨て、信之に変える。
関ケ原の結果、父上の昌幸さんと弟の信繁さんの助命を必死になって頼み込むんですな。
義理の父上の本多平八郎忠勝さんを巻き込んで、家康さんに死刑を回避してもらうように嘆願したりしている。
また、九度山で父上の昌幸さんが死んだときに、葬式をやらせて欲しいと信之さんが願い出たりしている。
信之さんは、関ケ原以降、幕府の要求を率先して呑んで、積極的に徳川の一員として働くんですな。
チクリチクリといびられながら、耐えて耐えて徳川の要求に応じていくのであります。 ちょっとでもミスすると、お取りつぶしになったり、お父上や弟の命が危ないからねえ。
大坂の陣の際は、信之さん、病気と称して代理に息子にと出陣させている。
大坂に行くと弟の信繁さんと結んで何かするかも、という疑いをかけられるのを防ぐために、大坂行きを子供に任せた、という話もある。
それはともかく、大刑少。
大刑少は家康さんの文や諸大名の文にによく出てくる通称みたいなものやね。
大谷刑部少輔吉継の省略形。
刑部さんは、かなり人気のある人で、菩提寺にあるお墓には花や線香が絶えることがないらしい。
秀吉さんが長浜城主になったあたりに仕えていたらしく、秀吉さんの中国攻めや賤ヶ岳の戦いなどに功績がある。その後、馬廻り衆などを務めながら秀吉さんの天下取りやその後の豊臣政権に仕えて、越前敦賀五万石の大名に。
刑部さんは、三成さん方からも家康さん方からも評判が良く、家康さんからはかなりの評価を受け、かなり親しくしていた。その関係で、家臣同士もお互いをよく知っている関係であった。
家康さんの家臣である榊原康政さんの娘さんと刑部さんの息子との結婚話もあったらしい。
宇喜多家家中に騒動があった時は、家康さんと刑部さんが乗り出して解決しようとしたこともあった。
なので、関ケ原直前までは公には家康派であったとも言える。
さて、上杉征伐。
上杉景勝さんが領国の会津で公然と軍備を増強し、その旨、上杉さんの隣国の堀家から家康さんに訴えがあった際、家康さんは自らだけでなく豊臣家の奉行である増田長盛さんと刑部さんにも連署した書状を作らせ、大坂に来るように求めた。
でも景勝さんは寒気が厳しいのでしばらく上坂すると返答した。
そのため家康さんは再び増田さん、刑部さんと連署して景勝さんの上坂を求めた。
このときの書状に、大坂に着く直前に京都で、「増右(増田長盛さん)、大刑少(刑部さん)、万事内府(家康さん)公へ申し含められ候間、御申し分候わば御申し越しこれあるべし」という一項がある。
つまり景勝さんに 何か申し分があれば、家康さんに近く何でも申し上げられる増田長盛さん、大谷刑部さんに頼って申し上げられるがよかろう、と述べているのである。このことから刑部さんと家康さんとはこの時点でまだ仲が良かったと思われる。
また刑部さんは、景勝さんとも検地や一揆の鎮圧などで協力して働いたこともあって、懇意にしていた。
この時の書状の返事、景勝さんの家老、直江兼続さんが書いた。
家康さんへ返事、直江状とセットで、「増右、大刑少御出頭の由、珍重に候、所用の儀申し越すべく候」と返答した。要するに「お話はありがたいけどお断り」ということやね。
そこで、上杉征伐が決定して、家康さんの主催で軍議が開かれた。
この時の軍議にも刑部さんは出席している。
軍議が終了したあと、刑部さんは豊臣恩顧の諸将と話し合った。その中で山内一豊さんは「軍議において上杉征伐を行うのであれば慎重にすべきであり、来春まで出馬を待たれるようにしてはいかが?という意見があったが、内府殿は退けてすぐに出馬することを決められた。これはどうしてであろうか」と刑部さんに質問した。
刑部さんは「ひとつには早く討伐の兵を挙げたほうが敵に十分な準備の暇を与えないで片付けるのに楽であること、先んずれば兵を制すである。また、来年を待たれよと進言した者の中には会津中納言(景勝さん)と親しい者もいる。もし彼らがうまく言を弄して発陣を遅らせ、会津中納言のために謀ってやろうという気持ちを抱いていたとしたら、そんな諫言にのって発馬を遅らせるのは愚かなことだ。それに今回の上杉の謀反は決して上杉だけのことではなく、他にも同心、与力する者が必ずあるはずだから、もしいたずらに日を延ばせば上杉方に味方する者たちも有利に戦備を整えられる。だから彼らの力がまだ整わない内に事を片付けてしまおうと内府殿は考えたのだ。」と、明快に回答した。
そして、「かつて太閤殿下(秀吉さん)は内府殿を優れた軍師であると申されていたが、確かに事に当たって慌てることなく、軽率を避け、自然の情理や人情の動きを察して物事を考え、人の和を本とし、天の理に沿って行動しようとされている点は、まさに天下の主ともなる人だけのことはある」と家康の実力を高く評価していた
刑部さんは三成さんが家康さんに対抗しようと夢にも思わなかったようであります。
刑部さんの上杉征伐参陣の大きな目的は2つあった。
ひとつは、家康さんと三成さんとの仲直りというか、仲を取り持つため、もう一つは家康さんと上杉景勝さん仲を調停、すなわち戦を避けるためである。
刑部さんは、ひとつの目的のために上杉征伐に赴く際に、三成さんの子を連れて行こうとしたのね。
そこで、三成さんに挙兵の話を打ち明けられた。
その際、三成さんの横柄さを憂慮した刑部さんは、「お主(三成さん)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元さん)か備前宰相(宇喜多秀家さん)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言した。
本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言って諫言していることから、刑部さんと三成さんはお互いに言い合える仲であったことがわかる。
「お主(三成さん)は智慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける」と忠告している。
また、あんたは利益(地位、金品)で人を動かすのは得意やけど、戦で人を動かすのは金品ではなく、大将の能力と人望、この2つにおいては内府にははるかにおよばない、とも。
刑部さんは三成さんに再三説得を試み、味方してよ、という誘いにも即答せず、数日経ってから味方することになった。
さて、何で刑部さんは三成さんに味方したのであろうか。
刑部さんは秀吉さんから「紀之介(刑部さん)に100万の軍勢の采配を任せてみたい」と言わせるぐらいの人でもあるし、率直に三成さんに言ったように負けるよ、ということも言っている。
また、家康さんとの付き合いの中から、家康さんの実力、器量も知っているし、刑部さんなら冷静にとっちがエエか判断できたはず。
よく言われるように、茶会のお茶の回し飲みの時に病気の刑部さんの鼻水が茶碗に落ちたのおを見た三成さんが、そのお茶をゴックンと飲み干した、という話があるけれど、これは秀吉さんである、という説もあるし、ホンマのところどうなんやろ。
もし、刑部さんが健康なら、どうなっていたのかしら。
もっと先の段階で違った展開になっていたかもね。
おそらく、自分の命がわずかであると知っているので、それなら昔から付き合いの深い三成さんに与力したのかな。やっぱり義ということであろうか。情ということであろうか。
たぶん、家康さんが勝ったとしても、ずっと秀頼さんを大切にしてくれるかどうか考えたのかもね。その点は家康さん、限りなく怪しい。
三成さんから相談を受けて、三成さんに与力すると返答するまでの数日の間、どうやったら勝てるのかを考えてから、三成さんに返事をしたのかもね、
刑部さんは関ケ原の折、裏切りの可能性のある金吾中納言小早川秀秋さんに備えて布陣する。
結果、刑部さんの軍は壊滅。
刑部さんは3年以内に呪い殺してやる、と秀秋さんの陣に向かって叫んだらしい。実際2年後に小早川秀秋さんは精神を病んで死んでしまった。おお〜怖わ。
そして、刑部さんは家臣の湯浅五助隆貞さんに「首を敵に渡すな」と言い残し、介錯を命じ、自刃した。
で、隆貞さんは刑部さんの首を遺言通りに隆貞さんは、刑部さんの首を戦場から離れた場所に埋めた。埋め終わった時に、隆貞さんは藤堂高虎さんの軍に所属する藤堂高刑(たかのり)さんに発見される。
隆貞さんは「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼むんですな。すると、高刑さんはそれを約束する。
で、形ばかり刀を合わせて、隆貞さんは討たれるのであります。
戦いが終わったあと、藤堂高虎さんは、甥の高刑さんが湯浅五助隆貞さんの首を取ったことに喜び、徳川家康さんに報告した。
そして、藤堂高虎さん、高刑さんは家康さんの前に出た。そして隆貞さんの首を見せた際、家康は手柄を褒めたのであります。
そして、家康さんは高刑さんに対して、「五助(隆貞さん)ほどのものなら、大刑少の首の場所も知っているはずじゃ。どこか」と、高刑さんを詰問した。
はじめは高刑さん、知らぬ存ぜぬで通した。が、度重なる家康さんの追及に高刑さん、ついに口を割るのであります。
が、その時に高刑さんが言ったのは「全く知らんっちゅうことはないけれど、五助どのとの約束で、このことは家康様と言えども話すわけにはいきませぬ。ご不満ならどうか私めをご処分くだされ」と決して刑部さんの首の場所を言わなかったのであります。
おそらく、首の場所を言えば大手柄であったでしょうが、この高刑さんの武士の情けというか、約束を守るという義理堅さというか、高刑さんに関心したのであります。そして、家康さんは高刑さんに褒美をあげたのあります。
自分の死と引き換えに主君の首を守ろうとした隆貞さん、そしてその約束を守りぬいた高刑さん、高刑さんの意気に感じる家康さん、なかなかのものであります。武士の気品というものでありましょうか。
さて、野戦の首実検やとりあえずの論功行賞や今後の作戦会議というのは、敵の大将の陣で行うのが普通であります。
戦いで勝ったあと、勝った側は「ここで集合してね」と大将から命令が出るのであります。
このことから考えると、関ケ原の場合、三成さんの陣で行うのが普通でありますが、この時は刑部さんの陣で行った。これは極めて異例なことであります。
家康さんはそれだけ刑部さんを重くみていたのかもね。また、その家臣もかなり評価していたのであります。
これだけ重く見られていたのにもかかわらず、刑部さんって結構少禄なのね。
刑部さんの領地、越前敦賀は港があって日本海の産物を京都に運ぶ要衝でありますが、石高は5万石なのね。
三成さんは20万石
秀吉さん、もうちょっとあげてもエエのにねえ、と思ったりもする。
何か秀吉さんに意図があったのかしら。
最低10万石ぐらいもらってもエエのになあ、と思うのであります。
実際、家康さんは刑部さんに対して、味方するなら最低12万石は保証するよ、って手紙を書いている。
そして刑部さんが三成さんに与力することが判ったときは、相当に狼狽したらしい。
実際の刑部さんのお仕事というのは裏支えの仕事が多かったのね。目立たないというか、評価されにくい、というか・・・・・。今でいうと兵站部分のお仕事が多かった。
その仕事を黙々とこなして、周囲からの信頼も得て、立派な武人であったことは間違いない。
刑部さんが健康であったら、もう少し実戦経験があったら、とかタラレバの話は詮無いことではあるけれど、こういうことを考えてみると面白い。
大谷刑部少輔吉継さん、オトコマエでんな。
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今日は豊臣家の滅亡の日。
401年前。
実質的には前日に大坂城が炎上している。
ということは、昨日が真田幸村さんの命日になるのかな。
その前々日は、後藤又兵衛基次さん、薄田隼人正兼相さん、木村長門守重成さんが、道明寺や若江で討ち死にしている。
この日は幸村さん、又兵衛さんの後詰で出陣していた。
この日は道明寺に出陣した後藤又兵衛さんの後詰であったが濃霧のため、後詰が間に合わず、後藤又兵衛さんら、名のある武将が討死した。
遅れて後藤又兵衛さんの敗残兵を収容しながら、同じく後詰で合流した毛利勝永さんに向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。
これを聞いた勝永さんは「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼さん)様の馬前で華々しく死のうではないか」と慰めたという。
そして、その翌日の家康さんへの猛攻撃になるのであります。
「真田丸」を観ていたら、片桐且元さんが登場していた。
且元さんは賤ヶ岳の七本槍の一人。
加藤清正さんや福島正則さん、加藤嘉明さんらに比べて、出世は大幅に遅れていて、秀吉さんの死の1年前にやっと1万石、摂津茨木城主になったのであります。
関ケ原では大坂城にいたけれど、軍事行動は起こさずに、家康さんに人質を差し出すことによって、お構いなし、それと大坂方の代理人、また家康さんとの交渉役のようなお役目を家康さんから仰せつかった。
その後の大坂方のイベントの総奉行をやったり、家康さんと秀頼さんの会見にもお膳立てに一役買った。
また、家康さんの政策にも協力し、猪熊事件という、京の御公家さんの乱交パーティーの取り締まりにも協力した。
ちょっとだけこの猪熊事件について触れると、後水尾天皇のお妾さんを巧みに誘い出して、中流のお公家さんたちとお妾さんたちは夜ごと乱交パーティーをしていたのね。
当然ながら、後水尾天皇はお怒りになり、それを京都所司代から聞いた家康さんは、関係者を逮捕したのであります。
その時に京都所司代と且元さんは、捜査にあたった。
話は戻って、家康さんがいちゃもんをつけた方広寺銘鐘事件。
且元さんは方広寺の梵鐘を作るために全国から鋳物師を集めて鐘を作り、銘文も高僧に起案させた。
その銘文に「君臣豊楽 国家安康」「右僕射源朝臣家康」とあるのを「不吉である」といいがかりをつけられる。
その弁明に且元さんは駿府に赴くが、「秀頼さんの駿府と江戸への参勤」「淀殿を江戸詰め(人質)とする」「秀頼さんが大坂城を出て他国に移る」の条件を突きつけられる。
そのやりとりの中で、淀殿の側近から且元さんが内通してるんやないか、という疑いがかけられてしまう。
長門守重成さんは何とかうまく調停しようとしたげど、激した秀頼さんの側近を止めることができずに、且元さんを襲撃することに。
そこで且元さん、300程の雑兵を率き連れ、弟の貞隆さんらと共に大坂城を玉造門より退去した。
且元さん弟貞隆さんのいる茨木城へ入り、京都所司代板倉勝重さんに援兵を要請した。
そう、この日1614年10月1日をもって徳川方から大坂方へのの宣戦布告の日となったのであります。
さて、且元さん、5月7日の大坂城の落城後、大野治長さんが秀頼さんや淀殿が大坂城の山里丸にいることを助命嘆願とともに且元さんに知らせてきた。
且元さんにしてみたらどんな気持ちであったか。
関ケ原以降、家康さんとの狭間で豊臣家を思って、且元さんなりの忠義を尽くしたのであったとは思うけれど、最後や自分を不忠者と罵り、殺そうとした連中から秀頼さんの助命嘆願されてもなあ〜、何をいまさらという思いやったのかしら。
賤ヶ岳の七本槍で大坂の陣の直前まで豊臣方の家臣としてお勤めを果たしていたのは、且元さんでけでありました。
片桐且元さん、豊臣氏滅亡の後、20日で病気により死去。
形として、豊臣家に殉じたのかもね。
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