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14日は洛北は詩仙堂を中心に史跡会、最初の会場は詩仙堂向かいの野仏庵、50人以上の参加者でしたが、ほとんどが初めて、かく言う私も初めて訪れました。詩仙堂の向かいといってもちょっと坂を上がるので誰も訪れないのでしょうね。パンフレットもなくホームページも作られないので・・ほんと隠れた穴場です。
野仏庵は南禅寺の湯豆腐で有名な順正の創業者上田堪庵の造った庵です。京都の最後の数寄者ではないかと言われています。昭和40年代に建てられたそうです。
母屋は伏見淀の庄屋を移築したもので、とってもしっかりした建物です。他の建造物も全てがあちこちからの移築です。
まず門は西園寺公望の隠れ住んだ丹波須知の門で茅葺き長屋門、石段を上がるといしずみの上にあぶなげに建っているのが陶庵席、これも公望公の茶席でした。
母屋には雨月席があります。これは雨月物語で有名な上田秋成の煎茶席、今は抹茶の茶道が主流ですが、かって江戸から明治にかけて煎茶道も文人墨客の間では流行ったそうです。ということで多くの茶室や庭園ももう少し煎茶の方から見た方がよいのではないかと尼崎博正京都造形大学教授や矢ヶ崎善太郎京都工芸繊維大学准教授(どちらも史迹と美術同攷会の会長・副会長)は考えておられます。
ここの茶室は窓が大きく、とっても明るいですね。その障子を開けると京都市内が一望に見渡せるのもとっても解放的で、薄暗い密閉された侘びさびの茶室とは異なりますね。客間にはここの主人上田堪庵と松永安左右衛門(電気王といわれた数寄者)合作の襖絵があります。
起伏のある庭園には200体あると言われる石仏が置かれていますが、ほとんどは民間信仰で造られた小石仏ですが、一点巨大な石仏が庵に安置されていました。皆の意見でどうも高句麗の石仏ではないだろうかということでした。
さて午後は円光寺、臨済宗南禅寺派のお寺ですが、元々家康が学問所として建てたものでしたが、明治維新前後は村山たか女が尼となって隠れ住んだお寺でお墓も残っています。
なお最後におとずれた金福寺もたか女のおてらでありました。
安政の大獄をおこなった井伊直弼は京都人には不人気一番の人でしたが、舟橋聖一の「花の生涯」の小説とNHKの大河ドラマで一躍有名になり、面目をほどこしました。最近は「ひこにゃん」の方が有名ですね。
村山たか女は愛人だとかスパイだとか言われましたが、最近「奸婦にあらず 」(諸田 玲子)という彼女を主人公にした小説も出ています。捕らえられて三条の河原で棒にくくられ晒し者になっているところを、救出されるなんて、映画に出来そうな波瀾万丈の生涯だったのですね。
円光寺は戦後荒れ果てて、屋根漏りもひどく、畳は水を含んでぶよぶよ・・なんて状態でしたが、南禅寺から出向した今の住職が立派なお寺に復興されました。
早朝の座禅会もあり、座禅会が終われば、お粥がでて、お菓子もでるとか・・・ちょっと行きたくなりません?
金福寺は円光寺と同じ南禅寺に属するお寺ですが、芭蕉と蕪村で有名なお寺でもあります。かって何十年前ここには拓本を採りに来て蕪村百池の碑を採拓、京都新聞にその姿・・・ビジュアル的に女性の方がいいだろうなんていうことで、我がスタッフが代役・・・がでました。(私はくろこ)
そのなかで別に採った小さな僧の石像拓本はかって個展で紹介しましたが今もひっそり佇んでおられました。拓本採りに団体で来るようになったので今は境内採拓できないそうです。ここで読まれた
蕪村の一句「菜の花や月は東に日は西に」。
高浜虚子の一句「ゆく春や京を一目の墓どころ」。
京兎の一句「春まだき 寒さに震えて 墓を見る」(おそまつ・寺猫手水で水を飲む)。
さてもっとも有名な詩仙堂、これも数十年前我が家にここの方がこられて、版木から採られた素晴らしい拓本をいただいたことがあります。
庭園に「ししおどし」を使った最初の場所でもありますが、この見学会の当番幹事の有名な造園業の主人の一言、ここのさつき、このままだと数年先には座って庭が見えないほど大きくなってしまうでしょうとのこと。直すには今の植え込みを変えねばならず、いまを取るか将来を取るか・・・難しい選択ですね。
朝は天候が良かったのですが、午後は雲が出て温度が下がり、北のこのあたりはことに冷え込んでさむーい・・・参加者から兎印の桐灰カイロをいただきちょっと暖まりながら京の会は終わりました。
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