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――― 被災された地域の皆様に心よりお見舞い申しあげます。
3分ほどのシンプルな歌ですが、みんなの笑顔が彩ってくれています。
■本作品の著作一切は「♪あっぱれレーベル」に帰属します。無断転載等は硬くお断りします。
もう一度みんなが心から笑える日々を送れるように ・ ・ ・
いつか 日本中に「笑顔の輪」が広がりますように ・ ・ ・
「キボウノハナ」に囲まれながら
祈っています ・ ・ ・ ■本記事を転載してくださる方へ
誠に勝手ながら必ずご一読願います。→ http://blogs.yahoo.co.jp/kairakutei_yukimaro/25407555.html
同意いただけた方にのみ 本記事の転載をお願いしております。
★「笑顔」は引き続き募集しております。
素敵な笑顔をお待ちしてます♪(∂∀<*)v
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3.11東日本大震災関係
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昔の「漁師の産直」からの支援。(自画自賛記事かな?)
僕は以前、「漁師の産直」をやっていた時があります。 それは、ウィンドウズ95が出た頃から5年ぐらいかなあ。 屋号は「まるきん」。鮮度抜群の魚介類が商品。(その日のモノをその日に送る) 何回もリピートしてくれたお客さん多くいましたよ。 まあ、結局は漁協から、5%の手数料口銭がはいらないからやめろと理事会で問題にされて・・。 迷った末に、漁師一本を決めてやめたのですが・・。 漁協には内緒で、そのころを覚えていてくれて・・。「ああ、あの新鮮な魚が食べたい。」 と何度も手紙をいただき、たまに鮮魚を発送していたのです。 そのころ、あるお客さの中に、「日本アムウェイ」http://www.amway.co.jp/ をされている方がいました。 F/Kさんと言う東京の女性の人です。 4月2日に突然、電話がありました。もう、何年振りでしょうか・・?10年以上も前のこと・。 非常にアクテイブな人で、全国を駆け巡って、今もアムウェイビジネスを元気にやられてる方です。 ひょんなところから、F/Kさんが「あの、三陸の山と土を好きな漁師さん。大丈夫なのかなあ・・・」って思って下さり、 「何か応援して欲しいことはない・・?」っていう電話がありました。 外のメンバーの方の中にも、同じように「まるきん」覚えていてくださってる方々がいたようです。 早速、避難所に行って、何が欲しいのか聞いて回りました。 男女とも「下着、服(春夏もの)、靴、サンダル、靴下」が圧倒的多かったのでその旨を伝えました。 その、F/Kさん。なんと全国に大きなネットワークを持っていて、「田野畑村へ支援物資を・・。」と呼びかけてくださったのです。やはり、みなさん自分が少しでも知ってるところに贈りたいという事で・。そこから芋づるのように広がったのです。 ↓↓応援の手紙とその伝票。これはごく一部です。 さあ、そしたら、3日後あたりから、毎日毎日、避難所に要望した物資が毎日のように届けられています。そして、その友達の友達までも広がって・・。 これまで、300件を超える大きなダンボール箱の支援物資が・。 はじめは、役場の受付係も喜んでいましたが・・。もう保管場所がないから、断って欲しいといわれました。 ↓↓3つの体育館のひとつ、今はこれよりも多く積み上げられています。 しかし、その支援の輪は、一人歩きしてるのです。 彼女の知らない人まで広まっているので、止めようが有りません。 僕は「いやいや、仮設に入れば必要になるのだから・・。」と言っています。実際そうだと思うのです。 今は、団体で狭いところにいるから、多いと思っても分散して生活をするようになるはずです。 もちろん、ブログを見たり、転載された記事を見たりした方々の物資、義援金も凄い金額に・・。 元役場の同僚が驚いて、「君はなんでこんなに全国に知人がいるんだ・・?すごいなあ 」て言われました。 この顛末を話したら、なんとなく納得。 元同僚は「君のブログは以前から田野畑村のPR をしてくれてる。って聞いてはいたが・・。インターネットの力は凄いもんだ」と言っていました。 この同僚は勘違いしています。 「インターネットの力は凄い」ものなのか確かです。 しかし、それをどう使い、実効性のモノにするかなのですけどねー。 なんか、自画自賛のような記事で恐縮です。 でも、送ってくださった方々もこのブログを観ていてくださっています。 この場を借りて、お礼を言わせていただきます。 ニーズにあった、物資応援ありがとうございました。 手紙も全部拝見しています。避難所に貼りつけています。 「励ましの言葉と支援物資」 本当に、ありがとうございます。
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東日本大震災〜大規模「磯焼け」の恐れ。三陸沿岸ーあの瓦礫と泥砂では・・・。
恐れていたが、やっぱりか? 毎日新聞 4月26日(火)2時30分配信 アワビやウニの好漁場だった三陸沿岸の海中で、海藻が枯れて荒れ果てる「磯焼け」が大規模に発生する恐れがあることが、岩手県の調査でわかった。津波で押し流された大量のがれきや土砂が日光を遮り、海藻を枯らすのが原因。三陸の浜には「津波の後5年は、海からアワビやウニが消える」という言い伝えがあり、専門家は「漁場の復旧に5〜10年かかる」とみている。【奥山はるな】 【漁業に深刻な被害】東日本大震災:ノリ・カキ養殖打撃 昨年も津波、復興中に 「相当ひどい」。22日、大船渡湾の被害状況を調べた岩手県水産技術センターの後藤友明・主任専門研究員は船上でうなった。 家屋が波間に浮き沈みし、転覆船などから流れ出た重油が漂う。 漁協が数億円かけて設置した定置網に養殖いかだが絡まり、くしゃくしゃになって流されていた。 魚群探知機で海中を調べると、がれきとみられる多数の物体が海底に転がっているのを発見。障害物が多すぎて大船渡港への停泊を断念し、状況をカメラに収めて引き揚げた。 岩手県は4月に入り、釜石湾、唐丹湾、越喜来湾でも調査。陸上の被害が大きいほど、海中のがれきも多くなる傾向があったという。 後藤研究員は「今後、湾の各地にがれきが沈み、点々と磯焼けが発生する可能性が高い。 海流で運良くがれきが流されても、一度枯れた海藻の回復は数年かかる」と話す。 津波による海底環境の変化に詳しい東北学院大の河野幸夫教授も「生物や海藻が津波で大量に流れ込んだ砂やがれきに埋まっている」とみる。 河野教授は宮城県石巻市雄勝町大浜でも、もともと海底にすむカレイが点々と打ち上げられているのを発見。「海底に生息するアワビやウニなどにも被害が出ている」と推測する。04年のスマトラ沖地震で津波被害を受けたインド・チェンナイ海岸でも、岸から200メートルの範囲に砂がたまり、貝類が死滅していたという。「海藻も同様で、三陸沿岸でも磯焼けが拡大するだろう」とみる。 ◇「漁場復旧に5〜10年」 政府は22日に閣議決定した第1次補正予算案に、津波によるがれき処理費用3519億円を盛り込んだが、作業開始は5月以降の見込み。 秋までにがれきが撤去され、人工培養した種苗を放ったとしても、昆布の成長には1〜2年、アワビの成長には5〜7年必要という。河野教授は「漁場の復旧には5年から10年かかる」とみている。 また、種苗の人工培養も危機に瀕(ひん)している。岩手県栽培漁業協会では昨年度、人工ふ化したアワビ稚貝234万個、ウニ幼生241万個を放流したが、沿岸のふ化施設は津波で壊滅。再開のめどは立たないという。 【関連記事】 【東日本大震災 3月11日を写真で振り返る】 【動画】海辺の町は 震災から1カ月余の陸前高田市 <漁業に深刻な被害>「北限の海女」の拠点施設も痛手−−岩手・久慈の小袖海岸 【日はまた上る】写真特集・被災地の朝 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110426-00000004-maip-soci ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー もしかして、「磯焼け」が・・・。出るのでは・・?と思っていたが・。 やっぱりか・・・・。 これで、海は死ぬ。 決定的な打撃だ・・。回復には時間が必要なために深刻だ。 ↓↓港の中でも、コンクリートの瓦礫の上にこのような泥が・・。 流れが速いところでこれだから・・。深くなると・。 いつも、海の色が、凪ぎても、透明度がなく、少しのシケで、かなり黄色い潮となっていた。 海底の地形も変わり、岩に泥や瓦礫を想像しただけで、海底の根(岩)が、瓦礫や泥、砂に覆われていると思っていた。 このように濁った海水では、海底への日光の当たりが阻害され、しかも根(岩)に泥や砂がかぶった状態では、海藻などの種もつかない・・。 大規模な磯焼けにならないことを願っていたが・・・・・。 魚群探知機で映るような瓦礫では、相当なモノだと思う。 2周波数の魚探で見れば、岩にどの位の泥や砂が積もってるのいるのかも分かるのだが。 磯焼けとは・・。 浅海域に生えているコンブやワカメ、その他多くの種類の海藻が減少し、サンゴモ(石灰藻)と呼ばれる、うすいピンク色をした硬い殻のような海藻が、海底の岩の表面を覆いつくした状態を「磯焼け」と言う。日本及び世界の沿岸域では古くから知られている現象だが、漁業などに大きな影響を与えるため問題となっている。 これまでも、大雨で洪水などで陸から土や泥が流れ込んだり、ウニの大繁殖(ウニは雑食で、何でも食べる。そのため海藻の小さいものまで食べ尽くしてしまう)で磯焼けが起きたことががある。 ウニを組合員で、有害駆除してようやく回復した漁場があるが、莫大な労働力が必要だった。 ↓↓このような磯は戻ってこないのか・・・・。 一旦、磯焼けとなると、回復するには、最低でも5年〜10年以上はかかる。 しかも温暖化で海の水温の上昇もあり、津波前でも危ないなあ、と思っている漁場があった。 今回は、それが津波。おそらく瓦礫や泥、砂が岩礁の上に上がり、海底地形も変化してると考えられる。 昔、親父から聴いた話だが・。「昭和8年の津波の後、どこの漁場も「磯焼け」が出て、ワカメもコンブの出てこない・。魚もアワビも、ウニも全く居なくなった。津波とは恐ろしいものだ。10年ぐらい浜が全くダメで、しばらく浜に出られなかった。でも、その頃は、炭焼きが金になった。炭焼きで生計を立てたものだ・・。」と・・。 ↓↓このような、アワビ漁も出来なくなるかもしれない・・。 この前、沖合トロール(底曳き網)が、深さ、200m〜300mあたりで操業した 海底200mというとかなりの沖だが・・。その操業で冷蔵庫、布団など瓦礫などが、いっぱいかかって来たようだ。 そんな沖合まで、ゴミが入ってるとははおどろきました。 例えば、ウチの港で400隻ぐらいあった舟が、ほとんど沖で沈んでることを考えると、 それよりも浅い、アワビ、ホヤ、ウニなどがいる浅いところでは、膨大な瓦礫があると予想できる。 磯焼けが起きれば・・・。 漁師継続は、さらに大変なことだと思う。
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東日本大震災 「顔が水より冷たく…」 被災児童が日記毎日新聞 4月25日(月)10時51分配信↓↓全国から寄せられた激励メッセージへの返事を書く箱石佑太君(左手前) =岩手県山田町の町立大沢小で2011年4月4日、篠口純子撮影 「お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました」。
巨大地震と大津波が東日本を襲ったあの日、子供たちは何を見、その後をどう生きたのか。岩手県山田町の町立大沢小学校を3月に卒業した箱石佑太君(12)が毎日小学生新聞に寄せた体験日記には震災と向き合う姿が率直につづられていた。
【被災地で尋ねました】いま、あなたの宝物は何ですか? ◇3月11日 卒業式の歌の練習をしていました。とてもゆれの大きい地震が来ました。最初は単なる地震だと思っていました。大津波警報が出ても、どうせこないと思っていました。来たとしても10センチメートル程度の津波だと思っていました。全然違いました。ぼくが見たのは、国道45号線を水とがれきが流れているところです。お母さんとお父さんが津波が来る前に大沢小に来ているところは見ました。だけどその後、お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。お父さんのことが不安でした。車を運転しながら津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました。 ◇3月18日 津波から1週間。お母さんは、もうこんなに日がたっているのに、まだお父さんが見えないとあきらめていました。じいやんは泣いて「家も頑張って建てるし、おまえたちだってしっかり学校にいかせられるように頑張るから、お父さんがもしだめだとしても頑張るからな」と言っていました。 ◇3月23日 卒業式でした。「ありがとう」の歌を歌っている時、お父さんに「お父さん、お父さんのおかげで卒業できたよ。ありがとう」と頭の中で言いました。そしたらなぜか、声がふるえて涙が少し出てきました。その夜、こんな夢を見ました。お母さんとお父さんが宮古のスーパーマーケットから帰ってきた夢でした。 ◇3月25日 親せきの人の携帯に電話がかかってきました。内容は、お父さんらしき人が消防署の方で見つかったということでした。急いで行ってみると、口を開けて横たわっていたお父さんの姿でした。ねえちゃんは泣き叫び、お母さんは声も出ず、弟は親せきの人にくっついていました。顔をさわってみると、水より冷たくなっていました。 ぼくは「何でもどったんだよ」と何度も何度も頭の中で言いました。「おれがくよくよしてどうすんだ」と自分に言いました。でも、言えば言うほど目がうるんでくるばかりです。お父さんの身に付けていたチタン、東京で買った足のお守りや結婚指輪、携帯。そして驚いたのが時計が動いていたことです。お父さんの息が絶えた時も、津波に飲み込まれている時も、ずっと。お父さんの時計は今はぼくのものになっている。ぼくがその時計をなくしたりすることは一生ないだろう。 ◇3月26〜27日 見つかった時のお父さんの顔。まだ頭のどこかで見なきゃよかったと。でも見つかったおかげで火葬もできるし、お父さんをさわることができた。お父さんの体は水を飲んだのか胸がふくらんでいるだけだ。やっぱり見つかってよかった。 ◇3月28日 きょうは火葬の日。ぼくとねえちゃんとお母さんとけいじろうは、手紙を書いて、お父さんと一緒に入れてやりました。拝んでいる時ぼくは「箱石家は頑張って継ぐからまかせて」と言いました。お墓に骨を埋めるまで、ぼくに骨を持たせてくれました。骨をうめてホッとしました。 ◇4月7日 きょうは、ありがたいと心から言える日でした。お父さんとぼくたちの記事を見て、お父さんが東京マラソンを走った時の写真とお手紙を新聞の人が持ってきてくれました。ぼくたち家族に贈る言葉や、さらにはぼくに贈る言葉の手紙もありました。やっぱりお父さんはすごい。今日は本当にありがたい日だ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 箱石君は25日、155人の仲間と一緒に町立山田中学校に入学した。日記は、大沢小の子供たちが復興に立ち向かう様子を紹介する「大沢からの報告」として毎日小学生新聞に11日に掲載。「何回も読み、涙が止まりません。皆様が少しずつでも前に進める日がくることを願っております」(2人の子を持つ東京都北区の女性)とのメールが届くなど大きな反響を呼んだ。「大沢からの報告」は同紙で随時掲載され、次回は5月11日の予定。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110425-00000018-maip-soci ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 泣けてきますねーー。 そなんです。今回の津浪は第一波よりも2〜3波の方が高いために・・。 一旦、避難しても・・。 このような、ケースで戻り、津波に飲み込まれたケースが多いのです。 田野畑村でも、このようなケースでなくなった人が多くいます。 山田大沢地区は、ほとんど壊滅的です。牡蠣、ホタテ漁師が多い街。 高台の数件が残っただけで、ほとんど街が消滅した・・家も作業場も舟も・・。失い・。 そして・・。 家族までも・・。言葉も出てきません。 ↓↓これは、友人の安否を確認して行ったとき(3.22〜2.23)の山田町の画像です 今は、だいぶ瓦礫は取り除かれているとは思いますが・・。 今、山田町はどんな感じになってるのでしょうか・・? webから見つけた、山田町の画像です。↓↓ この、男の子の場合、お母さんは生きていますが・・・・・・。 今回の東日本大震災での、両親を亡くした遺児数は317人にのぼります・・。 とても、心がいたみますねーー。 このような、日記。 俺のブログの記事なんかよりも、ずっと、人に訴える力があります。 ※「東日本大地震 震災孤児遺児」で検索してみてください。 いろいろな、団体が支援をしています。 誰でもできることがあるとおもいます。どうか、そちらの応援もよろしくお願いいたします。
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被災者とその地。俺と田野畑村を心配して・・・。
昨日の週末は、家にいろいろな人が訪れてくれました。 ありがたし・・。 皆、この惨状を見て「唖然」としていきました。 1,早稲田大学(思惟の森の会)昔のOBです。現役の学生を6人ぐらい連れて・。そのOBとは、25年振りでしたが・。どっちもやはり同じように歳をかさねたなあ・。って感じです。ボランティア活動の相談でした。連休に本隊の学生がきます。 ↓↓早稲田大学「思惟の森の会」記念にパチリ・・。 2,滝沢にいる、高校からの親友夫婦。沢山の米とお菓子を持ってきてくれました。親友です。 3,田野畑村出身で首都圏で暮らしてる「たのはた会」というのがあり、ブログをいつも見てくださってる役員のかたがた。義援金とは別に今、何が必要なのか・・?の相談に・。 4,盛岡工業のラガーマンのOB会の面々。8年ぶりで、しばらくご無沙汰していましたが・。やはり、何かできないかと・・。みんな仕事を持ってるから義援金でお願いしました。こちらも同じように歳をかさねたなあ・。って感じです。 5.日体大の「田野畑体験学習の先発建設隊のOB」↑と同じような相談。やはり、同じように年をかさねたなあ・。って感じです。 家の茶の間もこんなにいっぱい人が来るのは初めて・。 タロウ♪もみんなに可愛がられて・。いました・・・。 タロウは・・・??って感じ。 一方、電話では・・・。 1,前に時期にアップした、体験学習の時の東京で教師をされてる方、と卒業生です。義援金をどこに向けたら有効なのか・・?僕は、教育にということで・。あちらも納得。それと、タオル2000枚。を持ってきてくれるそうです。 2.高校の同じクラスの友達。2人が「いきてるか〜〜?」って心配の電話。 直接届けていただくことに・。あの頃の中学生も、35歳の立派な社会人に・。なってるだだろうなあ・・。 と・・。 昨日の週末は・・。 いやー、忙しかったけど、嬉しいかったですねー。
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