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広島発!GAPLANT日記♪
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つづきです。


本当の西郷隆盛終焉の地が判明(勝手に)したので次は薩軍兵士の

墓が集められている南洲墓地へ行きます。もちろん歩いて。スマホ

のグーグルマップを頼りに雨の中歩いていると長い階段を発見、コ

コだと思い、登って行きます。すると・・・

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ありました!すぐ横には看板が!

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拡大します。

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県外出身者もいたんですねぇ。戊辰戦争時、敵だった庄内藩士まで

ね。

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では近付いてみましょう。

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西郷隆盛の墓。首と胴体に分かれていますがどういう風に埋葬され

ているんでしょうねぇ。

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人斬り半次郎、桐野利秋の墓。陸軍少将までいった人物で明治5年

にはあの熊本鎮台の長官になってますね。隆盛が征韓論に敗れて下

野した時に辞表を出し鹿児島に帰っています。西南戦争時は第4大

隊指揮長となり、かつて自分が長官をしていた熊本鎮台を攻撃した

りしています。各地を転戦したのち、故郷鹿児島の城山で隆盛の死

を見届けた後は岩崎口の塁に籠って奮戦していたが額を撃ち抜かれ

死亡しています。


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写真右、村田新八の墓勝海舟曰く、大久保利通に次ぐ人物と評さ

れたほどの男で大久保利通は隆盛が下野しても村田がいれば大丈夫

と考えていたようで帰郷報告を聞いた時、利通は呆然としたみたい

ですな。西南戦争時はシルクハットハーフコートという格好で

戦ったようでその他、アコーディオン若しくはコンサーティーナ

携え常に持ち歩いていたようです。欧米視察にも行った事もある教

養人だったみたいですね。隆盛の自決を見届けた村田桐野ととも

に岩崎口の塁に籠って戦い、最後は自決したようです。



写真左、篠原国幹の墓。陸軍少将、近衛長官。明治天皇からその軍

事指揮能力を高く評価されてたようで篠原を見習うようにというこ

とでその演習地を習志野という地名が出来たという説があるくら

い。隆盛が下野した時、明治天皇の引き留めの令も聞かず帰郷し

た。西南戦争時は1番大隊指揮長になっていて田原坂の戦いで外套

を着て銀装刀を揮って陣頭指揮しているところを狙撃され戦死して

いる。要するに目立っていたところを狙撃されたようです。




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別府晋介の墓。桐野利秋とは従弟。陸軍少佐。隆盛が下野すると同

じく鹿児島に帰郷。西南戦争時、独立大隊(のちに6番大隊、7番

大隊と呼ばれる)を指揮した。熊本鎮台兵と最初に交戦したのもこ

の隊で西南戦争は始まったとされているそうです。萩原提の戦いで

足を負傷し城山攻防戦では駕籠に乗っていたようで隆盛が銃弾を受

け歩けなくなると後ろにいた別府を呼び介錯を頼んだという。介錯

後は自らも自刃



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隆盛の墓から鹿児島市内を見るが雨で何にも見えませんでした。

桜島も見えたのかな?


薩軍が全滅した後、時の鹿児島県令が政府軍の許可を得て市内5ヶ

所に仮埋葬しています。ここ、南洲墓地には隆盛以下40名が葬ら

れていましたが明治12年224名の遺骨が、明治16年には鹿児

島県外で戦死した薩軍の遺骨も集められ計2023名が葬られまし

た。


感慨深かったです。お参りを済ませた後は隣の南洲顕彰館でお勉強

してから巡回バスに乗って(顕彰館前にバス停あり)仙厳園経由

(降りませんでした)鹿児島中央駅に戻りました。

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南洲顕彰館は南洲墓地の隣



さあ、鹿児島から宮崎県に行きましょうか。

                           つづく

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