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立命館大教授の加地伸行氏が【古典個展】という標題のエッセイを連載している。氏は中国哲学とくに儒教研究でそれなりに名の通った学者さんであるが、専門分野以外でも単純明快な蛮勇発言で知られている(そうだ)。3月29日の【古典個展】は“教員は幼稚園に学べ”というテーマであった。以下は、加地氏と私(うしどし)の架空の会話である。
加地: 幼稚園児の孫の卒園式に出席した。ジジ馬鹿丸出しである。
うしどし: 別に馬鹿なことではない。
加地: 式典が進行し、ハイライトの在園児送辞、卒園児答辞となる。もういけません。眼頭が熱くなってきました。そして終盤に、園児全員の斉唱がはじまった。スクリーンにさまざまな情景が次々と映るなか、「思い出のアルバム」の歌声が流れる。
うしどし: 年をとると涙もろくなるものだ。私も、テレビのドラマでよく涙ぐむようになった。
加地: この唱歌、私は大好きである。「いつのことだか、思いだしてごらん。あんなこと、こんなこと、あったでしょう」にはじまり、「春のことです…夏のことです…」と歌い継ぎ、最後に心を揺さぶる名句が現れる。「もうすぐ、みんなは1年生」−涙があふれた。彼らの希望に輝く門出を祝わずにおれようか。幼稚園には教育の原点がある。いや、人生の原点があると言っていい。この子たちは、これから人生を自分の力で切り開いてゆくことになるが、それを大きく受け止めて協力するのが、われわれ大人の役目である。
うしどし: 幼稚園に人間の原点があるなんて大げさなことを言わないで、可愛い幼稚園児の幸福を黙って願ってあげればいい。大人は時として彼らを見守り、時として彼らの前に立ちふさがるだけだ。
加地: 全国の新小学校1年生の中から、天下の大秀才が、他者の幸福のために生きる逸材が、高い志を抱いた教養人が登場することであろう。頼もしいかぎりである。
うしどし: そうかもしれないし、そうでないかもしれない。彼らの中から天下の大悪人や箸にも棒にも掛からないろくでなしも、また出現するだろう。
加地: それに比べて、教員にはお粗末なのがいる。例えば大阪の門真市立第三中学校の教員ども。昨年の同校卒業式において、国旗に対して起立表敬をせず、国歌も唱和しなかった。理由は自分の良心に反するからだと。彼らの扇動があったのだろう。生徒も起立しなかった。1人をのぞいて。
うしどし: 一人を除いて生徒の誰もが国旗に対して起立をしなかったということのほうが驚きである。この中学校の生徒はそれほど先生の言うことに従順だったとは…。
加地: 彼らの愚劣な行為の中で、たった1人で起立した生徒はお美事(みごと)。
うしどし: 一人で起立した生徒は勇気があると思う。だが、起立しなかった生徒たちは果たして愚劣なのかな? 先生の指導に従った素直ないい子かもしれないぞ。
加地: そして今年、なんと教員も生徒も全員が起立したと伝えられている。おかしいではないか。去年、起立しなかった教員は処分を受けたとのことであるが、それが怖くて今年は起立したのか。己の良心に反するから起立しなかったと言うのであるのならば、今年も起立すべきではない。
うしどし: ちっともおかしくない。彼らは卒業式の会場にいなかったと思う。処分を受けた非起立の教員たちは転勤させられたかもしれないし、通常は同じ教師が連続して3年生の担任をすることなどまずあり得ない。3年の担任でないならば、会場警備や保護者の案内その他の業務が割り当てられ、卒業式に出席している可能性は少ない。
加地: なぜなら、良心は法律よりも上だからである。たとい処分を何度受けようとも、信念を持って良心に従って生きるべきである。ところが処分が怖くて起立したと言うのならば、その良心など口先だけの吹けば飛ぶような代物である。
うしどし: 良心は法律よりも上だというのなら、良心を法律で規制することは間違っていることになる。加地氏はまず非起立の教員を処分した教育委員会を批判すべきだ。私は国旗に対して非起立を指導した教師の行為を擁護しない。国旗に対して起立するかしないかが良心の問題であるというのなら、生徒に非起立を指導するのはおかしい。国旗に対して起立するかどうかは、良心の問題なのかそれともマナーの問題なのかは意見が分かれるところだろうが、いずれにせよ、良心の領域を法で規制することには賛成できない。ましてや、国歌の唱和を強制することはなおさらである。あなたは気まま勝手に振舞って今までやってこれた偉い学者だから“処分を何度受けようとも、信念を持って良心に従って生きるべきである”と簡単に言うが、ただの公務員にとって処分は怖いものだよ。
加地: 大学の教員にもおかしなのがいる。例えば浅井基文なる者が毎日新聞3月10日付「新聞時評」にこう書いている。「特に毎日、朝日は、他の全国紙に比べ公正性、中立性が高いとみられている」と。思わず嗤(わら)ってしまった。毎日、朝日といえば、左翼的であることは周知の事実。それを「公正性、中立性が高い」とは、見識のかけらもない。こういうのをチンドン屋と言う。
うしどし: 思想の視座というか視点によって、何が公正で中立かは異なってくると思う。朝日が左翼的だと思うのはあなたの視点がかなり右翼的だからかもしれないし、別の人は朝日はぬるま湯的中立に思えるかもしれない。公正性や中立性という言葉を持ち出すこと自体、ある種の偏りがあるともいえるのではないか。それから蛇足だが、笑うべき対象を「チンドン屋」と表現するのは感心しないな。
加地: 学校の種類を問わず、この種(て)の教員はいくらでもいる。教員として劣化しているわけである。彼らは教育を職業とする以上、研修させる必要がある。では、何を研修させればよいかといえば、教育のこころ、教育の原点であろう。人の子を教えるのなら、人間や社会や世界をまともに見ることができるように研修させねばなるまい。その研修の場としては幼稚園が最善。そこには教育のこころや原点すなわち教育の根本がある。『論語』学而(がくじ)篇に曰(いわ)く「本(もと)立(た)ちて道(みち)生(しょう)ず」と。
うしどし: 研修で「こころ」が身につくのかね。孔子が嗤っているぞ。最後に加地氏に言っておこう。釈迦に説法だろうが、思想・良心の問題のことだ。道徳は強制であり、倫理(良心)は自由である。道徳は他律であり、倫理は自律である。国旗に対して起立をし、国家を唱和することが良心の問題だというのなら、いかなる人間・組織も起立・非起立、唱和・非唱和を強制してはならないと思う。それらは単に道徳(マナー)の問題というのなら話が別であるが…。
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なんで、産経言論人は、こう議論が大雑把なんですかね。おっしゃるように、良心は法律を超越するというなら、良心を法律で強制的に縛るのはおかしい、という理屈に当然なりますね。思いっきり自己矛盾してます。政治家もこの程度のが、ウヨウヨ(←別に他意はなく、単なる擬音語です)湧いて出て、愈々本物の落日も間近なようです。ところで、6月に、とある学会で発表しますが、呉智英論に対抗する内容とも言えまして、彼は理事の一人だから、ひょっとするとイチャモンつけに現われるかもしれません(^_^)。ま、ちょっと楽しみにしています。
2009/4/8(水) 午前 0:34
NANAMIさんへ…私は国旗に対してとくにこぶしを振り上げたりしません。むしろ礼儀を尽くす方だと思います。でも、国旗に対して敬意を払うのも、払わないのも個人の自由だと思います。良心の分野に法的規範がしゃしゃり出てくることには反対です。蛇足ですが、思想・良心の自由はそれを表現できなければ意味がないと思います。国旗に対して起立するのも、国歌を歌うのも、それらを拒否するのも個人の自由なはずです。
6月の学会、ご健闘をお祈りします。
2009/4/8(水) 午後 5:53
NANAMIさんの学会での発表というのに、関心がありま〜す!
私は、幼稚園から高校まで、国歌を歌った経験がありまへん。小学校の音楽の時間に、担任の先生に「”君が代”を教えて下さい。」と直談判しましたが・・・「おしえられませんっ!」と逆ギレされましたw。その後ずっとなぜなのか、考えさせられました。親切でないことが、もっとも親切であることもあるものだ、と、大人になってから思いました。(「君が代」・・・別に、相撲を見てれば嫌でも覚えるので、あえて学校で教えずともよいと今は思います。がんばれ!朝青龍!)
ちなみに、高校では校歌さえなく、かわりに「六甲おろし」を校歌と称して歌っていました(校長と一部の生徒の間だけでですがw)。
ちなみに、うちの小学校の校歌は、作者が「六甲おろし」の作者と同じです・・・これ、何よりの自慢っ!
2009/4/13(月) 午後 7:07
marieさんへ…校歌のない高校とは、いい学校ですね。校長と一部の生徒が「六甲おろし」を校歌として歌うなんて、ますますいい学校だと確信しました。
2009/4/16(木) 午後 6:09
私は、国歌の否定誘導という逆強制に反対します!
2009/10/27(火) 午後 11:07 [ IB ]
IBさんへ…コメントありがとうございます。国歌を歌う歌わないは個人の自由だと思います。いずれの立場をとろうとも、強制(誘導と強制はちょっと違うと思いますが)はよくないことじゃないでしょうか?
2009/10/29(木) 午前 2:42
では、「きみがよ」を尊うように「教育」することは君も逆らわないのだな!?
それでも私は国歌を否定する教育を「逆強制」と看做し、絶対反対…もとい、最大に軽蔑する
2009/10/29(木) 午前 11:55 [ IB ]
IBさんへ…何かカン違いしていません? わたしは国歌に反対しているわけではないですよ。歌うこと(むろん歌わないことも)を強制することに反対しているのです。
2009/10/31(土) 午前 2:36
勘違いは貴君の方。単に「強制」という概念が理解できずに迷っているだけ。結果として、自分を見失って国歌を含めた全てに反対しているわけですよ
2009/10/31(土) 午前 4:49 [ IB ]
IBさんへ…困ったな。あなたの言う「強制」とはどういうことなのですか?まずあなたの考えている「強制」とやらを聞かせてほしいものですね。私は、ごく普通に解釈されている「相手のしたくないことを力(権力)を盾に、そうせざるを得ないように仕向けること」という意味でつかっています。私のブログやコメントをきちんと読んでいただけなかったのは残念ですが、ブログには誤解がつきものなので仕方ないですね。
2009/10/31(土) 午前 10:08
そうの程度の解釈で書いてあったから、迷っているだけだと申し上げたのです。例えば、加地君は単に無力で何も出来ず、何もしたくない様子
あなたこそご自身の力と為すべきこと(≒やりたい、やりたくない)を明瞭に示してください。
2009/11/1(日) 午後 8:52 [ IB ]
IBさんへ…私のどこが「迷っている」のですか? じゃあ、あなたは「強制」という言葉をどう解釈をしているのですか? ぜひIBさんの解釈とやらを示してもらいたいですね。
何度も同じことを繰返す気はないですが、よく私のブログを読んでください。
ところでIBさんは何歳ですか?加地さんを「君」と呼ぶからには、相当の年配と推察します。そうであれば、私はあなたに盾つく気はありませんよ。私はどのような方であっても年長者には口答えをしませんので。
2009/11/2(月) 午前 4:34
その「問いかけ」自体が、迷っている証拠。私が応えたところで、貴方はさらに迷う。そしてたった今も、貴方自身への強制を見つけた。
「中国哲学とくに儒教研究でそれなりに名の通った学者さん」を理由に無力と断定した。それに私は誰に対しても「口答え」などしない。唯自分の意見を述べるだけ。
2009/11/2(月) 午前 5:39 [ IB ]
IBさんへ…「誰に対しても『口答え』などしない」って…。もう十分しているじゃないですか(笑)。
言葉の解釈について意見を言うのなら、まずあなたがその言葉の意味をどのように把握しているのか伝えるべきだと思います。なんだかんだと口実をつけて結局わたしの問いには答えようとしない。それって、ずるくないですか?
2009/11/2(月) 午後 5:40
まず、「国歌の強制」そのものが被害妄想。そして屁理屈をこねて自分の嫌いなものを否定する態度が更に見苦しい、というのが私の答えです。
2009/11/3(火) 午後 3:26 [ IB ]
IBさんへ…度重なるコメント、ありがとうございます(これは本心ですよ)。たぶん人というのは自分の気に入らないことや考えは受け入れたくないのでしょうね。わたしはそのような偏頗な人間にならないように気をつけたいと思います。でも…、やはり納得できないことにはつい反発したくなってしまいます。
2009/11/6(金) 午後 2:39
こちらこそ感謝します。一連の議論を通じて、私の方も答えを見つけるに至りました
2009/11/6(金) 午後 7:48 [ IB ]
IBさんへ…見解の異なる人との対話も大切なことだと思います。
2009/11/10(火) 午後 8:18
うしどしさんは、とても、まっとうな人だと思います。
2009/11/11(水) 午後 0:03
marieさんへ…え〜!恥ずかしいです。わたしは、自分勝手だし、心は狭いし、邪悪だし、けっこうずるい人間じゃないかと思っていますよ。そりゃ、多少いいところもあるかもしれないでしょうが、総合すると100点満点の50点くらいじゃないでしょうか。
2009/11/11(水) 午後 8:21