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4月2日の産経新聞のコラム【断層】は、評論家の宮崎哲弥氏の“最高裁は「死刑の基準」を出し直せ”という記事を掲載していた。以下は、宮崎氏と私(うしどし)の架空の会話である。
宮崎: 3人で共謀して1人を殺害した事件の判決で、もし犯人全員に死刑判決が下されたら、これは不合理か?
うしどし: しばらく前に話題になった「闇サイト殺人事件」の判決を踏まえた問いかけだな。死刑制度の是非はともかくとして、わが国の刑法では殺した人数に関係なく人殺しを死刑に処することは合法的だ。不合理かと問われれば、必ずしも不合理ではないと答える。
宮崎: 被害者は1人なのに刑罰で3人の命が奪われることに、どうも納得ができないと考える向きは、命の価値の意味を再考すべきだ。
うしどし: 私は納得できるが、それとは関係なく命の価値の意味を考えてみたい。
宮崎: そのように算術的に足したり引いたり、天秤にかけて比較したりすることはできないのが、人の命の重みだからである。仮に、命の重みの算術を認めるのならば、100人を救うために10人が殺されることも是なり、としなければならないだろう。これは全体主義の発想に通じる。
うしどし: 確かに人の命を算術的に足したり引いたり、天秤にかけて比較することは道義的にはできないと思う。しかし私(たち)は、計量できない命の価値を数字で表し、比較している。極端な仮の話を持ち出されると困るが、100人を救うために10人を犠牲にすることも時としてあり得るのではないか。そう考えることが必ずしも全体主義の発想に通じるとは、私には思えない。
宮崎: 闇サイト殺人事件の一審判決について、朝日新聞社説は「1人を殺害した犯行について、2人を死刑、自首したもう1人を無期懲役にした厳しさ」を殊更に強調した(3月19日付朝刊)。この論説は命の算術の罠に陥りかかっている。死刑を適用すべきか否かを決めるのは命の重みではない。悪の重みである。単純に死者の数が問題なのではなく、悪の度合いがどれほどだったかが問題なのだ。
うしどし: 朝日新聞社説の筆者はおそらく死刑判決は軽々しく下すべきではない、あるいは死刑制度そのものに反対の意見を持っているのかもしれない。そのことの是非はともかくとして、宮崎氏は「悪の重み」こそが死刑判決の基準であると言いたいのであろうが、死者の数は「悪の重み」を表わしているのではないか。1人殺すより2人殺すほうが悪いに決まっているではないか。
宮崎: 然るに最高裁が示した死刑判決の基準のガイドライン、いわゆる「永山基準」に被害者の数が考慮すべき要素として挙げられていたため、まるで単純な1人殺では死刑が適用されないかのような、誤った「相場観」が広がった。
うしどし: ……。
宮崎: しかも最近の一審では、乳児2人を含む5人殺の事件(中津川一家殺人事件)で、無期懲役の判決が出ている。人数の問題としても混乱の極みである。裁判員制度の開始を目前に、この職業裁判官の揺らぎは何か。最高裁は一般の裁判員の動揺を防ぐためにも、死刑判断の基準を出し直すべきだ。
うしどし: 「永山基準」が広く採用されてきたことは私も知っているし、時として疑問に思うこともある。残虐な方法で人を殺しておいて、反省しているからとか自首したからといった理由で刑罰を軽減することは支持できない。しかし裁判は、「判例」に影響を受けるとはいえ、個々の事件の審理については(法律に則るという前提であるが)、担当の裁判官の裁量に任されている。たとえ最高裁といえども、事前に下級裁判所の判決に圧力をかけることは司法の独立を危うくするのではないか。もし最高裁が死刑の基準を考え直そうとするのならば、上告された具体的な事件に対して新しい見解の判決を出せばいい。たぶん宮崎氏はそのような趣旨で記事を書いたつもりだろうが、私のような読解力の足りない読者に誤解を与えやすい表現だと思う。
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