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この映画については、エンドロールを最後まで見た。
妙な予感がしたからだ。
ひょっとして、まだ続きがあるんじゃないか?
エンドロールが終わったら、本編が再開されて
そこで本当のラストシーンが描かれるんじゃないか?
そう思ったきっかけは、
あのクライマックスの場面だった。
殺された男が、死んだ体を動かして
敵の命を奪ったあの場面。
死んだ人間が動くんだったら
終わったはずの映画が再開したって不思議はない。
むしろ展開としてはその方が面白い。

一応この映画のラストシーンは、
殺された男との再会を待ちわびる女の場面になっている。
しかし、私たち観客の誰もが知るように、
彼女の願いは決して叶わない。
なぜなら男はもうすでに
死んでしまっているのだから。
残念ながら、それと同じことが
この映画についても言える。
映画の再開を待ちわびても、
その願いは決して叶わない。
なぜなら映画はもうすでに
終わってしまっているのだから。

妙な予感を当てにして
映画の再開を待ちわびるのは愚かなことだろうか。
男との再会を待ちわびる女が当てにしていたのは
男の言葉だった。
きっと会いに行くからと言ったあの言葉。
女にも、その言葉を当てにするのが
愚かしいとの自覚はあったのだろう。
それでもなお
当てにして待つことしかできぬ女の悲しさが、
あの一人泣きの涙となって現れたのだ。

男の方としても、
再会の約束を果たせなかった無念は大きいだろう。
決闘から生きて帰って
女に会いに行きたいと言う強い気持ちを抱いて
彼は死んだのに違いない。
そんな彼にとって、唯一の救いとなったのは、
子供が生まれたことだろうか。
男の帰りを待ちわびる女は、
その胸に赤ん坊を抱いていた。
男は死んでしまったけれど
その血はこの赤ん坊へと確実に受け継がれた。
殺された男の苦しみも、
これで少しは慰められたのではなかろうか。

この映画はそのような結末を迎える。
そしてそれは冒頭の場面ですでに予告されていた。
この映画は、人々が能を鑑賞する場面から始まる。
その人々の中には、後に殺されることになる男も
当然、含まれている。
彼が見ていた演目は『殺生石』だった。
人間に退治された化け狐の怨念が
石になってこの世に残り、近づく者の命を
ことごとく奪い取ってしまったと言う話。
空を飛ぶ鳥でさえも、
その石の上空に差し掛かると死んでしまう。

殺されてもなお他の者の命を奪おうとするなんて
この狐はまるであの男のようではないか。
決闘の果てに殺されて
「石」のように床にうずくまった男は
油断して「近づいて来た」敵の命を
「鳥刺し」と言う技で奪い取ったのだった。
彼はまるで人間版殺生石だ。

『殺生石』は、有難いお坊さんの念仏によって
狐が成仏するところで終わる。
『必死剣鳥刺し』にも、
果たしてそのようなラストはあったのだろうか。
男の苦しみが少しでも慰められて終わる場面。
そう考えていて思い出されるのは、
あの赤ん坊の姿だろう。
悲しげな母の胸に抱かれ、
「あぅ」とも「うぅ」ともつかぬ声をもらした
あの赤ん坊の声こそが、
非業の死をとげた男にとっての、
何よりも有難い念仏となったことだろう。
この映画の主人公は、
かつてロックバンドのヴォーカリストだった男。
彼が歌うことをやめてしまったのは、
聴覚障害のために、正確な音程で
声が出せなくなってしまったからだった。
生活費を稼ぐためにか、
仕方なく別の仕事を探してはみるものの、
カラオケを趣味にしている主婦たちを相手に
歌のレッスンをするような仕事は、
彼にとって耐え難いものだった。
音痴を治すには自分の声を
しっかりと聞きながら歌うことが一番と言うことで、
頭からバケツをかぶるように指示した彼は、
主婦たちの不評を買ってしまい、
講師失格だと言われる。

人生の坂道を転げ落ちるような
挫折に見舞われてしまった彼は、
一体どうやってこの状況を乗り切ればいいのか。
歌手として生きてきた彼にとって、
歌が歌えないと言う現実はあまりにも悲惨で、
それを正面から受け止めるための心の準備は
いつまでたってもできなかった。
そんな時に彼が出会ったのは、
かつて彼のファンだったと言う一人の女性だ。
彼女もまた彼と同じように
人生の挫折を味わった経験のある人だった。
結婚生活に失敗し、自殺まで考えたと言う彼女は、
とてもそうは見えない程に生き生きとしていた。
悲惨な現実に直面しても、それを受け入れ、
人生の挫折を乗り越えて
たくましく生きて行くためのヒントが
彼女の中にはあるかも知れない。
彼が彼女にひかれた理由は、
たぶんそういうことだったのだろう。

そんな彼女から、彼は面白い話を聞いた。
彼女がかつてバンジージャンプに挑んだ時のこと。
ジャンプ台から下を見下ろした彼女は、
足がすくんで動けなくなった。
心の準備を整えて、何とか飛び降りようとするが、
どうしても体が前に進まない。
そんなとき、不意に空から雪が降ってきた。
そのあまりの唐突さと美しさに心を奪われた彼女は、
ごく自然に足を踏み出し、
ジャンプに成功したのだった。
このエピソードが彼に対して
意味するものとは何だろう。
現実に直面しながら、それを受け入れられない彼は、
ジャンプ台に上りながら
足を踏み出せずにいるジャンパーに似ている。
彼が心の構えを解いて現実を受け入れるためには、
不意に降り出す雪のような、
何か彼の心を一瞬で奪ってしまうような出来事が
ぜひとも必要なのだろう。

そこで彼は旅をする。
雪を求めて、冬の北海道へ。
何とシンプルな発想だろう!
彼が旅先で出会ったのは、
少し風変わりな女性だった。
民宿の経営者ながら、
客に食べさせる肝心の料理が作れない
味音痴の女性。
歌手なのに肝心の歌が歌えない彼は、
そんな彼女に親近感を抱く。
彼女の料理は、彼が食べると
なぜかそれほどまずくも感じられなかった。
彼に料理をほめられると、
彼女はとてもうれしそうにした。
彼女にとって、彼は、
おいしいと言って料理を食べてくれる
唯一の男性(おいしいマン)なのだった。
そんな彼になら、
彼女も本音で話をすることができたし、
彼もまた、彼女に本心を打ち明けようとした。
耳の障害のことも彼女に告白したのだが、
彼がそのことを他人の前で口にしたのは、
それが初めてではなかったか。
このことは彼にとって非常に大きな意味を持つ。
彼もついに現実と向き合う覚悟を決めたのだ。
いよいよ彼のバンジージャンプが始まる。

彼は彼女に妙なお願いをした。
自分に向かって、
雪の玉を投げつけてくれと言うのだった。
そのための準備として、彼は頭からバケツをかぶる。
視界を奪われた彼は、飛んでくる雪の玉に対して
身構えることができない。
彼はまったくの無防備な状態で
雪の衝撃を受けることになるだろう。
しかしこれこそが彼の狙いなのだった。
不意に降り出した雪に心奪われたジャンパーが
体の構えを解き、まったくの無防備な状態で
ごく自然に足を前に踏み出した時のような状況を、
彼は自ら作り出すことに成功したのだ。
体の構えを解くことで、
彼は「ごく自然に」現実を
受け入れることができるだろう。
歌が歌えなくなってしまったと言う事実を、
ついに彼が正面から受け止める瞬間。
それは彼にとって切なすぎることに違いなく、
バケツをかぶりながら号泣してしまったのも
無理はない。

現実を受け入れ、挫折を乗り越えた彼は、
新しい一歩を踏み出すだろう。
幸いにも、彼の故郷には
彼の帰りを待ってくれている人がいた。
彼のファンだったと言うあの女性。
彼は、いまや彼の歌を好きだと言ってくれる
唯一の女性となった彼女と、
第二の人生をスタートさせることだろう。
その門出を確かに見届けて、
この映画は静かに終わるのだった。
物語の舞台は、1930年代のスペイン。
村の女たちが川岸に座り込んで
ジャブジャブ洗濯するような、
のんびりとした時代。
やがて巻き起こる戦争が、
そんな平穏な日々を打ち壊すことなど、
まだ誰も知らない。

その日、村は祭りで盛り上がっていた。
村人たちは飲めや歌えの大騒ぎ。
しかし、突如として降り出した雨が
祭りの喧騒をかき消してしまう。
雨はやがて雷雨になり、
浮かれ騒いでいた村人たちを
一瞬にして現実に引き戻すだろう。
これこそ、彼らの平穏な暮らしに
突如として降りかかる
戦争と言う名の雷雨の予兆なのだった。

その祭りの舞台では、
村人たちが実に奇妙な格好をしていた。
豚の鼻やロバの耳のおもちゃなどを
身に付けて動物に変装していたのだ。
一方で、祭りの場に連れて来られた
ペット兼家畜の動物たちは、
帽子をかぶせられたり
エプロンを付けさせられたりして、
まるで人間のような格好をさせられていた。
どうやら人間と動物の交感が
この祭りの命題らしい。
しかし、どんな格好をしようとも
人間は動物になれないし、
動物は人間になれない。
両者の間には、
決して乗り越えられない壁があるのだ。
人間にあって動物にないもの、
それを仮に「理性」と呼ぶなら、
この理性を失った時にこそ
人間は真に動物同然になると言えるだろう。
戦争とは、人間が動物のように
なってしまった時のことを
言うのかも知れない。

理性を失った人間が
いかに獣じみて見えるかについては、
この映画を見ていれば良くわかる。
例えば、興奮した子供たちが
つかみ合いをするシーン。
映画の中の台詞を借りて言うなら、
それはまるで「ヤギのケンカ」のようだった。
森の中の小屋に
男女が隠れるシーンについても、
同じことが言える。
彼らがそこで行ったこととは、
セックスと言うより交尾と呼びたくなるような
激しく野蛮なものだった。

人間と動物の関係は、
天使と悪魔の関係に例えられるかも知れない。
周知のように、悪魔は生まれながらにして
悪魔だったわけではない。
彼らも元は天使だったのだが、
堕落して道を踏み外し、
神に背いたために地獄へ落とされ、
悪魔と呼ばれるようになったのだ。
人間もまた、理性を失えばたちまちにして
動物並みの生き物に成り下がってしまう。
この映画の中の重要な場面で、
ある人物の口から「天使と悪魔」の話が
語られた時には、
それを「人間と動物」の関係に
置き換えて理解することが
求められているのだろう。

人間の理性が
たやすく失われてしまうことを思えば、
人間と動物の違いなど
紙一重のものでしかないのかも知れない。
この映画には、人間と動物との間に
区別をつけない驚きの人物さえ登場する。
犬を飼っている女がいるのだ。
彼女にはセックスフレンドの男がいて、
彼女の所に通ってくるのだけれど、
彼女はこの男のことを
犬以上の存在としては扱わない。
男のことも大事だけれど、
犬も同じくらいに大事と言う姿勢を貫く。
まるでその犬が、
自分のもう一人の恋人であるかのように。
男が気を悪くして出て行ってしまった後も
彼女の態度は変わらない。

彼女は狂っていたのだろうか?
しかし、彼女が生きた時代を思えば、
そうとも言い切れまい。
彼女が生きたのは、
スペインが戦争に突入する時代だった。
人間が理性を失い、
動物同然の振る舞いをしようとする
野蛮な時代なのだ。
そんな時代に生きた彼女の
「人間と動物とを同等に見なす態度」は、
むしろ時代の流れに合致する正しいものだった。
彼女は時代の先を行っていたのであり、
時代が彼女を後追いで肯定したのだ。
彼女を狂人と呼ぶのなら、
その前にまず、彼女の生きた時代そのものを
狂った時代と呼ばねばなるまい。
それにしても変なタイトルの映画だなあ
と言うのが第一印象。
「天然」はともかく「コケッコー」って一体なに?
「コケコッコー」じゃなくて
「コケッコー」だと言うのなら、
真ん中の「コ」は一体どこに行っちゃったの?
この映画を見ていると、
そのような疑問に終始とらわれる。

映画の内容は、田舎の小さな学校に
転校生がやって来ると言うもの。
広海君と言う名前の少年なのだけれど、
彼の名前は見ての通り、
「ひろいうみ」と書いて「ひろみ」と読む。
それはそれでぜんぜん変じゃないのだけれど、
さっきの事があるから
どうしてもこう考えてしまう。
「ひろいうみ」じゃなくて
「ひろみ」だと言うのなら、
真ん中の「いう」は一体どこに行っちゃったの?

広海君は東京の出身で、
田舎の子供たちとは明らかに様子が違っていた。
標準語を話す彼から見れば、
田舎の子供たちの言葉遣いは
変に思えたかも知れない。
だって、その田舎では
女の子が自分のことを「わし」と言うのだから。
「わたし」じゃなくて「わし」。
ここでもまたさっきの疑問。
真ん中の「た」は、
一体どこに行っちゃったの?

言葉の一部が欠けているような感覚は、
この映画の物語に終始付きまとう。
しかもその欠落感は、この映画の主人公が
どのような性格の持ち主かを知れば、
更に意味深なものに思えて来ることだろう。

この映画の主人公は、
転校生の広海君が新たに通うことになる
学校の同級生の女の子なのだけれど、
彼女はとても優しい人間で、
学校では低学年の子供の面倒を良く見るし、
家では弟想いのお姉さんなのだった。
ところがそんな彼女にも意外な一面があって、
ごくたまになのだけれど、知らず知らずの内に
人を傷つけるようなことを
言ったりやったりしてしまうのだった。
そんな彼女を見ていると、彼女の持つ注意力には
「一部欠けた所」があるのではないかと思えてしまう。
この映画の中には小さなエピソードが
たくさん詰め込まれていて、
そのどれもがあっさりと語られていくのだけれど、
彼女のこの失言癖のエピソードだけが
唯一例外的に何度も何度も
繰り返し語られるものだから
どうしても目立ってしまうし、
そこに何らかの意味があるんじゃないかと
そう思いたくなってしまう。

彼女のその失言癖は、
もう直らないものなのだろうか?
いやいや、恐らくそんなことはないだろう。
彼女は修学旅行で東京へ行ったとき、
周りの人間をマネて標準語を使っていた。

「あることないこと
言いふらさないでちょうだい!」

しかもその旅行の最後に彼女は、
都会で暮らすことも将来的には
可能かも知れないと言う手ごたえを得た。
東京で目にした様々な事物を思い浮かべながら、
彼女はこんな風に思う。

「あんたらとは、いつか仲良うやれる日が
来るかも知らん」

彼女がいずれ上京するとすれば、
言葉遣いも標準語へと変わるだろう。
そうなれば彼女の一人称も
「わし」から「わたし」になって、
言葉の欠損が埋められる。
その段階で恐らく
彼女の注意力の欠損の方も補修されて、
悪しき失言癖も解消するはずであると言うのが、
この映画の流れ。

しかしこれで一件落着ではない。
行方不明の言葉たちの問題が、まだ残っている。
「コ」と「いう」と「た」は、
一体どこへ行ってしまったのか?
恐らくその答えは、
物語の中心的な舞台となった
学校の敷地内にあることだろう。
思い出しても見て欲しい。
この映画は鶏の鳴き声と共に始まり、
鶏の鳴き声と共に終わっていた。
どうもあの校庭の隅にある鶏小屋が
怪しいではないか。
この映画のラストシーン、
学校の子供たちが鶏小屋を覗き込んで
何かの探し物を見つけたとでも言うような
笑顔を見せる場面。
その時に彼らが見つけたものとは
一体なんだったのか?
鶏小屋には一羽の雄鶏がいて、
「コケコッコー」と鳴いていた。
それは、周りにいる雌鳥に対する求愛の歌だった。
子供らが鶏小屋で見つけたものとは、
そうした鶏のラブソング、
すなわち恋歌なのであり、
これこそ行方不明の言葉たち
「コ」「いう」「た」の正体なのだ。

主人公の女の子の失言癖にも直る見込みが立ち、
行方不明の言葉たちもちゃんと発見されて、
この映画は静かに終わるのだった。
『世界の民話』と題された古い本の中に、
こんな話が書かれていた。

むかしむかしある所に
三人の勇者がおりました。
勇者は三人の魔王と戦っておりましたが、
魔王は不死身の体を持っており、
左胸を勇者の剣に突き刺されても死にません。
実は魔王の心臓は、
深い森の奥の洞窟の中に
隠されていたのでした。
その秘密を知った勇者は森に入り、
洞窟の中で魔王の心臓を見つけました。
一人目の勇者はそれを突き刺し
見事に魔王を倒しました。
二人目の勇者は途中で力尽きて死にました。
三人目の勇者は気が変わって、
何もせずに洞窟を出ました。

この話を読んでいると、
先日見た映画のことを思い出さずにはいられない。
『群青 愛が沈んだ海の色』と言うタイトルの映画で、
南の島が舞台だった。
島には三人の男達がいて、
それぞれに悩みを抱えていた。

一人目の男は、知人の病気のことが
心配で心配でたまらなかった。
不治の病を抱えて、生きる希望を失った病人の心を、
何とかして開く方法はないかと、男は日々悩んでいた。

二人目の男は、恋人の父親に
結婚の許しをもらえなかった。
どうすればその頑固親父に
ウンと言わせられるかが、男の悩みだった。

三人目の男は、好きな女性に
想いをうまく伝えられなかった。

この三人の男たちが、それぞれの相手に
直接気持ちをぶつけてもダメなことは明らかだった。
もっと違ったアプローチで
相手の心をとらえなければ、
男たちの願いは叶わない。
しかし、それにはどうすればいいのか。

民話の勇者たちは森へと向かった。
映画の男たちは海へと向かう。
海の中には謎の海底洞窟があって、
その奥には幻のサンゴが眠っている。
男たちは、人の心の奥底にあるものを
つかみ取ろうとするかのように、
深い海の底へと潜って行く。

一人目の男は見事にサンゴを手に入れた。
彼からそれを「お守り」としてプレゼントされた病人は、
生きる希望を取り戻した。
魔王を倒した勇者のように、
この男もまた願いを叶えたのだった。

二人目の男は、サンゴを拾って来る途中で
力尽きて溺れ死んだ。
結婚の許しが得たいと言う彼の願いは、
森の中で力尽きて死んだ勇者の願い同様、
叶わなかった。

三人目の男は、
洞窟の中でサンゴを見つけながらも、
結局、手ぶらで帰ってきた。
もしもサンゴをつかみ取って帰ってくれば、
好きな女の気持ちを手に入れたいと言う
彼の願いも叶ったのだろうが、
彼はそれを止めにしたのだ。
人の気持ちを無理やり手に入れることの
愚かしさと卑劣さに、彼もぎりぎりの所で
気づいたのかも知れなかった。

勇者と魔王の物語は、
似たような話がどこの国にも伝わっている。
物語の典型と言うのは、
民話の世界ではありがちな話なのだ。
映画『群青 愛が沈んだ海の色』は、
日本の南の島を舞台にした、
もう一つの「勇者と魔王」物語だったと言えようか。

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