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冬になると、今でも思い起こすのは、我が一家が北京から逃れ、
天津の引揚者収容所に移り住んだ頃のことだ。
昭和20年の真冬であった。
広大な収容所の端に小川が流れていて、遊び盛りのぼくらガキは、その周辺にも出没した。
すると、勇敢そうな一人が氷の張ったその小川に滑り込んだ。
途端に薄氷が割れて脚がずぶり。
そうしたら、奴はあわてて地べたに這い上がった。
それを見たぼくらは、ゲラゲラ笑った図が思い出される。
氷点下10℃の寒さだっただろうか。
そんな厳寒のもと、引揚げ船を待つ多くの敗戦国民は、むさくるしい収容所で暮らしていた。
その頃のことで、うっすらと記憶しているのが、おやじは他の父親連中と異なる日々を送っていたことだ。
後年、つまり引揚げ後に姉から聞いたのは、あの当時、おやじは中国兵将校に取り入ってか、
彼らに社交ダンスを教えていたそうである。
寒さと空腹に耐える他の引揚者をょそに、日々どこかへ出掛けていたのは、それが目的だったと。
そして、帰りには、美味しい食べ物をもらって帰ってきたという。
ところで、収容所で食事を作って用意するのは。当番制だった。
男たちもそれに加わり、厨房は少し活気づく。
そんなある時、悲惨な事故が起きた。
一人のおじさんが天麩羅を揚げている最中、油が眼に入り、失明してしまったのだ。
そのニュースは、収容所内を駆け巡った。
あれから50年ほど経ってから知ったのは、「あの人は女をめぐるいざこざで、他の男と喧嘩になり、
眼を刺されたのよ」とのこと。
当時、同じ収容所で暮らし、その後も付き合っていたご婦人から聞いた話だ。
ともかく、引揚者たちは極限状態にあったのだろう。
男同士で殴り合いの喧嘩をしているところを見たこともあるし、
共同便所で男が血まみれになって死んでいるのも見た。
ぼくらガキどもは、学校へも行かず、毎日が日曜だったけれど、
オトナたちは一日千秋の思いで、無事に祖国に帰れる日を待っていたことだろう。
(つづく)
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