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敗戦国日本の同胞は昭和20年の厳冬、天津の収容所で引揚げ船が来るのを待っていた。
おとなたちは一日千秋の思いであっただろう。
そして、とうとうその日がやってきた。
全員、持てるだけの荷物を担いで船が待機する岸壁へ歩いて向かった。
10歳にも満たないぼくも、重いリュックサックを背負って。
やがて引揚げ船の近くまで来たら、我が一家の幼い妹がいないのに気付いた。
あわてるおやじとおふくろ。
すると、兵隊服を着た若い同胞が「この子を知ってますかーっ」と妹を肩に担いでくるではないか!
やれやれ。だった。
そして、引揚げ船が間近に見えたところで、大勢の人たちは争うように乗船していく。
次に、船のタラップを上がり、船倉にみんな押し込まれた。
この船はLSTと称する米軍の上陸用舟艇で、船倉はだだっ広い。
そこに難民のように、というよりマグロのように詰め込まれ、各家族は落ち着けそうな陣地を確保。
やかで出航だ。
と思う間もなく、船酔いする人たちが続出し、船倉に点々と置かれたドラム缶に嘔吐するのだった。
うちのおやじは?と探すと、もともと船酔いには無縁のようで、
どちらかというと、楽しげに船内をうろついていたように思う。
大変なのは、おふくろで、死にかかった乳児を必死に抱えていた。
この乳児は、4人兄弟の末っ子で、生後半年にも満たず、仮死状態にあったから、
母性愛が発揮されていたのだろう。
航路は玄界灘にあり、まさに冬の海の難所で、揺れに揺れて当然だった。
こうして何日かの航海の末、山口県の仙崎港に到着。
遂に晴れて祖国に帰れたのだ。
乗客みんなは嬉々としていた。
同時に、太陽が俄かにまぶしくなった。
難民同様にみんな下船してからは、それぞれ帰郷すべく別れ別れになっていく。
しかし、我が一家だけは帰れない。
瀕死の末っ子をどうにかしなければならないからだ。
そして、行く先はすぐに決まったようである。
仙崎からさほど遠くない所の小串が目下の目的地だ。
そこに旧陸軍病院があり、一家揃って入院することになったのだ。
治療を受けるのは、末っ子の弟だけだったが。
時は早春。
主におやじ、姉、ぼくの3人は、病院の前にある海辺で遊ぶ日々が続いた。
そのころ、海がキラキラ輝いていたように思う。
(つづく)
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