丑の戯言 栗田英二

体調不良につき、プロク゜投稿も途絶えがち

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我が玉響の偲び その6

 数年前の正月、テレビで『浅丘ルリ子 父の面影を追って中国へ』という番組を観た。

 中国各地へ行き、父母を慕うノンフィクション物で、感激も感動もした。
 似たような体験をぼくも味わったからだ。

 番組で出てきた街は、大連、長春、奉天、最後に北京。

 この女優の父親は戦前、中国に根を下ろした官吏で、彼女は昭和15年に奉天で生まれた。

 そして、久々に上記の各地を巡り、今は亡き父母を偲ぶのだ。

 幼い頃、父母に連れられて行った湖の淵に立ち、一葉の写真と場所が一致したところで、
 彼女は思わず屈みこんで泣きじゃくったりもした。


 似たようなことで、ぼくも10年ほど前の早春、青島(チンタオ)と北京へ単身で旅した。
 目的は思いで探しと言えばいいだろうか。

 で、青島でまず訪ねたかったのは、青島神社とその周辺だった。

 我が一家は、かつてその近くに住んでおり、姉とぼくは日本人子弟の国民学校に通っていたからだ。

 それで入学の日、ぼくは姉の後をついて登校した。
 ところが、帰りは姉にふられ、一人で帰らねばならなかった。

 不安ながら広い青島神社の杜を通り抜けて帰宅しようとしたが、どう間違えたのか、迷子になってしまった。
 そして、神社の池に架かった橋の袂で、めそめそと泣き出した。

 と、そこへ遠くからおふくろがやってくるではないか!
 それを知ったときの嬉しさといったらなかった。

 50数年ぶりにその同じ場所を訪ねてみると、そこは神社ではなく貯水山公園になっていた。

 記憶にある大きな鳥居はなかったものの、全体の雰囲気は、往時を偲ばせるに充分。

 ぼくはその周辺をうろつきつつ、あの当時のことを思い出そうとしたが、
 具体的に浮かんでくるのは、おふくろの姿だった。

 
 また、北京では一家が暮らしていた場所へ行こうとして苦労した。

 四条胡同(スーチャォフートン)一号がかっての住所で、タクシーの運転手にそのメモを渡したが、
 なかなか行き着かない。

 その周辺には新しいビルが建ち並んでおり、記憶にある街角がどこだか分からず。

 それでも、どうにかこの辺りに住んでいたとの感触を得ることができた。
 すると、怒涛のように懐かしさが込み上げてくるのだった。

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 北京で最も見ておきたかったのは、大きな公園の池にあった石舟で、そこへはすぐに行けた。

 顕和園なる公園の池にそれは昔のまま鎮座しており、すぐに往時が偲ばれた。

 そして、思い出されたのは、おやじはこんな名所によく連れていってくれたことだ。

 幼かったぼくにはそれが喜びだった。
 美しい中国の景色をたくさん頭に刻み込まれたから。

 だけど、そのおやじも、おふくろも、今はもうこの世にいない。
 それを思うと、鼻がツーンとするのだった。

                                     (つづく)

 「ラジオ人間」にとっていつも聴いている番組のテーマ音楽で好きな曲があるのは幸せだ。
 それを耳にすると、一日の区切りのように感じるし、番組への感興もそそられる。

 近頃、そのひとつとしてNHK/BS『クラシック・カフェ』が我が胸の内に浮上してきた。

 毎週月曜日から木曜日の午後2時に始まる古典音楽の番組で、
 いつの頃からか、その幕開けの曲が耳から離れなくなったのだ。

 検索してみると、フランスの作曲家ビゼーの『暁(あかつき)』の冒頭の一節で、
 端麗なピアノ曲となっている。

 何に感動するかというと、フランスでも、ヨーロッパのどこでも良いが、
 さわやかな朝の空気が優しく伝わってくるからである。

 自らそんな地に身を置き、心地良く耳に流れ込んでくる曲調と言えば良いだろうか。

 ラジオから流れるこのテーマ曲は、ほんの1分ほどの短さだけれど、
 耳にしていると、遠い昔のことどもを思い起こさせるのに充分だ。


 この作曲家は、名作『カルメン』を始め、多くの歌曲を世に出しており、
 激しい情熱が伝わるような曲調が印象深いが、こんな叙情的な曲も作曲していたのだ。

 ただし、『クラシック・カフェ』という番組自体は、叙情的とか、心に優しい曲ばかりではない。

 クラシック音楽の良いとこ取りをしているわけで、そんな起伏を耳にするのも楽しい。


 進行を担当するアナアンサーの一人が唐沢美智子で、温かみのある声と話し方には心ほだされる。

我が玉響の偲び その5

 敗戦国日本の同胞は昭和20年の厳冬、天津の収容所で引揚げ船が来るのを待っていた。

 おとなたちは一日千秋の思いであっただろう。


 そして、とうとうその日がやってきた。

 全員、持てるだけの荷物を担いで船が待機する岸壁へ歩いて向かった。

 10歳にも満たないぼくも、重いリュックサックを背負って。

 やがて引揚げ船の近くまで来たら、我が一家の幼い妹がいないのに気付いた。

 あわてるおやじとおふくろ。

 すると、兵隊服を着た若い同胞が「この子を知ってますかーっ」と妹を肩に担いでくるではないか!
 やれやれ。だった。

 そして、引揚げ船が間近に見えたところで、大勢の人たちは争うように乗船していく。

 次に、船のタラップを上がり、船倉にみんな押し込まれた。

 この船はLSTと称する米軍の上陸用舟艇で、船倉はだだっ広い。

 そこに難民のように、というよりマグロのように詰め込まれ、各家族は落ち着けそうな陣地を確保。


 やかで出航だ。

 と思う間もなく、船酔いする人たちが続出し、船倉に点々と置かれたドラム缶に嘔吐するのだった。

 うちのおやじは?と探すと、もともと船酔いには無縁のようで、
 どちらかというと、楽しげに船内をうろついていたように思う。

 大変なのは、おふくろで、死にかかった乳児を必死に抱えていた。

 この乳児は、4人兄弟の末っ子で、生後半年にも満たず、仮死状態にあったから、
 母性愛が発揮されていたのだろう。


 航路は玄界灘にあり、まさに冬の海の難所で、揺れに揺れて当然だった。

 こうして何日かの航海の末、山口県の仙崎港に到着。

 遂に晴れて祖国に帰れたのだ。

 乗客みんなは嬉々としていた。
 同時に、太陽が俄かにまぶしくなった。


 難民同様にみんな下船してからは、それぞれ帰郷すべく別れ別れになっていく。

 しかし、我が一家だけは帰れない。
 瀕死の末っ子をどうにかしなければならないからだ。

 そして、行く先はすぐに決まったようである。
 仙崎からさほど遠くない所の小串が目下の目的地だ。

 そこに旧陸軍病院があり、一家揃って入院することになったのだ。
 治療を受けるのは、末っ子の弟だけだったが。


 時は早春。

 主におやじ、姉、ぼくの3人は、病院の前にある海辺で遊ぶ日々が続いた。

 そのころ、海がキラキラ輝いていたように思う。

                                        (つづく)

日馬富士が魅せた根性

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 今年最後の大相撲・九州場所では、横綱・日馬富士が有終の美を飾って終わった。

 まだその興奮が収まらないのは、常勝に近い横綱・白鵬に際どく勝てたのがひとつ。
 軽量でありながら「全身全霊」で闘い続け、賜杯を獲得できたことへの感動もあった。

 何場所ぶりか忘れたが、横綱同士の相星決戦にも興奮を呼ぶのに充分だった。

 ともかく、日馬富士が横綱に就いた折、自らの口から「全身全霊」を宣言され、
 そのときの驚きと感動が蘇ってきたのは、最強のライバルを破ったからだ。

 モンゴル人力士でありながら、そんなことを忘れさせるほど日本人的でもあった。

 でも、日馬富士はこれで通算6度目の幕内優勝なのだから、あらためてびっくりする。


 片や今場所を盛り上げたのは、紀勢の里の健闘にもあった。

 大関在位の期間が長くなっているが、だいたい不甲斐なさで終わる場所が多かった。
 それがまるで嘘のように堂々たる相撲で、白鵬をも打ち破ったほどだから、びっくり。

 久しく聞かなかった日本人力士の綱取りが現実的になってきたのは、うれしい。

 切れ長の眼を持ち、不敵な面構えが伴って、小生は長年、この力士のファンだが、
 やっと夢を叶えてくれるのだろうか。

 ともかく、今場所は琴奨菊と琴欧州の両大関が途中欠場してしまっただけに、
 いよいよ稀勢の里への現実的な期待が高まるに充分だ。


 話は飛ぶが、「敢闘精神あふれる力士」という制度(?)があるのを知った。
 以前からあったのかどうかは分からないが、敢闘賞と結び付けられのだろうか?

 ともあれ、その対象に前頭六枚目の勢が挙げられたのには、納得がいった。
 四股名からして想起されるが、まさに敢闘精神を前面に押した出しての闘いと、その容貌に、
 大相撲観戦の楽しみを秘めているように思えた。

 小結の松鳳山も、敢闘精神を漲らせていて頼もしく、贔屓にしてるいが、
 こうした日本人力士が中堅を占めるようになると、いっそう楽しみが大きくなるだろう。

 話題という点では、前頭六枚目にまで上ってきた遠藤も、期待の眼で観させてもらった。
 あいにく、この場所は9敗を喫したけれど、今後の可能性は大きいと見る。

 髷と四股名が整い、改めて登場する日が待ち遠しい。

我が玉響の偲び その4

 冬になると、今でも思い起こすのは、我が一家が北京から逃れ、
 天津の引揚者収容所に移り住んだ頃のことだ。

 昭和20年の真冬であった。

 広大な収容所の端に小川が流れていて、遊び盛りのぼくらガキは、その周辺にも出没した。
 すると、勇敢そうな一人が氷の張ったその小川に滑り込んだ。

 途端に薄氷が割れて脚がずぶり。
 そうしたら、奴はあわてて地べたに這い上がった。

 それを見たぼくらは、ゲラゲラ笑った図が思い出される。
 氷点下10℃の寒さだっただろうか。


 そんな厳寒のもと、引揚げ船を待つ多くの敗戦国民は、むさくるしい収容所で暮らしていた。

 その頃のことで、うっすらと記憶しているのが、おやじは他の父親連中と異なる日々を送っていたことだ。

 後年、つまり引揚げ後に姉から聞いたのは、あの当時、おやじは中国兵将校に取り入ってか、
 彼らに社交ダンスを教えていたそうである。

 寒さと空腹に耐える他の引揚者をょそに、日々どこかへ出掛けていたのは、それが目的だったと。
 そして、帰りには、美味しい食べ物をもらって帰ってきたという。


 ところで、収容所で食事を作って用意するのは。当番制だった。
 男たちもそれに加わり、厨房は少し活気づく。

 そんなある時、悲惨な事故が起きた。

 一人のおじさんが天麩羅を揚げている最中、油が眼に入り、失明してしまったのだ。
 そのニュースは、収容所内を駆け巡った。

 あれから50年ほど経ってから知ったのは、「あの人は女をめぐるいざこざで、他の男と喧嘩になり、
 眼を刺されたのよ」とのこと。

 当時、同じ収容所で暮らし、その後も付き合っていたご婦人から聞いた話だ。

 ともかく、引揚者たちは極限状態にあったのだろう。

 男同士で殴り合いの喧嘩をしているところを見たこともあるし、
 共同便所で男が血まみれになって死んでいるのも見た。


 ぼくらガキどもは、学校へも行かず、毎日が日曜だったけれど、
 オトナたちは一日千秋の思いで、無事に祖国に帰れる日を待っていたことだろう。

                                        (つづく)


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